前編
『あ……あの。ありがとうございました騎士様』
この世界に来て初めて会った人間は、大層素敵な騎士様だった。
獣に襲われかけ、為す術もなく地面にへたり込んでいた私を助けてくれた騎士様。私がお礼をいうと騎士様はその麗しいお顔にこれまた麗しい笑みを浮かべた。
騎士様は、本当にお美しい顔をしていた。黄金の髪に青い瞳、白銀に輝く甲冑に身を包んでいなければ、騎士様ではなく王子様と呼んでいたことだろう。
その美しさに見蕩れていた私に、騎士様は言った。
『気にしないで。民を救うのは騎士として当然のことだから。では私はこれで』
言うや否や、騎士様はひらりと馬に飛び乗った。
『え? あ、あの……』
ちょっと待って下さい―――!
必死に呼びかけるも、すでにそのお姿が豆粒ほどの大きさになっている騎士様に、私の言葉が届くことはなかった。
縋りつくように前に伸ばした手をそのままに、私は茫然として騎士様が去って行った方向を見つめた。
そして思いを馳せる。
なぜこのようなことになったのか。そのことのはじまりに――。
気づいたら突然森の中で突っ立っていた。
本当に突然、何の予兆もなく。
つい先ほどまで私は飲み会の帰り、通り慣れた道を歩いていたはずなのに。
ちなみに飲み会帰りだが酔ってはいない。ビールは一杯ほど飲んでいたが、普段は確実に五杯以上は飲めるので、何か怪しい薬でも入れられていない限り確実に酔ってはいない。
マンホールにも落ちていないし、階段からも落ちていない。もちろんトラックにも轢かれていない。なのに何故、気が付いたらこのような鬱蒼とした暗い森に私は一人で佇んでいるのだろう。
あまりの出来事に私の脳は状況の把握を拒んだ。現実を見なかったことにした。何となく頭は霞がかったようにはっきりとしていないし、身体も重い。ならばこれは夢だと結論付けた。
「あは……夢よ、夢。これはきっと夢」
きっと私は無意識に自宅に帰り着き、いつも通りスーパーで買ったお惣菜で夕食を済ませ、熱いお風呂に入ってからシーツを替えたばかりの布団に包まり速やかに眠りについたのだろう。
それで……そう。
今日はちょっと飲み会で嫌なことがあり精神的に疲弊していたので、悪夢を見たに違いない。
年に一度連絡が来るかどうかという友人に頼まれて無理やり参加させられた飲み会は、つまるところ合コンだった。
男性陣は皆世間でいうところの一流企業に勤めており顔が良く服のセンスも良い。女性陣は私を除けば綺麗系や可愛い系で揃えてあり、私は明らかにただの人数合わせか、あるいは引き立て役だ。
これは決して私の被害妄想ではない。私一人トイレに立って席に帰って来たときに、残った面々で話しているのを聞いてしまったのだ。
『あの子、理世ちゃんだっけ? 名前は可愛いのにね。加奈子ちゃんの代わりって言うから期待してたのにな~。残念』
『んなこと言うなよ。ちょっとタイプが違うだけだろ? でもまあ、この面子じゃあの子も居づらいよな』
そう言って私以外の女の子の機嫌を取りつつ、にまにまと愛想笑いを振りまいていた男性は、派手で遊んでいそうな男性陣の中で一番控えめで、私がほんのちょっといいなと思っていた人だった。
自分が綺麗でも可愛くもないことなんて、知っていた。辛うじてまだ二十代だが、あと数年もすればそんな強みとも言えない強みさえなくなってしまう。そもそも若さに縋っている時点で私の女としての底が知れるというものだろう。
メイクで誤魔化してはいるが、こんな元の作りからして違う人達の中に放り込まれてしまえば、作り物だということは一目でバレる。あの男性はそこまであからさまには言っていなかったが、あのキラキラした人達との飲み会は、私にとって正に場違いだったのだ。
トイレから何も気づいていない振りをして席に戻った私は、急用が出来たからと言ってその飲み会を途中で退席した。どうせ二次会まで進んだとして私は呼ばれないだろうし、もとから乗り気ではなかったし。そう自分に言い聞かせて、こみ上げてくる涙を必死に堪えながら店を後にした。
久々に、心がガツンと殴られたような痛みを覚えた出来事だった。だからだろう。こんな夢を見たのは。
私以外誰もいない。この薄暗い森の中で一人彷徨うような、こんな寂しい夢を――。
「やだな……すっごいリアルな夢。何か……ちょっと寒さも感じるし、土? の匂いもする」
極めつけは私の数メートル先の茂みでガサゴソと蠢いている圧倒的な存在感を放つ何かだろう。ぐるる、という唸り声から判断して、どうやら猛獣系だと思われる。
(……熊? それとも、猪?)
夢だとはわかっていても、湧き上がる恐怖はコントロールできない。私の足はカクカクと小刻みに震え出した。
(大丈夫……夢だから。襲われそうになったところで目が覚めるから……)
けれど出来れば襲われる前に目を覚ましたい。悲鳴を上げて飛び起きるなど、両隣の住人に迷惑過ぎる。都会の部屋の壁の薄さを舐めてはいけない。
右隣の若い女性の住人はまだ良いが、左隣の住人は結構怖そうな派手な見た目のお兄さんだ。挨拶をしても返って来たためしがない。真夜中に悲鳴などを上げたら、それこそ真夜中にも関わらず部屋のドアを叩き文句を言いに来るかもしれない。
(あるいは、心配してくれるかな……?)
ふと、そんなメンヘラなことを思ってしまったけれど、まあどちらにせよ迷惑なことには変わりない。
私は必死に布団で眠っているはずの自分に、目を覚ませ、目を覚ませと指令を出す。けれど一向に目覚める兆候を感じない。そうこうしている間にも唸り声はこちらに近づいて来るというのに。
「もう! 何で覚めないの!」
恐怖に耐えかねた私は、うっかり大声を出してしまった。その声に反応するかのように、茂みの中で蠢いていた何かが動きを止めた。それは恐ろしい沈黙だった。
本能的に危険を察知した私は数歩後ずさったけれど、私の反応よりも茂みの中の何かの反応の方が速かった。
茂みの中から飛び出して来たのは、赤黒い被毛の大型犬ほどの動物だった。私はとっさに逃げようとしたが足がもつれてその場で尻餅をついてしまった。しかし幸いにもそのドジのおかげで獣の第一撃を躱すことが出来た。
獣はすぐには再度の攻撃を仕掛けてくることはなかった。しかし逃げることは不可能だ。すでに腰が抜けている。
唸り声をあげる獣が徐々に近づいて来る中、私は悲鳴さえ上げることが出来ずに、じっとその獣と視線を合わせていた。
カタカタと震えながら私が荒い呼吸を繰り返していたのは、おそらく数秒ないしは数十秒ほどのことだろう。痺れを切らした獣が鋭い牙を剝き出しにしてこちらに向かって飛び掛かって来る姿に、私は堪らずきつく瞳を閉じた。
(大丈夫……。これで夢からは覚めるはず)
はっきりと言葉でそんなことを考えるだけの時間と余裕がその時の私にあったのかどうかは定かではないが、とにかく私はどんな形であれ、これでこの悪夢に終わりが訪れるだろうことを確信していた。
そして私の期待通り、いつまで経っても獣の牙は私には届かず、不気味な静寂が周囲の空気を支配している。
けれどおかしいのは、目が覚めたはずだというのにどう考えてもここが暖かい布団の中ではないということだった。
(あれ……なんで? 夢から覚めてない?)
獣からの攻撃は届かないのに、夢から覚めていない。
なぜだろうと、私はおそるおそる目を開いた。
そして目の前に現れた光景に、思わず閉じていた口をだらしなく開いてしまった。
私の目の前にあったのは、真っ二つに切り裂かれたあの獣らしき物体。
獣の身体の下には大きな血だまりが出来ている。目の前でどんどんと広がっていく赤に、血の気が引いた。こんな風に死んでいく生き物を見たのは初めてだった。
その物体を意識した途端に、濃厚な血の匂いが鼻に届き、私はその場でえずいた。飲み会では乾杯のビール一杯以外ほとんど飲み食いしていなかったため、実際に何かを吐くことはなかったが。
「……嘘、何で?」
何故、目の前の動物はこんな無残な姿で死んでいるのか。
別に同情したわけじゃない。けれど私は獣の断末魔さえ聞いていないし、誰が、あるいは何がこの獣を殺したのかもわからない。ここには私しかいないはずなのに――。
そう思った瞬間、私は更なる窮地を予想した。こんな森の中にいる存在など、新たな獣以外いないのではないかと。
しかし私のその予想は背後からかけられた声によって覆された。
「大丈夫かい? お嬢さん」
いつの間にか私の後ろには誰かが立っていた。
私の後ろからどうやってあの獣を倒したのかはわからないけれど、この人が助けてくれたことに間違いはないだろう。こちらを案ずる様子の優しい口調からも、私は背後に立つ人物が敵ではないと判断し安堵する。
固まってしまった身体を無理やり動かし、私は背後を振り返り―――。
そして再び固まった。
そこにいたのはおとぎ話の王子様もかくやという、絶世の美青年だったからだ。しかも美青年の傍には、これまた美しい毛並みの白馬が控えている。なおかつ、その美青年がなぜかどう見ても騎士のコスプレをしているという事実に私の混乱は窮まった。
(……サバイバルゲーム?)
最初に浮かんだ感想はそれだった。
美青年が手に持っているものは銃ではなく剣だし、身に着けているものはミリタリー装備ではなく甲冑だ。だが世の中には騎士に扮して狩りをする変わり者もいるのかもしれないではないかと思いつつも、はたしてアイテムとして馬まで用意するかな? という疑問も無視できない。
(あ……でもこれって私の夢の中だった)
ということは、まさかこの美青年は私の願望が生み出した存在なのだろうか。こうやって絶望的なピンチを助けられることを私は深層心理で望んでいた? しかも絶世の美青年に?
(いや……さすがにそんなはずは……)
無いと思いたい。さすがに白馬に乗った王子様に憧れる年齢はとうに過ぎている。
けれど私はこの状況を夢だと思っていたし夢だとしか考えられなかった。道を歩いていて突然別の場所に移動しているなんて、それこそ小説の中だけでしかありえないことだ。
まあ、いまだに目覚めることなく夢が続いていることだけが不思議だったが。
茫然と騎士様(本当に騎士かはわからないが騎士様と呼ぶことにした)を見つめる私に、騎士様は困ったように微笑んだ。そんな表情もまた麗しい。
「大丈夫? 怪我はない?」
「……えっと。はい。ありません」
本当はちょっとだけお尻が痛い気がする。きっと尻餅をついた時に痛めたのだろう。けれどそれを騎士様に言うのも憚られたし、ただの打ち身なのだから放っておけばすぐに治るだろうと思い言わなかった。
それにこれ夢だし。起きたら痛みもなくなっているし。
「そうか。それは良かった。ここら辺に住んでいる子かな? あの獣がこの周辺に出るのは珍しいけど……森の中はもう暗いし、念のため今日はもう帰った方がいいだろうね」
「え? いえ……でも……」
帰った方が良いと言われても帰り方がわからない。というより何故か危機的状況は脱したというのにいつまで経っても夢から覚めない。
一向に覚める気配のない夢に、私もさすがにこれはおかしいのではないかと思い始めた。
(まさか……本当に夢じゃないの?)
これは夢ではないかもしれない。そう思った途端、靄がかかったようになっていた思考も明瞭化し、何となく重かった身体の主導権も私の手に戻って来た。何だかさきほどよりもお尻の痛みが増した気さえする。きっと脳がこれは現実だと認識したことで、戸惑いのために滞っていた電気信号を身体に向けて強く発信しだしたのかもしれない。
よくわからないけど。
(でも、夢じゃないなら……何なのこれは)
夢ではないとしたら、お世辞にも都会とは言えないこの鬱蒼とした森の中に一人いることも、今目の前で両断されている見たことのない獣も、この騎士のような恰好をした美青年も、すべてが現実ということになってしまうではないか。
「ねえ、君?」
呼ばれて顔を上げた私は、若干不審者を見る目つきをしている騎士様と目が合った。それはそうだろう。今の私は獣に襲われるという体験から来る恐怖と動揺を除いたとしても、かなり挙動がおかしいはずだ。
「あ、いえ、あの……えっと」
何と答えたものかと悩んだ私は、意味もない言葉を繰り返す。そんな私にますます騎士様が不審そうな表情をしたが、私にはどうしようもない。
一種の逃避行動だったのか、それにしても本当にこの騎士様は美しいな、なんて、私はこの場にそぐわないことを考えていた。金の髪はこの薄暗闇の中でさえ輝いているし、青い瞳は鮮やかだし、整った容貌は芸術品のように美しい。
あの飲み会に来ていた男性陣がモブに見えるほどに、騎士様のスペックは高い。しかも獣に襲われそうになったところを助けてくれるなど、紳士にも程がある。
騎士様の美貌に当てられた私は、頬が熱くなるのを感じた。と同時に大切なことに気づく。
(あ……そうだ。お礼言ってない)
危ういところを助けて貰っておきながら、私はまだ騎士様にお礼も言っていなかった。いくら動揺していたとしても、大人としてあるまじきことだ。
「あ……あの。ありがとうございました騎士様」
「気にしないで。民を救うのは騎士として当然のことだから。では私はこれで」
「え? あ、あの……」
やっぱり騎士様で合っていたんだ、などと暢気に思っていると、騎士様は白馬に颯爽とまたがってしまった。あまりのあっさり具合に、呆けてしまう。先ほどまでの不審者を見る目つきは何だったのだ。職質くらいされると思っていたのに。
さらに騎士様は馬の手綱を引き、くるりと私に背を向けて走り出してしまった。
(嘘……もう行っちゃうの⁉)
もしこれが夢ではないと言うのなら、聞きたいことが山ほどあった。それに騎士様にここで去られたら、次はいつ人に会えるかもわからないのだ。
「ちょっと待って下さい――!」
けれど私の叫び声はどうやら騎士様には届かなかったらしい。騎士様の姿はあっという間に豆粒ほどの大きさになってしまった。
騎士様の去って行ったあと、一人残された私は血の匂いに何度かえずきながらも、痛むお尻を何とか誤魔化し、どうにかその場から離れとぼとぼと歩き出した。
今日は一応気合を入れてスカートを着用していたが、靴はぺたんこ靴だったのは幸いだった。この森の中をピンヒールで歩くことにならなくて本当に良かった。
途中ホーホーというフクロウみたいな声や、ウオーンという狼のような声が聞こえてきて、心底ぞっとした。
ていうか、ウオーンって鳴き声さっきの獣じゃないの?
びくびくしながらも小一時間程歩いた私はようやく森の中に立つ一軒の家に辿り着いた。すでに真っ暗になった森の中、その一軒の家から漏れる橙色の明かりに、緊張していた心がほっと和んだ。ほっとしすぎて涙が零れた。
「……人が、いた」
これから誰が住んでいるのかもわからない家の扉を叩こうというのに、私は泣きじゃくっていた。きっとメイクはぐちゃぐちゃ、目からは黒い涙を流していたことだろう。夜、扉を開けた向こう側にはいて欲しくない部類の人間だ。けれど他人にどう思われるかを気にしている余裕など、この時の私にはなかった。
「助けてください!」
そう言ってドンドンと扉を叩いていると、しばらくして人が出てきてくれた。私の姿を見たその人の目は、驚きに丸くなっていた。とても優しそうなおばあさんだった。おばあさんの顔を見た瞬間、私の目からはさらに涙が溢れて来た。
「あらあら……あなた大丈夫? 何があったの?」
恥も外聞もなく怖かったと泣き叫ぶ私の手を、おばあさんの皺だらけの手が包み込んだ。おばあさんはずっと泣き続ける私を家に招き入れ、温かいお茶を出してくれた。
おばあさんが震える手で淹れてくれたそのお茶は、冷え切っていた私の心と身体を温めてくれた。
そうやって――。
ようやくたどり着いたそこが、この世界での恩人となる人の家。短い間だったけれど、生きる術を、そしてこの世界で家族の温もりを与えてくれた大切な人の家。
そして、この暖かな光を灯す家が、これから先私が一生暮らしていくことになる家だなんて、当然、この時の私は知る由もなかった。
♯
向こうにいた時には、異世界トリップもののネット小説をたくさん読んだ。
トリップした先で稀人とか落ち人とか聖女様とか言われて崇められたり、一途な獣人に番認定されたり、素敵な騎士様に護られたり、俺様な王子様に見初められたり。
いいなあ、と思っていた。私もそんな素敵な経験をしてみたいって。
けれど現実はそう甘くなかった。
出会った騎士様は危ないところを助けてくれてもそこで終了。獣人なんてこれまで一度も見たことないし、こんな田舎に住んでいては王子様とお知り合いになる機会なんて普通ないし。
それに主人公の容姿は特別綺麗でも可愛くもなく普通って描写も多いけれど、でもそれは素敵な男性にとって恋愛対象になる程度の普通ってことだと私は思っている。
本当に普通の、合コンで残念だと言われる類の人間がもし異世界にトリップした場合、物語のようなことにはならない。絶対に。
聖女として召喚される人だって、自分では普通と言いながらもそこそこ見目の良い女子であって、間違っても私のような不細工一歩手前の人間はお呼びでない。
けど――。
今の私は不細工一歩手前などと言って自分を卑下しているけれど、向こうの世界にいたときは別に自分の容姿をそこまで悪いなんて私だって思っていなかった。今の私は自分史上最低最悪に、自分の価値を低く見積もってしまっているのだ。
それはきっとこの世界に来ることになった直前の出来事と、この世界に来た直後の出来事が、私の心に影を落としているせいだろう。
決して美人でも可愛くもない。本当の本当に普通。人によっては不細工扱い。肌も髪も特別綺麗じゃないし、スタイルだって少し太め。
――若干仕事のストレスによる劣化が見込まれるかも知れないが、それでも取り立てて誇れるものは持っていない。
一発逆転を狙って美醜逆転の世界であってくれなんて願っていた時期もあったけれど、よくよく考えなくても異世界に来てから早々獣に襲われそうになったところを助けてもらったキラキラしい騎士様に、これはあくまで仕事の一環です的な態度でさっさと去られてしまったのだから、美醜逆転世界もまああり得ないだろう。
あるいはあの騎士様が単なる無神経野郎だった可能性もわずかながら残っている。普通あの薄暗い森の中、血と臓物の匂いのする場所に女性を一人で残して行くだろうか。血の匂いに惹かれ他の獣が寄ってきたらどう責任を取ってくれるのか。
けれどあれ以上私と関わり合いになりたくないと思っての行動なら、なんとなく理解は出来る。
助けた相手に惚れられるなんて、この世界じゃなくても意外とよくあることだ。ピンチを助けてくれた人って、二割増し格好良く見えてしまうあれだ。いや五割増しかも知れない。しかも助けてくれたのがあんな美青年なんて、そんなの助けられた相手は惚れるに決まってる。
あの時の私は惚れないまでも騎士様の美貌にぼうっとなっていたし、だからこそ騎士様はそんな私に縋られる前に姿を消そうとしたのかもしれないと――そう思った。
しかしそのことについては深く考える程ダメージを負いそうだったので、忘れることにした。もう二度と会うこともないだろうし。
まあそんなことよりも――。
私はあの時騎士様がどうやって私の背後からあの獣を両断したのか不思議に思っていたのだが、その謎は私を助けてくれたおばあさんが解いてくれた。
実はこの世界、魔法が存在した。
誰でも使えるものではないらしいが、貴族なら使える人間は多いらしい。
助けて貰った家の住人――アンナおばあさんに騎士様に助けて貰った経緯を話したところ、きっとその騎士様は魔法で獣を退治したのだろうと教えてくれた。となるとあの騎士様は貴族なのだろう。この町の外れに王国騎士団の駐屯地があるため、町には騎士様が時々やってくるそうだ。
ちなみにその獣はおばあさんの話によると狼と熊を足して二で割ったような生き物らしい。かなり凶暴で攻撃的な猛獣で、あの騎士様が通りかからなければきっと私は殺されていたとのこと。
うん。やっぱり騎士様には感謝しないといけない。
しかも騎士様も言っていたが、その獣が私のいた付近に出ること自体がかなり稀ではあるようだ。普段はもっとずっと森の奥深くに生息する生き物らしい。
たまたま通りかかった騎士様に助けられたのは運が良かったと言えるし、その後アンナおばあさんに助けられたのも同じく運が良い。
けれど稀にしか出ない獣に出会ってしまったこともそうだが、そもそもこの世界に来てしまったこと自体、運が良いとは言えないだろうと私は思っている。私には魔法だって使えないし。
本当の本当に、この異世界トリップ―――。
「私に何のメリットもないよ、神様……」
そう呟いたところで目の前に人が立ったことに気づいた私は、遠くへ逃げ出していた意識をさっと引き戻す。そして目の前に立った人物を見上げた。
「……やあ、リセ」
太く響く重低音に、腰から背中にかけてぞわぞわとしたものが這い上がって来た。けれどそんな様子はおくびにも出さず、私は目の前のお客さんに対応する。
「こんにちは、カッシュさん!」
私の目の前には常連さんであるカッシュさんが立っていた。
カッシュさんは身長百六十以上はある私が見上げるほどに大柄だ。百九十以上はありそう。そしてかなりガタイがいい。
私はチラッと、一瞬だけカッシュさんの身体全体をチェックする。きっとあのシンプルな作業着の下には良質な筋肉が隠れているはずだ。
「今日はそれとそれと、あとそのパンを包んでくれ」
カッシュさんが太い指で、陳列されているパンの中から欲しいものを指し示す。
「はい。ちょっとお待ちくださいね」
私はカッシュさんが選んだカボチャを練り込んだデニッシュと、炒めた肉と野菜を中に入れたお惣菜パン、そしてハンバーガーを紙に包んだ。それらをつぶれないように気を付けながら、まとめて紙袋に入れる。
「……ハンバーガー、まだ残ってて良かった」
カッシュさんの呟きに、私は小さく微笑む。大きくて分厚い肉の挟まっているハンバーガーは、特に肉体労働に従事する男性客に人気なのだ。
「今日は肉が安く手に入ったから、ちょっと多めにつくったんですよ」
しかもミンチ肉を使っているので、肉屋さんと直接交渉すればそれぞれの肉の切れ端などが安く手に入るのだ。
現在、私は町のパン屋さんの従業員として働いている。
この世界に来たばかりの頃は生活様式の違いに若干苦労したものだが、トリップ特典だか何だか知らないけれど言葉にだけは不自由しなかった。文字は書けないが読むことは出来る。そのことだけは神に感謝してやってもいい。異世界トリップさせた時点で評価はマイナスだったけど。
「はい。お待たせしました。600ペリトです」
紙袋に入れたパンを渡すと、カッシュさんはポケットから財布を取り出しお釣りの出ないように支払ってくれた。レジなんてないこの世界、咄嗟のお金の計算はまだまだ慣れていないので忙しい時には大変助かる。
お金を手渡された時にカッシュさんの大きな手が一瞬だけ、私の掌に触れる。太くて、節くれだった指を持つ大きな手だ。心なし、私の体温よりも高い気がした。
私はほんの少しだけドキドキしながらも、それを顔には出さないように気を付けた。
カッシュさんは町で大工をしている。強面の顔に、大きな身体。日に焼けて黒い肌。カッシュさんからはいつも土と木の匂いがする。
カッシュさんも私と同じで、決して美男でも特別イケメンでもないけれど、真面目で仕事熱心だと評判で、そんな誠実さが顔にも現れている人だ。そして強面のカッシュさんだけれど、笑うと途端に可愛らしい印象になる。
ちょっと濃い目の灰色の髪をしていて、そして光の加減によって薄い紫にも見える灰色の瞳をしているのだ。はじめてそのことに気付いた時には、思わず感動してしまい、無意識に口角が上がってしまっていた。その時の私はきっとニマニマしていたことだろう。
元の世界では見ることのなかったその色彩に、いつも私は一瞬見惚れてしまうのだ。
「……リセ」
「はい?」
口数は少ないけれどいつも堂々としているカッシュさんが、珍しくも落ち着かない挙動で口ごもっていた。けれど、後ろに並んでいるお客さんからせっつかれ、ハッとしたように「じゃあ、また明日」と言いながらそそくさと背を向けて行ってしまった。
(何かな……?)
カッシュさんのことは気になったけれど、今はお昼時でありお客さんも多く来る。私はすぐにカッシュさんのことを忘れ目の前のお客さんの対応に集中した。
夕方。
窓からは傾いた夕陽が差し込み、店の中全体をオレンジ色に染めていた。もうこんな時間かと思っていた私の耳に、丁度五時を知らせる鐘の音が響いた。この鐘の音が鳴ると店じまいの時間だ。
「リセ。今日もお疲れ様だったね」
「お疲れ様でした。ロレッタさん」
私に労いの言葉をかけてくれたのは、この店の店主の奥様、ロレッタさんだ。すると今度は奥の厨房から出てきた店主のロジーさんからも同じように声をかけられた。
「お疲れ、リセ」
「ロジーさんも。お疲れ様です」
やせ型で無口なロジーさんとふくよかな体型でよく喋るロレッタさんは、体型も性格も何もかも反対ながらとても仲が良い。
感情を表に出すのが苦手なロジーさんはいつも無表情に近いが、ロレッタさんはいつも朗らかに笑っている。そしてロレッタさんのそんなところがアンナおばあさんによく似ているのだ。
別に二人は親戚でも何でもないし年齢も結構離れているのだが、年の差を越えて気が合った二人は無二の親友だったのだと、ロレッタさんは常日頃から懐かしそうに二人の昔話を私に聞かせてくれた。
この世界に慣れていない、そしてこの世界に身寄りのない私がこの店で働けているのも、アンナおばあさんとロレッタさんが友人だったため、融通を利かせて貰ったおかげだった。
「リセ。今日の分のまかないだ。持って帰りな」
つい、とロジーさんが私に向かって紙袋を差し出した。
この中にはいつもどおり、余った生地で焼いたパンが入っている。ほとんどがプレーンだが、たまに生地に豆や干した果物が練り込んであることもあった。
パンはほとんどいつも売り切れてしまうので、本当なら生地は余らない。だからこのまかないは最初から生地を取り分けて置き、こうして帰り際までに間に合うよう私のためにロジーさんが焼いてくれているものなのだ。
わざわざ私の分を焼いてくれるなど申し訳ないと、一度それとなく伝えたことがあった。しかしロジーさんには「俺がやりたくてやっている。気にするな」と一蹴されてしまった。そんな私たちのやりとりを、ロレッタさんが横でにこにこと見つめていた。
色々と気にかけてくれているんだろうなと思えば、その好意を無下にすることも憚られたので、それからは有難く受け取るようにしている。それが一番、ロジーさんたちの好意に報いることになるのかなと思ったから。
「ありがとうございます!」
ロジーさんから袋を受け取り、私は心からの感謝を込めてお礼を言った。
ロジーさんの作るパンは本当に美味しいのだ。元の世界のようにふわふわではないけれど、もっちりとした生地は腹持ちが良く、味わい深い。火で炙っただけでも、とても美味しい。あるいは蒸すことによりさらにモチモチになる。どちらを選ぶかはその日の私の気分次第だ。
そこに夜はスープ。朝は紅茶か珈琲を付ければ、それだけでもご馳走になる。スープは昨日の残りがまだあるから、家に帰ったらすぐに夕食にすることが出来るだろう。
(となると……スープを作らない分少し時間に余裕が出来るから、今日はゆっくりとワインでも飲もうかな)
この世界にも様々なお酒はあるが、質が良いものはやはり高い。ワインも庶民が手に入れられるようなものは濁っているのが普通で、透明なものはそれこそ庶民にはおいそれと手が出せない値が張る代物だ。
今日私が飲もうとしているワインは庶民御用達の濁り酒のようなものだったが、実は私の家には紅い宝石のような高級ワインが眠っている。
その高級なワインは、先日ロレッタさんとロジーさんからプレゼントされたものだ。
そのワインは以前お二人が知人から頂いたものらしいが、二人はお酒を飲まないのでずっと寝かせておいたらしい。そんな高級ワインは、私がお酒を嗜むと知ったお二人のご厚意によって、今は私の家の台所の棚に大切に保管されている。
一度封を開けたら大体一週間を目安に飲み切って欲しいと言われていたため、いつまで経っても開ける勇気が持てなかったのだ。だから私はその美しい色をしたワインを眺めつつ、安物の濁ったワインを飲むという日々を過ごしている。
(まあ、でも濁っていても美味しいんだけどね)
むしろ野性味があって、好きな人はかなり好きな代物ではないかと思っていた。実際に透明なものよりも濁ったワインを好む人も多い。まあ、手に入らないからという事情もあるのかもしれないが。
とにかく、夕食のことだけではなくこの世界で食事にお酒を付けられるほどに安定した生活を送れていることにも安堵と幸福を感じた私は、自然と頬を緩めた。そんな私を見たロレッタさんと、そして珍しくロジーさんも微笑んでいた。
「……今のリセを見たら、アンナも安心だろうよ」
ふいにロレッタさんが零した言葉に、私は私を拾ってくれた優しいおばあさんのことを思い出した。