第十六話
馬車は彼らの前に近づいていく。
てっきり、殿下の手が回ったのだ。
そう思って覚悟していたものだから、男たちが屋敷の下男ばかり、顔見知りの者たちだったことに驚きの吐息が漏れる。
「旦那様がお待ちです」
「……そう。お父様は知られているのね」
「はい、お嬢様。旦那様は、皆に急ぎ仕度をしろと命じられております」
「仕度? なんの?」
詳しくはお父様に訊いてくれと促され、私は二階にある書斎に向かった。
ああ、どうすればいいのだろう。
家人たちには暇をやるのだろう。
いきなり職を失えば、彼らも困ることになる。路頭に迷うことになるからだ。
その前に家財を処分して分け与えるつもりなのかも、と考えながら書斎の前に立つ。
そこにはいつも侍女が立ち、お父様の指示を待っている。
彼女は私を目の端に認めると「お嬢様です」と室内に声をかけてから、扉を開いた。
「遅いぞ! どこで何をしていた」
入室と同時に、父のおしかりが飛んでくる。
殿下と揉めたとしか言えない。
あの紳士のことは秘密にしておくべきだろう。
彼を売り渡すようで、そうするのがただしいように思えた。
「あ、お父様。申し訳ございません‥‥‥その、殿下と」
「話は後だ、行くぞ!」
「行くって、どこに? 門のところで下男から仕度をさせていると聞き及びました。なにをしようと‥‥‥」
「決まっているだろう。聖教国だ!」
「せいきょう‥‥‥こく? それって、聖女様のあの聖教国?」
そうだ、とうなずくと父は椅子から立ち上がる。
これまで幾度か目にしたことのある怒りを含んだ荒々しい態度に、私は首をすくめた。
「出しなさい」
「は? なにをですか」
「これをだ!」
あまりにも突然のことでその場に立ち尽くしていた私の方に歩いてきて、いきなり右手を掴まれた。
そして――父親はどこか憤慨した様子のまま、私の薬指に輝いている婚約指輪を忌々しそうににらみつけた。
「これだ。外しなさい」
「え、でも。これは殿下からの‥‥‥」
「外しなさい!」
有無を言わさない口調に、押し切られる形でそれを奪われるようにして、指輪は父親の手の中に移動する。
こんなもの! と父は叫ぶと、魔法の火を手のひらに起こし、指輪を跡形もなく燃やし尽くしてしまった。
「あっ……そんな。お父様、それは婚約指輪‥‥‥」
「知っておる!」
「ひっ!」
勢いよく、左腕のシャツが腕の真ん中まで引き上げられてしまった。
そして、あれが明らかになる。
これまで侍女たちお願いして父親には伝わらないようにしてきた、あの鞭の跡が。
そこにはあったから。
「いやっ、やだっ、見ないで、嫌っ。お願い、お父様‥‥‥見ないで」
「隠さなくても知っておる」
「どういう‥‥‥」
「この屋敷の主はわしだ。お前が家人たちに秘密にするように命じてそうさせていたことは、とうの昔に知っておる」
「そんな―ー!」
父が発した衝撃の内容に、心がざわついた。
知っていたのなら、どうして助けてくれなかったの。
そう叫びたい私が‥‥‥そこにいた。




