第一章・六話
夜が更ける。庵には、五業の婆様、山号の爺様、そして白居が、残されていた。石燈籠のように座布団にくつろぐ二人と、神妙な面持ちの白居。山号が切り出す。
「夜も更けた。店も閉まっただろう。どれ、店の方に移動するかの。ここじゃとちと寒いじゃろうて。店主には言ってある。朝には切り上げるから、と。」
もと来た地下の通路を歩く三人。白い石灰質の壁はところどころ松明のせいか煤けている。
楼都のメインストリートの幅は、海荒町の三倍くらいはあった。路に立つ市の規模も
それに見合った立派なものであった。質の良い土壁に並ぶ灯明のすすが、固まった影のようにその白い平面に付着していた。道に面して工房が軒を連ねる地区では、火を焚く熱気や金属を打つ音などがけたたましく鳴っていて、しかも昼夜に渡り火を絶やさない工房もあり、不夜城の様相を呈していた。さらにメインストリートの終点、その地区の中心には、工房が幾重にも重なった建物群があった。この町の機関部だ。ここに建っている直方体を歪に積み上げた建物は、夜になると朗々とその窓から灯台のように光を放つ。その様子が、幾つもの目を持っている巨人のようであったため、その建物群を総称して〝赤目〟と呼ばれていた。二キロメートル四方は在ろうかという敷地に、其々機能を分担した工房が、幾本か建っている赤目の窓の一つ一つであり、また化成装置を置いた施設がそれであった。黒顎山塊などで採れる特殊な鉱石から幽素を抽出していた。その機序や仕組みもエネルギー源も海荒町の炉とは異なるが、似た結果を残していた。一点異なるのは、海荒町では抽出された幽素を奏運に使うのに対し、楼都では幽素は特定の現象の起こる確率を高める不思議な物質としての位置づけだった。奏運は基本的に結果オーライの技術で用途は幅広い。国運から明日のご飯まで大小さまざまに作用する。楼都では、具体的に干ばつの起こる確率を下げたり、争乱の起こる確率を上げたりする。楼都の方が便利の良い使い方をしているように感じられるかもしれないが、特定の自然現象を人為的に起こしたり起こさなかったりするせいで、楼都の繁栄は、海荒町から見れば肥大化してしまい、自然世界の理と対立し、軋轢を起している。
連なる工房の灯に頬を照らされながら、白居は数晩前の事を思い出す。山号と五業からこんこんと聞かされた、古い奏運と楼都のエピソードだ。
・・・今より五百年ほど昔。東の村は楼都と呼ばれる大きな町になっていた。虎河流域に出来た海荒町の五倍ほどの人口と経済規模である。この時、数百年単位で巡る災厄が、また始まろうとしていた。
海荒町には、リイウと言う名の銀髪の美しい巫女がいた。流雲の民の長だった彼女は、一人の楼都の男性と秘かに恋をしていた。鍛冶工の英嶺だった。英嶺は心優しく、何の理由か路傍で悪童に苛められて、顧みもされず傷ついた甘鳴を介抱してやった。その甘鳴がリイウの飼っていた甘鳴で、恋はそこから始まったのであった。英嶺は、しばしば虎河の河原に新しい鉱石を探しに来ていた。さらさらと流れる虎河の支流、そこでリイウと逢瀬を重ねていたのだが、ある時また、英嶺と奏運を強く結ぶ事件が起こる。午後、日の暮れる前に、約束の刻よりもずいぶん早くに河原に着いた英嶺の耳に、葦の群落から騒がしい、グェグェと言ったような暗く鈍い、耳障りな鳥たちの声が聞こえた。いぶかしんで英嶺は近づくと、両手の指の無い、小さな痩せっぽちの流雲の男の子が黒烏の群れに取り囲まれていた。黒鳥は鷲ほどもある大きな漆黒の鳥で、赤いくちばしをしていた。奏運では凶兆を示す鳥として一つの象徴になっている生き物で、暗い幽素の流れに乗ってやって来ると言われている。英嶺はその黒鳥の群れを、武器で追い払った。それが初めの凶兆を示していた。その男の子の名を、レイシと言った。やがて仲良くなったレイシと英嶺。生まれた時から指が無いと言うレイシに、英嶺は義肢の指を作ってやった。月々に改良を重ねるが、生身の指とは程遠い出来栄えに、かえって贈り物などしない方が良かったのではないかと英嶺は悩むが、レイシはありがとう、僕はこの指が大好きだよ、指がこすれて鳴るカチカチと言う金属の音も、リズムを刻んでいるみたいで楽しいよ、と言ってくれるのであった。
奏運の才に恵まれたレイシは、口で指を折る事で数を数えることを覚えて、数霊術というあたらしい奏運の技の扉を開く。数字に意味を与え、吉凶を見るその新しい奏運術は、今までに存在していた奏運に比べて適応範囲は狭いが、とても高い精度を誇った。流雲の民は、この数霊術をもって、予言とも言えることを行えるようになった。多くの流雲の民が喜ぶ中、長であるリイウだけは心配していた。善意の連鎖で起こる事の裏には、必ず凶兆の足音が忍び寄る。凶兆は吉兆の背面の理であり、吉凶どちらかが欠けるなら、どちらも証しすることが出来ないと言った性質のものだ。凶兆の底流が、表層の吉兆を支えているし、凶兆が表層にある時は、吉兆がその底流にあった。例えば、迫害されている流雲の民は、恵まれない生活環境にあるが、おかげで隠れ里は誰にも狙われず、諍いや争乱に見舞われることなく平穏に過ごしていられた。余剰の恵みや富は、概して奪い合いの標的になるからだ。
これから起こる災厄に、一つの仇が存在するとするならば、英嶺はやさし過ぎた。と言う事だ。愛も又、その裏に怨みを飼っている。ある時、楼都の貴族の娘が英嶺に恋心を抱く。英嶺の見た目が良かっただけではなく、彼は人望にも厚かったからだ。貴族の娘、シュリは英嶺に近づくために、レイシと仲良くなろうと計らう。レイシはあどけない屈託のない笑顔でシュリの言うことを聞いてしまう。シュリはレイシに恋占いをしてもらうよう頼んだが、その残酷な結果を聴いて、怨みを起してしまう。レイシに慰められる振りをして、リイウと英嶺の恋が破綻するよう、英嶺がリイウと付き合っていることを町に吹聴してしまったのだった。排斥されている民と逢瀬を重ねていることが知られた英嶺は、楼都で行き場を失う。そんな英嶺が、自分のところにやって来ると算段していたシュリだったが、英嶺は虎河の河原に、楼都の立派な工房を捨てて去って行ってしまった。落胆するシュリ。貴族の力は何の役にも立たず、ただ自分の浅はかさと浅ましさに絶望し、海に身を投じてしまう。しかし悪運の流れはそれで途絶えるわけではなかった。それを見ていた海の賊がレイシを助けたのだ。そして、シュリは、貴族の長である自身の父との取引材料にされてしまうのであった。シュリの父は、不死学徒のパトロンであった。不死学徒は、奏運とは異なる技工によって、命の改変を行い永久の楽園を目指すと言う思想を持った名の通りの集団であった。命の終わりを受け入れられない不死学徒は、命の流れに生きる奏運の思想こそが気に入らない。その様な彼らの策謀もあり、シュリの父は何もかもを流雲の民とリイウのせいにして、彼らの討伐に乗り出しす。白居は回想しつつ、路面の状況に気を配る。何やら、大型の車輪が石畳を削ったような跡が、幾本も走っていた。