第一章・二話
ふと、開け放したドアの影から、
「よぉ、九丞。山号のじっちゃんから聞いたぜ?甘鳴、二羽目を拾ったんだってな。」
頭の高い位置で髪の毛を棒状にまとめた、長身の男が声をかけて来た。
「拾ったのは、僕ではないけど。そうだね、今名前を付けたとこだよ。」
僕は朝食の片づけをしながら席を立った。立って、台所の方に向き直ると、いつの間にか部屋に上がっていたその男、七都と正面になった。七都は僕より十五センチは背が高い。
「七都、洗い物しなきゃなんだけど。」
僕は目も合わさずに、彼ののどぼとけ辺りに目線をやって言った。しかし、七都は退く気配がない。
「ま、お前の勝手なんだけどよ。同じ毛色だし、問題はねぇだろ。」
七都は正直、世話焼きだ。おせっかいと言ってもいい。相手のことを心配しての物言いだったが、僕にはいつもどこか、上から目線の圧を感じずには居れなかった。だけどそれは、七都が兄貴肌で、そう言わずにいられないからだと言う事も分かっていた。甘鳴と一緒にする仕事は簡単だけど簡単じゃない。言葉でないものを理解するのが仕事になるから、あまり鈍いと仕事にならない。だけれど敏感過ぎても、意味を拾いすぎるので混乱する。程々に聡いことが、暗に求められている。
「あぁ、後な、四菜の黒甘鳴、鳴いたってよ。」
後頭部を軽く掻きながら、去り際に言う七都。
「何時ごろ?」
「お前らが河から帰ってきたころと同じくらいかな。」
「…そう。分かった。」
七都が言い残して去った。玄関の壁を這う配管から、霧とお湯のしんしんと流れる音が耳に響いていた。
「九丞や。明朝に採った虎貝の標本、どないなっちょる?」
山号の爺様が、寄宿舎とは幾分離れた別棟にある、素子精製炉にやって来た。午前中はいつも霧深いこの街も、日が中天より差す頃にはすっかり晴れ上がる。龍の背のように荒々しい黒顎山塊を背景に立つ、僕ら奏運技師の集落の建築群の中でも、素子精製炉、通称〈炉〉は、五階建て地下二階の建物に匹敵する吹き抜けの真ん中に、大地中より深く伸びあがっているかのように座している。
「あぁ、爺様。今出来上がったとこだよ。特にいつもと変わりはないけれど、ほら、この耳のところ、見ていただけませんか。」
僕は、虎貝の特徴である虎の耳のような形をした二つの突起を指して言った。
「およょ、これは。」
山号の爺様が、片眼鏡を裾から取り出す。
「ええ、少し、紫がかっています。」
「ふむ。幽素が東に濃くなっているようじゃの。」
「…ええ。」
虎貝はその生態から、体内に幽素を取り込んで陽気を練り込み排出する。その代謝物が、河の流れに乗って海荒町の沖合約一キロメートルの海底に滞積する。幽素は自然界に散在する運勢の流れの粒子だ。その力場の流れが東寄りになっているのだ。東は太陽の昇る方角で、本来は縁起が良い。しかし、海荒町の東には、楼都と言われる思想を異にする町があった。
「原因に心当たりはあるかいの?」
爺様は顎髭を触りながら問うた。
「いえ、それがまだ見当もついていません。他の技師たちにも訊ねるつもりです。」
「うむ。それが良い。急くことではないと思うがの、何せ運勢は川の如く風の如く、女房の気分が如く、急変するものじゃての。」
爺様がにっこりと笑いながら、念を押してくださった。
「ありがとうございます。ですが、そのようにおっしゃると、五業の婆様が拗ねてしまわれるのでは。」
僕もうっかり、山号爺様のおどけに相槌を打ってしまった。爺様も喜んでいたし、ここだけの話と言う事にしておこう。