第一章・一話
貝殻に、君の名前を書いて、海に流したら、寄せては引いてゆく波間には、君を呼ぶ声がずっとこだましていた。降り積もった落ち葉を割って歩くみたいにさ。
波間に声を数えれば、永遠に生きた君の鼓動もきっと安まるだろうって、僕はそう思ったよ。
海凪鳥の群れが鈴の音を薄めたような微かな声で鳴けば、数日の間に海は静まる。海荒町の労働者の耳の良いのは、穏やかな海が暮らしの希望となるからか?いや、凪いだ海には絶対に出てはならない、という町の掟があるからだ。
この地方では、静まった海の透明度は五十メートルを下らない。凪いだ海では深く暗い海底まで透けて見える。しかも、海荒町を両断するように流れる虎河の河口から一キロメートルほどの海域には、黒牙石と言う宝石の鉱脈が、海底に三百メートル余りに渡って隆起していて、しかもその純度は陸上で見られる黒牙石の鉱脈よりもはるかに高かった。その岩のかけらでも取れたなら、陸上の鉱脈で取れる黒牙石の原石よりも、眩かった。
黒牙石の表面は滑らかに黒光りしている。しかし穿つと、濃い月見色をしていて、その色を見ることを、主に石を利活する奏運技士たちは、虎口を割ると言って常用句にしていた。
「おーぃ、九丞。」
秋のささやくような、しかし澄んだ声で、茶色く尖った工具の片づけをしている僕は呼ばれた。
「なんだーぃ、山号の爺様。」
「お前様んちの、なんといったかいのぅ、あれ、白い甘鳴がいただろう?あいつにこれをやってみんかのぅ?」
「えぇ、どれです?」
よく波紋の広がる、明るい河の淀に、二隻の小舟が寄り集う。山号爺がしわ深い指の爪先で、白い生き物の長い両耳を挟んだ。爺の手程の大きさのその生き物は濡れてしまって可哀そうな風体になっている。
「おめぇ、淀の真ん中で木っ端に捕まって漂流してただよ、こいつば。九丞よ、おめぇんとこの甘鳴といっしょにしてやったらどげだろうのう。」
「これは。運のいい子だ。分かりました。うちの甘鳴と一緒に暮らしてもらいましょう。」
僕はそっと、その白い、ずぶ濡れの小さな生き物を両手で包み込んだ。カタカタと震えている。綿の手ぬぐいをサッと腰から引き抜いて、くるくると包んでやった。わたあめのボールから、長いピンクの両耳が、ぴょん、ぴょんと飛び出ているようで、至極かわいいのであった。
僕はいつも無言で、灰色の空気の静寂が満ちた自室に入る。背丈の半分より少し高い濃い緑の観葉植物はお気に入りで、迎えてから二年と八カ月になる。白いカーテンを、乾いた音でシャッと開くと、白い陽光が霧の中から部屋の内側まで拡散した。
チィチィ、と鳴くのはケトルだ。火にかけたケトルみたいに少し甲高い声で鳴くからケトル。そして、
「さぁ、今日から君の仲間だよ。」
身体もあったまって、少し元気になったみたい。器用に二本足で跳びながらケトルに近づいた。小さな前足はちょこんと胸の前にたたまれていて、その子はケトルの鼻先に、自分の髭先をさわさわした。ケトルは悪い気ではなさそうな顔で、僕の方を見上げた。
「よーし、この子の名前、何にしようかな。」
僕は部屋の辺りを見回した。目につくのは、灰色の壁、大きな木材の梁、緑、そして白い光。そしてその子に目をやると、ピンクの耳に、青いつややかな目。
「よし、君の名前はコットンだ。」
毛も乾いて、ふわふわになったコットンの額を僕は人差し指で撫でた。鼻先を上に向けて、
コットンは喜んでるみたい。
ふふ、僕は少し微笑んだ。そして甘鳴たちを背に、朱い垂れ布の掛かる簡素な祭壇に、揺らめく温かいお茶と燻ぶる線香を供えた。湯気と煙が交互に、異なる速度で天井に向かって昇っていく。僕は弟に、今日も僕らを守ってくれてありがとうと、願った。それが僕の、毎朝帰ったらやる事だった。