第七話
「……待て!ダメだ、行くな!」
私の叫びは確かに君の耳に入っただろうが、君の心を変えるほどの強さを持つことはできなかった。
命をかけるに等しく強い想いが、確かにそこに込められていたにもかかわらず。
この時の私の絶望を、君はおそらく考えたことなどなかっただろう。
「もう行くよ。今まで……ありがとう」
そういって君は、くるりと私に背を向けると、振りかえりもせずに走り去ってしまった。
慌てて階段を駆け下りて外に走り出たけれど……君の姿はもうどこにもなく、吹雪き出した雪の中で、私は長いこと呆然と裸足のままで立ち尽くしていた。異変に気づいた叔父が、嫌がる私を無理矢理抱えて部屋に運んでゆくまで……ずっと君の消えた白い闇を見つめながら泣いていたのだ。
寒さも、冷たさも何も感じなかった。
痛みも、悲しみさえもこのときはなく……抜け殻のようになった私は、多分このとき一つの死を迎えたのだと思う。
その翌日から一週間あまりの間、私はひどい熱を出して寝こんでしまい、毎晩悪夢ばかりを見つづけていた。多分この時私が見ていた悪夢こそ、君に起こった現実だったのだろう。私は苦しくて、せつなくて……本当に気が狂いそうだった。
いいや……
気が狂った、というべきかな。
それから数年間、私はなんとか君のことを忘れてしまおうとした。私の人生の中で一番正しい、賢明な判断と努力だったと思う。だが、それは不可能だった。
その間に大嫌いだった叔父とは何故か気が合うようになって、私は好きでもなかったはずの医学に没頭し、なりたくもなかった医者になった。
しばらくして叔父が死に、私は叔父の病院を引き継いだ。
しかし今だから白状してしまうと、日に日に衰弱していく叔父を必死に看病するフリをしながら、私は彼を殺したのだ。
私が自由に生きて行くためには彼の存在は邪魔だったし、私は何より、早く社会的地位と町の信頼と……そして金が欲しかったのだ。いつか君を取り戻すために……それもなるべく早く、君を苦行から救うために。
そのためになら、どんな善人を演じることも私にはたやすかった。時には金を持たない病人を診察してやることもあった。
君は私を善人だと信じていたようだし、町の人間もおそらく皆そうだっただろう。
確かに、私は本物の善人だった。
君を取り戻すために、君に好かれていたいがために、ただそれだけの願いのために私は善い人でありたかった。
だが、たとえ行いは善であったとしても、誰から見ても善い人間であったとしても、そのものの本質が善であるとは限らない。
時には薄汚い己の本性を隠すために、意識的に、あるいは無意識に、人はもう一人の自分を作り出す。
そうだろう?
誰だって愛するものの前では、できるだけよい人間でありたいと願うものだ。
それを罪悪だと言うのなら……この世に他人を愛すると言うこと以上の罪は存在しない。
本質を理解されたい、愛されたいと願いながら、誰もが皆本当は自分にとって都合のよい部分だけを見て欲しいと願っている。だからこそ人はその薄っぺらな表面の皮をこそ、自らの本質であると錯覚するのだ。
まったく、愚かしいことではないか?
私が愛した君という存在も……要するに私にとって都合のよい偶像に過ぎなかったのだ。
しかしだからと言って、その愛が本物ではないと非難することが誰にできるというのだろう?
そもそもこの世には、偽りしか存在しない。
だが人間は皆その偽りこそを真実とし、なによりも大切だと思っているのだ。
それならば……偽りとはすなわち、真実に他ならないのではないだろうか?
だから、君にとっての真実の私というものが善い存在であったことを、私は心から願っているよ。