第十五話
それは、君を一度失った……あの凍てつくように寒い冬の夜を彷彿とさせる真夜中だった。
「助けてくれ……!」
突然扉を開けて転がり込んできた君の、満身創痍なその姿をみたとき、私は本当に、心の底から驚いたよ。
「どうした?何があったんだ!」
倒れそうになった君の体を慌てて支えながら、私は君の怪我の程度を確認し、一先ず安心することができた。動きにくそうなドレスはあちこち擦り切れ、覗いた肌に血が滲んではいたものの、命に関わるような怪我は負っていないことがわかったから。まったく、こんな時にでも冷静に患者を観察できるのは──医者の性というヤツなのだろうか?
君は美貌に焦りと当惑と怒りを込めて、叫ぶように言った。
「姉さんを殺したやつが……今度は俺に目をつけたんだ。あの野郎、どこぞの金持ちの大商人か知らないが、俺を店から買い上げやがって……あいつ、頭のおかしいサディストなんだ。俺、きっと殺される。あんな奴のところに行きたくない!」
「……落ち着いて。大丈夫、私についておいで」
私は病院の地下へ通じる秘密の通路に君を案内した。
叔父が昔使っていた、町外れの墓地へと通じる道。
チャンスが来たと、私は思った。
これでやっと、君を自由にできる。
私の望む未来が、やってくるのだと。
「墓地を抜けた先に、一軒の古い農家がある。青い屋根の家だ。ローラという女が一人で住んでいるが、私の名を言えば匿ってくれるはずだ」
「……あんたは逃げないの?」
「私が逃げなければならない理由はない。第一、狙いは君なのだ。君がいないとわかれば追手も諦める。さ、早く行きなさい。明日になったら、君の弟妹たちも連れて行くから」
「わかった、絶対だよ!」
君の姿が消えた直後、けたたましく玄関の扉を叩く音がした。
私はきわめて冷静な心で、診察室に戻りデスクの前の椅子に腰を下ろした。
無粋な客は、すぐにドアを破って入ってきた。上品な衣装をまとってはいるが、いかにも下種な匂いのする初老の男と、その従者と思しき若い男が一人。
「ほう、逃げた男娼を追ってきたが、こんな美しい天使に出会うとは」
下劣な品性を顔一杯に湛え、初老の男は笑った。
私はそれに微笑み返し、手にした銃を、男に向けた。
「困りますね。ここは小さな病院ですが、入院している患者さんもいらっしゃいます。少し、静かにしていただかないと」
「その割りに物騒なものをお持ちのようだ、先生」
男の額に、汗が光る。
私は構わず、引き金を引いた。
弾は従者の眉間を貫き、若い男は声もなく絶命した。
「な……」
「銃声に驚いた人たちがやってこないうちに、始末をつけなければなりません。さようなら、そしてありがとう」
手にした小瓶を男に投げつけると同時に、私は近くの窓を破って外に飛び出した。
凄まじい爆発が起こり、古いレンガ造りの病院はあっという間に炎と煙に包まれた。
「先生……!」
騒ぎを聞きつけた近所の人たちが、次々に駆け寄ってくる。
私は彼らに向かってこう説明をした。
一人の男娼が客に怪我をさせられ、この病院に逃げてきたと。
そして彼の診察をしているとき、追ってきた客が彼を取り戻そうと迫り、拒絶され激昂して彼を撃ち殺したと。
それから怒りに任せて、持っていた爆発物に火をつけたのだと。
もちろん、巻き込まれてしまった他の患者のためにも泣いてみせた。
悲嘆にくれ、しばらく独りにしてほしいとも言った。
ねえ、私は町の優しいお医者様だ。
貧しく、弱い者たちの味方で、皆私を神か何かのように慕ってくれていたのを、君も噂で聞いていただろう?
消火活動を彼らに任せ、その場から消えることなど簡単だった。
そうして私が向かった先が、今なら君にもわかるだろうか?
君の幼い弟や妹の眠る家。
私はそこに火を放ち、闇に溶け込むように町外れへ向かった。
誰も、何も疑いなどしない。
君の弟や妹を焼き殺したのも、君を探していた連中の仲間。私を疑うものなど、いるはずがない。
私はようやく、君を手に入れたと思った。
後はローラを始末し、君とどこか別の町へ移り住んでひっそりと暮らせれば……。
だが、罪を犯したその報いとは、必ずやって来るものなのだろうか。
神はどうすれば私が一番苦しむのか知っていたのだろう。
ああ、どうか赦して欲しい。君を殺してしまったのは、この私の罪なのだ。
いや……
赦してくれる必要などない。
だから、黙って聞いていてくれ。
もうすぐ、この懺悔も終わるだろう。