天仙様
あれから、千代丸様に読み書きを、御指南させて頂いております。
村の社のお庭をお借りしての事ですが、望外だったのは、愚図郎殿をからかっていた童達までもが、指南に同席し始めた事です。
多比野と兎鉢は良いとして、何故、こやつらまで…と思っていましたが、兎鉢は、これを巧みに利用しました。
千代丸様に読み書きを御指南している時に、童達も受け入れ、愚図郎殿と千代丸様をありのままに見せたのです。
ようするに「愚図郎は、普段、ああしているが、本当は智者だ、仙人様のようなものだ」…と。
そのような感想を童達に村中に伝えて貰えば、やがて、他人の千代丸様を見る目も、変わると思ったのです。
一寸、千代丸様と愚図郎殿を、そのまま見ると、聖人や仙人に見えない事もありません。
変わり者と智者は、紙一重と申しましょうか…
それに千代丸様は、凛として、指南方々、含蓄の深い弓の手ほどきをしたりするのです。
ある時、童の一人が、ふざけ半分に弓を友人に向けると千代丸様は、烈火の如く、お怒りになられました。
「弓と言う物は、己自身と己を守る為に、あるものだ!竹馬の友に向けるとは何事か!」
童の一人は、慌てて詫びるのです。
「先生!ごめんなさい!」
「弓と言う物はな、弱き者を守る為に射る物だ。お前が今、射るべきは、迂闊にも友に危険な得物を向けた、愚かな己自身の心なのだよ。」
この千代丸様と愚図郎殿の差異ある印象が強く、童達を通して、ほうぼうに伝わる故に、千代丸様はいつしか、村中でも天仙の化身と呼ばれ、敬われるようになっていきました。
ただし、この風評を操る為に私と兎鉢と多比野は、陰で、随分と策を練り、随分と行動し、随分と骨をおりましたが…
結局、この働きも、ひとえに、千代丸様と添い遂げたいとの一念のなせる技でありました。
…ただ、絶対に必要と、頭では、わかってはいても、私としては童共は正直、邪魔です。
千代丸様が童の頭を撫でている時などは嫉妬の焔が、胸中に宿るのです。
そうこうしているうちに、やっと、一通りの指南が終わり、童達が帰りました。
社の石段の一番上に座り、そこからの景色を眺めます。
陽に当てられて、輝く、川や田畑は黄金の敷物のように美しく、私は千代丸様と二人きりになって、その風景を眺めるのです。
高鳴る鼓動と不思議な浮遊感を感じていました。
このような時に、私はよく想うのです。刻の歯車よ、止まりたまえ…と。
「千歳殿、読み書きの指南、誠に有難く思う」
「い…いえ、千代丸様も飲み込みが早うございますゆえ」
「もう少しで、習得出来ると思う、さすれば、そなたにこれ以上教わらなくて済む、そなたの負担も減るだろう。はっはっはっ」
「いいえ!ゆっくりゆっくり習得すればようございます!それとも!私から指南されるのはお嫌ですか!?」
「ん?いやいや!ずっと教わりたい!拙者はそなたに惹かれておるからな!」
「…お…おたわむれを…」
千代丸様は、じっと私の顔を見つめて言います。
「戯れなどではないよ、本当の事なのだ」
「左様…ですか…」
私は思わず、顔を赤らめ、瞳を逸らします。
「うん、はははっ」
千代丸様は、私が赤面してしまう事を、恥ずかしげもなく、あけすけにいいます。
ですが、秘め事の多い性分の私にとっては、千代丸様のこのお姿が一層、まばゆく、うつるのです。
ともあれ、このまま、千代丸様の病が快癒すれば、全て丸く収まるはずなのですが、千代丸様の実家である、加賀美家は、どうにも、奇妙な事を画策しているらしいのです。
加賀美家の内では、愚図郎殿が、天仙のようであるとの噂を利用し、出家させようとしている、との噂がまことしやかに囁かれているのですが、正直、意味が分かりません。
そもそも、千代丸様の評判は、今では、村中でも上々のはず、あえて、千代丸様を追い出す理由は無いはずです。
私は到底、納得が行かないので、真偽を確かめる為に、多比野に加賀美家へ、忍び込んでもらう事にしました。
多比野が加賀美家に潜り込むと、同時に加賀美家の次男殿と数人の手練に囲まれていました。
どうやら、予め、多比野の侵入は読まれていたようです。
多比野がかかってくる手練を相手に奮戦していると、次男殿は待ったをかけます。
「もうよい!皆下がれ!」
「はっ!しかし…」
「構わぬ、わしもその娘と話す事がある」
次男の家来は下がりますが、多比野はなお警戒を解きません。
「娘、お前は山里家の密偵だな、大方、四男の出家の沙汰の詳細を掴む為に来たのであろう」
直情傾向の多比野です。
「そうだ!あんたら酷いじゃないか!追い出す理由もないのに千代丸様を家から追い出そうとしているだろう!」
「…理由ならある、憑き者ならまだしも、天仙とあってはもはや武家の男子にあらず!」
「そんな、めちゃくちゃな理由があるか!」
「武家とは戦あってこその武家、千代丸が天仙ならば、その者に刀を握らせる方が罪も深かろう?我らからすれば、仏に刀を持たせるに等しい罰当たりな行為だ」
次男殿の身勝手ないい口に多比野は怒りを抑えながら、反論します。
「…あんたら!何を考えてる、変な理由をこじつけて千代丸様を家から追い出そうとしているみたいだが、噂は届いているだろ!千代丸様は治るかも知れないんだぞ!」
「全て存じ上げておる、失礼千万だが、我らは我らで、そちらに忍びを放って、情報を集めたのでな」
「だったら!千代丸様を追い出す理由がどこにあるんだ!千歳様は千代丸様の事をお慕いしてるんだぞ」
「存じておる、だが、そちらが、知らぬ事もあるのだよ」
「何の事だ!」
「近いうちに隣国と戦になるのだ、その時までに千代丸の病は癒えるのかな?」
「いくさ…」
「その戦は、加賀美家の男子ならば、皆、出陣するのだ!このまま、千代丸が当家にいたら、千代丸が病だとて例外はない!」
「あんたら!病の人間を戦に出すのか!?」
「千代丸の病は正式な病と立証が出来ぬのだ、立証が出来ぬ以上、出陣を拒む事は出来ぬ!ならば、千代丸は、家を出る方が幸いではあるまいか?」
「じゃあ、あんたらは、千代丸様の事を思って…」
「われらとしては、これまで、あやつを蔑んできた、償いのつもりなのだ、山里殿の密偵殿よ、分っては貰えぬか?」
近いうちに起こる戦の為に千代丸様を今のうちに出家をさせて、危機から遠ざける。
確かに「愚図郎殿」と「千代丸様」が同居しているような状況では千代丸様は戦死なさるのが、関の山でしょう。
多比野は絶句してしまいます。
次男殿は言葉を続けます。
「所詮は赤の他人の貴殿らが、弟を家や村から追い出さぬ為に策を巡らしていた。その裏で、実の肉親の我らが、弟を追い出す策謀を巡らせていたとは、なんとも、皮肉な話だな」
次男殿の目には涙が溜まっています。
次男殿の言い分は真実なのでしょう。
この場で、この事を、あえて話す理由はありません。
ただ、侵入して来た多比野を斬れば済む話なのです。
このまま、多比野を返して、これまでの一連の話を巷に流布される方が、いくさでの名誉を重んじる武家、加賀美家にとっては致命的に不利になるのですから。
もしかしたら、次男殿は、理由はどうあれ、肉親を追い出そうとする自分達の、辛い心中を、誰かに聞いて欲しかったのかも知れませんね。
その後、多比野は無事に返され、この事を私に報告すると、溜め息をつきました。
千代丸様を出家させてしまえば、僧籍は女人禁制、お会いすることは出来なくなってしまいます。
しかし、戦に出陣すれば、恐らく…。
兎鉢も私も考えあぐね、やむ無く、どちらを選ぶのか、千代丸様、本人にお聞きする事にしました。
どうにもならない時は、駆け落ちするまで…
この時、私は、私なりに覚悟を決めていたのです。