お供達と愚図郎殿の噂
清らかな風の匂いがする春の朝。
私は暁の頃に起きて、着の身、着のまま。
いつものように、屋敷の縁側にて、ぼんやりと早朝の景色を眺めます。
まだ、外は、やや薄暗く、肌寒く、宅庭では、塀を歩く野良猫を相手に、犬が吠えています。
「千歳様、今日も良い天気になりそうです!お早うございます!」
突然背後から聞こえる大声に虚をつかれ、私は内心、少し、驚きました。
毎回の事ながら、おともの一人である、多比野はまったく、自身の気配を周囲の者に感じさせないのです。
気配を感じさせずに、突然、元気な声で、挨拶をしてくるのですから、びっくりします。
これをやられると、家中でも驚かない者はありません。
それに多比野は、琉球の特異な武術である、空手というものを会得しているのですから、守護役や密偵にはうってつけなのです。
この前などは、屋敷の道場で木刀を持った大人を相手に素手で打ち負かしていたとの事です。
また、女子でありながら自分の事を「僕」と呼ぶ変わった子でもあります。
それから、もう一人、眠そうな目を擦りながら、多比野の後ろに隠れるようにして、声をかけてくる者が、兎鉢という私のもう一人のお供です。
「お嬢様、お早うございます…」
兎鉢は常にお鍋を被っています。
本人曰く、用心の為と、遠出した際は、かぶっているお鍋で煮物を作れるから一石二鳥と言う事でした。
用心深いというのか、小心者で、ちゃっかりしているようです。
何度か私の隣で、鰹節をかじりながら、帳簿を記しているところを見たことがあります。
鰹節をかじりながらお勤めをした方が調子が出る、と、兎鉢はいうのですが、なんというか…、やはり変わった子ですね。
ただし、帳簿や覚書の内容は大人顔負けであり、算術関係の仕事なら三人前を一人でやってしまうらしいのです。
二人共に同じ十三歳の双子の姉妹ですが、多比野は身を動かす仕事に向いており、兎鉢は逆に頭を使う仕事に向いているようです。
性格は正反対のようですね。双子のお供とは大変珍しいように思います。
この二人は、私達の村から、海を渡った遠方の南の離島。
琉球から、こちらに船で渡って来て、当家の奉公人となり、私のお供として、付けられた。
…と聞き及んでおりますが、これは別段、珍しい事ではありません。
人には三者三様の事情があり、その節をへて奉公人になる者など、この世には、掃いて捨てるほどいるのですから。
『縁側から戻り、机の中から白い袋を取り出す』
「二人とも、昨日頂いた金平糖です。食べておくれ…」
珍しいお菓子を前に、多比野と兎鉢は表情を輝かせます。
食の細い私は、よく頂き物や食事を丸ごと、残してしまうので、私の代わりに、二人に食べて貰う事が多いのです。
食物を残す事は本来、大変行儀の悪い事です。作物の神様に対しても失礼です。
…ですが、どうしても、口に入らない時があるのです。
幸い、二人は食べ盛りの時期らしく、代わりに食べて貰っている私は本当に助かっています。
食事は全て自室で頂くので、都合は良く、余人に露見する心配もありません。
また二年ほど前から、定期的に両親より一両程度のお小遣いを頂くようになりましたが、使い道が無い…、というか使い方を知らない為、どうしたものかと、困ってしまった時がありました。
その時に、ちょうどお金に困って、泣いていた多比野と兎鉢に、これまで使わなかった分も含めて、三十両ほど差し上げたのですが、どういうわけか余計に泣き出してしまったのです。
私は戸惑ってしまいました。
二人は、そのお金を母国の両親に仕送りしていたようですが、使い方は人それぞれなのですね。
私としては、誰かに使って貰うのが一番なのです。
これでお小遣いをくださった父上様と母上様の好意に、報いることが出来たと私は思いました。
お小遣い…。
ちゃんと使わないと申し訳が立ちませんから。
ある日、兎鉢が雨の中、猫を拾って帰って来た事がありました。それを私は黙認をしました。
多比野が子犬を拾って来た時もそうです。
ただ、子犬と子猫の存在は、母上様に知られてしまったので、私の部屋の庭で子犬を。
そして、子猫をネズミ取りの為に、当家に置いてくださいと頼んだら、快く了承してくれました。
これは私の為です。
古来より犬の鳴き声は魔除の効果があるといいますし、家内以外の者の侵入者を敏感に察知します。
猫は汚いネズミを狩ってくれますし、それに、生き物が傍にいると何故か不安な気持ちが少しやわらぐのです。
犬と猫の躾と世話と、名付け親は多比野と兎鉢の二人にやってもらいました。
ともあれ、どういうわけか、多比野と兎鉢は、私に懐いてしまっているようなのです。
しかし当人の私は、毎朝毎晩、顔を合わせている、この二人の顔を未だに覚えていません。
どのみち、すぐに別の者と交代してしまうでしょう。
だから、いちいち覚えないのです。
これまで私に仕えてきたお供達もそうでした。
私のお供になった者は、皆、私を恐れ、気味悪がって、最後には御役目の交代を申し出てくるのです。
それも、この山村の地にあっては、当然かも知れません。
迷信や因習深い山村では、子を宿せない身と言うだけで、神のたたりを受けた者として見られてしまいます。
もしも立場が逆ならば、私もそのような見方をしていたでしょう。
『鏡台に移動し着替え支度をする』
今、鏡を前に着替えておりますが、我ながら、ぞっとするほど、蒼白な肌色です。
ほほ、は痩せこけており、血の気の引けた顔色と、腰まで伸びた髪とを合わせ見れば、まるで幽霊のよう…。
鏡を前にして、兎鉢に髪をとかしてもらっていると、背中の古傷がかすかに痛みます。
毎日、鏡を前に自分の顔を見ると痛むのです。
痛むはずのない古傷がズキズキと痛むのです。
「…ぅッぅ…ッ」
堪えようとしても、堪えきれずに、どうしても小さなうめき声が漏れ出てしまいます。
傷みと同時に、軽くあたまがくらみ、ややもすると卒倒しそうになります。
私の心は未だにあの日を思い患っているのでしょうか?
この痛みは私の心が作り出しているのでしょうか?
思い出の痛み…。
あの日の出来事が、心の根っこから、身に染みているという事なのでしょうね。
いずれにしても、毎朝このように危うく、不安げで、縁起の悪い姿を見せられていては、お供も逃げてしまうのは道理でしょう。
去っていった彼女達からすれば「祟りに苦しむ」女の姿を毎朝、目の前で、まざまざと見せられていたわけですからね。
自分達に私の祟りが飛び火してはたまらない。
私と同じように子を宿せなくなってたまらない
…というわけです。
朝餉(朝食)前の、お着替えも終わりかけた頃、部屋の廊下側のふすまの向こうから野太い声で、私に語りかけてくる者が居ます。
「千歳お嬢様、早朝より失礼致します。御父上がお呼びで御座いますので、御支度が済んだら早めにお越しになりますよう…」
父上様のお付きの御家来の方の声です。
「…はい」
私は手短な返事をします。
父上様が御自分の御家来殿を直接、私に使わす時は大事な御用を申し渡す時ですから、恐らくお話の内容は成人の儀式についての事でしょう。
着替え支度を済ませ、父上様のお部屋に通されると、お部屋には父上様と母上様がお二人で揃って私を待っていました。
父上様も母上様も、不安げな面持ちです。
母上様が、口を開きます。
「千歳、十日後の儀式の事は存じておりますね?」
この村の武家の子は皆、満十六歳にて、成人の儀礼として八幡を祀る社に詣でるのです。
詣でる社は当家から一里(約3、9km)ほど歩んだ裏山にあるのですが、なにぶん1人で行動するのは初めてなので多少緊張しております。
もっとも社までの道などは既に整備されており、この日を迎えるまでに散々、山狩り等を行われていますので、私は安全な道を行くだけなのです。
母上様と父上様が私を中心にしてお二人で、お話を始めます。
「あなた様…やはり千歳一人でゆかせるのは酷ではありませんか?」
父上様は腕を組みつつ、考え込みます。
「…先祖伝来の儀式である。千歳の代で曲げるわけには行くまい。それに他家の手前もあるでなぁ」
母上様はたまらず御自分の顔を袖で覆います。
「かように、か弱き娘を一人で裏山に…」
父上様は困った顔をして、考え込み、重い口を開きます。
「…まあ、同道は禁止されているが、陰ながらの守護するなら差し支えあるまい」
母上様の表情がぱあっと明るくなりました。
父上様は意を決して、多比野と兎鉢に厳命致します。
「多比野!お前は儀式当日に、千歳を陰ながら守護するのだ!」
多比野はやや戸惑いながらお返事をします。
「はっ!」
「兎鉢!お前は儀式当日までに地図をこしらえよ!一理程度の道程であれ、千歳が決して迷わぬようにな!」
「は…はぃぃ」
父上様は尚も語気を強めて厳命します。
「二人共、必ず千歳の儀式を無事に終わらせるのだ!よいな!」
「承知致しました!」
父上様と多比野と兎鉢のやりとりを聞いて、母上様は安堵しています。
これは両親の愛情というものなのでしょうが、私は父上様と母上様の慈愛の心が、よく分かりません。
何故、私に、ここまでしてしてくれるのでしょう?
私の心は父母の慈愛と御恩を感じないほど、不感に極まってしまっているのでしょうか…。
やがて、自室に戻ると多比野と兎鉢が、なにやら熱心に話し合っています。
「十日後の儀式って、社に鈴を置いて来るだけだよな?
最悪の場合、僕が千歳様の代わりに置いてくる!」
鰹節をはむはむとかじりながら、兎鉢も頭を回しているようです。
「駄目だよ多比野、儀式には村中の武家の成人達が、
みんな社を目指して行くからね、万一にもバレたら山里家は名折れになっちゃう」
「千歳様が途中で倒れたらどうするんだ!」
「うん、だから千歳様には申の刻(午後三時から五時辺り)に出ていただこうよ、儀式のはじまりが 未の刻(午後一時から三時辺り)で、他の武家の人達は我先にと行くだから、申の刻辺りに出れば、ほとんど誰も居ないハズだよ、身代わりも出来ると思う」
「…というよりも身代わり前提で行くべきだ!」
「うん、だから多比野は今から儀式に参加する人達の正確な出立の刻限を探って来てね。そのしらせをもとに千歳様が出立される刻限を決めるから」
「まて、今回、参加する成人は何人いるんだ?」
「参加する人達の家と名前は村内の人口帳簿を見た時に覚えたから地図に書くね」
「わかった!僕は各家の天井裏に忍んで情報を集めてくる!気配を消すのは得意だ!」
兎鉢はふと、とある人物を思い出したようです。
「あ!…加賀美家の四男坊の愚図郎も今年で成人だ、あの人どうやって一人で社まで行くんだろ?」
「あの馬鹿だな、あいつの事はどうでもいいから早く覚書と地図を書け!」
私は二人の会話を聞いて不思議に思いました。
はて?愚図郎?そのような名前の人物など、この世にいるのでしょうか?
また、我が子にそのような名前を付ける親など存在するのでしょうか?
私は珍しい花の名前の由来を聞くような軽い気持ちで、愚図郎の事を多比野と兎鉢に聞きいてみました。
「…その愚図郎殿とは、どのような方なのですか?」
これ自体が滅多に無いことでしたが、一種の戯れに過ぎません。
兎鉢が語るところによると、「愚図朗殿」は、村、随一の名家、加賀美家の四男坊で、今から十年前に流行りの熱病にかかり、四十九日の間、彼岸の境をさ迷い、いざ生還すると、すっかり木偶の坊のような人物になってしまっていたという、加賀美家の厄介者の事だそうです。
熱病にかかるまでは利発で幼いながらに賢明な方だったらしいのですが、今では自身の兄君や両親にまで疎まれ、蔑まれていて、あまつさえ、食事さえ一人ではまともに出来ず、髪はボサボサであり、顔も前髪におおわれていて、外に出れば童達にもバカにされる始末、外店の売り物を銭を払わずに食べてしまったり、その度に加賀美家の使用人は店主に平謝りをしているとか…。
また、何を思ってか、あてどなく、ふらふら、のろのろと、さ迷い歩くところから、「愚図郎」と言うあだ名がついたとの事です。
加賀美家も愚図郎殿を家内に閉じ込めようとしたらしいのですが、膂力が異常に強く、愚図郎殿の前に立ちはだかろうものなら、押し飛ばされてしまうのです。
もし、凶悪性が強ければ、とっくに加賀美家から追放されているでしょう。
私と同じ十年前に難を、こうむったところに妙な親近感を覚えましたが、愚図郎殿は私とは違い、日がな一日、外にいるとの事です。
身体は十六の青年ですが、中身は三歳児以下。これが兎鉢が噂を元にした愚図郎殿の感想でした。
多比野に至っては実際に愚図郎殿を外で見た事があると言っています。
ある日、当家の親戚に手紙を届けた後の帰りに偶然、愚図郎殿を拝見したとの事です。
遠目から見ただけらしいのですが、村の中の神社の階段で無邪気に寝そべっている愚図郎殿の姿を見つけた童達が、遠慮なく、そしりの的としていたというのです。
「愚図だ!またひなたぼっこをしてやがる!こいつ、馬鹿だぞ!!村のみんな言ってんだ!こいつの家も愚図ばっかりだってな!」
当の愚図郎殿は、まったく反応しなかったらしいです。それどころか呑気にあくびをして再び寝入ってしまった…と。
そこに加賀美家の上の三兄弟が、現れたそうです。体格が良く、長身で着物の背に、加賀美家の家紋が入った武士の三人組であったと多比野は語ります。
加賀美家の長男殿が一喝しました。
「童共!!我らはそこに転がっている愚図の兄弟だが、我らも愚図に見えるか!!」
童達は驚き、あわてて、わたわたと、取る物も取りあえず彼方へ逃げ出しました。
加賀美家の長男殿は愚図殿を見つつ怒りにまかせた罵声を実弟に浴びせたそうです。
「この木偶の坊のせいで我らも!我らの家も!いい笑い者ではないか!たまに兄弟で神社に詣でてみれば、早速この様だっ!!」
三男殿が怒り心頭の長男殿にボヤきます。
「童共さえあの言いようだ。こりゃ俺達が思うより、ずっと、うちの家の悪名は村中にとどろいてるだろうな」
長男は三男を睨み付けながらに言う。
「なんだと!?」
「事実だろう、世事に疎い童共があんなざまだ」
「ええい!噂する者達の口は塞げんのか!!」
「…兄者よ、人の口に戸は立てられんよ」
「まったく口惜しい!!いっそ皆、斬り殺してくれよう か!!」
「兄者、落ち着けよ。でまかせなんだろうが、誰が聞いているかわからんだろう」
長男殿は、愚図朗殿の方を、睨み付けながらに、叫んだそうです。
「……貴様さえ!!貴様さえいなければ!!!」
長男殿は普段は務めて冷静な人物らしいのですが、これまでに、溜まりに、たまった愚図郎殿に対するうっぷんが、何はばかることなく爆発していたようです。
長男殿はさらに畳み掛けます。
「愚図よ!貴様は風に吹かれる枯れ葉のように、気まぐれに村からも家からも居なくなる時があるな!!いなくなるなら!いっそ!そのまま帰ってくるな!!
十日後の成人の儀式も満足にやり通せなければ、貴様は出家させてやるからな!!」
次男殿は長男殿の「出家」という言葉に、何事か着想を得たようでした。
長男殿がどこまで本心で出家を言葉にしたかは分からないものの、武家にとっての出家の言い渡しは勘当を意味する事が多いのです。
この場合は間違いなく出家即勘当でしょうね。
もっとも、長男殿が家督を相続した上での言い渡しでなければ意味はありませんが…。
三男が怒り心頭の長男をなだめると、次男は何事かを二人に囁きつつ、兄弟三人揃って、その場を立ち去ったという事です。
兎鉢と多比野は私の質問に答え終わると、再び、成人の儀式について策をねり始めました。
愚図郎殿…
私とは違い、肉親にすら忌み嫌われる愚図郎殿。
しかし境遇は私に近いのですね。
真逆のようで近いのです。
十年前の不幸が、今の私と愚図郎殿を作ってしまったと言う点においては近いと思いました。
久方ぶりに私は好奇心をくすぐられています。
ですが、それゆえに一層、愚図郎殿に、関わる事はないでしょう。
私は既に、十年前、好奇心によって殺されてしまった猫なのですから…。
ー二幕へ続くー