前置き
・山里千歳記す・
沈丁花 (ジンチョウゲ)の香りをのせた涼風が吹いてくる、初春。 私にとっては16回目の春の季節になります。
私は今、お家の縁側からぼんやりと外の景色を眺めているのですが、山に囲まれた地形にある私の村は少し高台に上がると、色とりどりの景色を堪能する事が出来るのです。
陽のかかる山々や、ここから見える村の営みの様子、それにゆっくりと流れる雲。
私論で言うなれば、山に囲まれた村というものは、少し高い場所の屋敷に住み、縁側から景色さえ眺めていれば、飽きず、退屈を覚える事もないものです。
傍らにお菓子とお茶があれば尚更ですね。
本日は春空の晴天ですし、気分も晴れ晴れとして、心地よい花の匂いが、いっそう私の心を晴れやかにしてくれるのです。
このような清々しいお天気の時には、お散歩でも、と、思う方も多いかも知れませんが、私は十年ほど前から、外出をしたことが1度も、ありません。
時折、そんな私を見かねて、御付きの者がたまには散歩でもと、声をかけてくれますが、私はすべて断っています。
このような調子で外界も世間も知らずのままで、十六の歳を迎えた私ですが、私は屋敷に居る方がどうしようもなく安心出来るのです。
我ながら、まるで世捨て人のような言い口ですね。
当家は武家であり、名家ではありますから、礼節と、しかるべき振る舞い、それから両親にさえしっかりと、従っていれば、お姫様のように大事に扱われるのです。(私が長女で一人っ子ということも要因かも知れませんが…)
年相応になれば、しかるべき家柄に嫁ぐことも出来たでしょう…。
「出来たでしょう」過去形です。
今、現在の私は他家に嫁ぐ事ができないのです。
その理由は幼少の頃のある出来事により、
子を宿せない身になってしまったからなのです…。
跡継ぎを宿せない我が身は、武家にとっては意味を果たさない、役立たずに過ぎません。
『傍らの茶をすすり、茶碗をそっと置く』
…これから少しだけ唐突な比喩と、わたくしごとのお話をさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか?
それをしないと、このお話が進みませんので、何卒ご容赦の程を…。
『もう一度茶をすすり、茶碗をそっと置く、そして意を決する』
もしも、駕籠の中の鳥が何かの拍子で外に出て、その直後に、猫にでも襲われ、幸いにも再び安全な駕籠の中に戻れたとしたら、その鳥は再び駕籠の外に出ようとしますか?自由を求め羽ばたこうとしますか?
それよりも恐怖や、安全に生きたいと言う欲求の方が強くなり、絶対に駕籠の中から出てこようと、しないのではないでしょうか…?
それどころか、駕籠から出ようとした己の愚かさや、浅はかさを嘆くのではないでしょうか?
このお話は確かに、比喩ではありますが、私にはこの「鳥」の気持ちが良くわかります。
そう…『無関心こそ安心であり、好奇心こそ人を破滅させるもの…』
これは幼少時に私が身をもって得た体験談と教訓です。
これから語らせていただくお話は、私の過去から現在にまつわるお話になります。
私は今でも、あの時の体験の恐ろしさと、惨めさと、己の愚かさを忘れる事が出来ません。
それは私が愚かにも駕籠の中から出てしまった体験談です。
あれは10年前の冬の日でした。その日は特に寒かったので、なかなか布団の中から出れず、それでいて起きなければならなかったので布団の中に居るまま、使用人を呼び、火鉢の火を起こして貰うと、お部屋が、温かくなるまで待ってから寝床から起き上がり、何気なく部屋の障子を開け、外を見ると私は思わずハッっと息をのみました。なんと、外の景色一面がまっしろだったのです。その時、私は初めて積雪という物を見ました。
雪などめったに降らない地方ゆえ、雪は積もる物だと言う事も知りませんでした、本当に夢にも思わなったのです。
何しろ昨日の夜まで、何事もなかった、いつもの風景が、朝になったら激変していたのですから。
建物や畑や山々までもが、真っ白に雪化粧をしておりました。幼かった私は、好奇心と雪景色を施された景色を間近に見たいと言う衝動を抑えきれず、両親や家人に見つからないように、そっと、裏口から家を出て裏の雪山に向かって真っ直ぐに走り始めたのです。
走っている途中は、まるで夢見心地でした。自分はおとぎ話の世界に来てしまったのだろうか?と思ってしまうほどでした。…濃厚な幻想感に心が覆われてしまったのです。
幼かった私はただひたすら高揚しながら、心のどこかで今の自分はおとぎ話のような、非現実な世界にいるのだと、嬉みつつ積雪の裏山の野原を駆け回りました。
やや駆け回っていると、遠目に、ひときわ大きな巨木が目に入り、何気なく近づいて見ると、幹のやや上辺りに、ぽっかりと大きな穴が空いていて、私はむずむずと好奇心をくすぐられてしまいました。とかく、穴の中はどうなっているのか見てみたくなり、わくわくしながら、巨木をよじ登って、穴の中を覗いて見ると、そこには冬眠明けの狂暴な熊が血走った眼でこちらを見、フッ!フッ!と息を荒げていたのです。
先程まで幻想の世界にいた私は一瞬にして現実に引き戻されてしまいました。
青ざめたまま動けないでいる私を、熊は餌として認識しているようです。
冬眠明けで飢えていたのでしょうか、余りの飢えに正気や理性さえ失っているように見えました。
私はとっさに恐ろしい化け物から逃げようとして木の下に飛び降りたのですが、狂暴な熊はいつの間にか私の背後まで迫っていたらしく、その恐ろしい爪は私の背中に「かすり」を入れ、「かすられた」衝撃で、そのまま、近くにあった、浅い崖下にドサッと落ちてしまいました。
不幸中の幸いだったのは、運良く岩と岩の間に落ちた事です。
私は幸いにも生き延びていましたが、体は僅かに痙攣するだけで、自分の意思では全く動かせません。両手を開きながら雪空を見る姿は、まるで古びて捨てられたカカシのようでした。
この時、私にとって無二の幸いとなったのは、熊の周囲に鹿の死骸が横たわっていたことです。熊の標的の対象はそちらに移りました。
自然死した鹿のお陰で私が熊に食べられる事は無かったのです。
ただし先程、不幸中の幸いとは言いましたが、突き詰めれば、所詮は不幸中の出来事です。不幸不運であることに変わりはありません。私は熊に襲われた衝撃で身動きが取れなくなっていますし、凍りつくような寒さに爪先から頭のてっぺんまで責められ、背中の出血が、余計に身体の冷えに拍手を掛けました。
体の芯から体温が外に流れ出て行く感覚は、怒りや恐怖で青ざめた時に血の気が手足からスーッと引いて行く感覚によく似ており、唇だけがガタガタと震え動いていました。身体は寒さを感じて震えているのですが、私の心は寒さよりも恐怖を感じることを最優先していたようです。
自分の意に反して、無造作に失禁をしてしまうと、失禁による下半身の妙な温かさは耐え難い心の苦痛と自己嫌悪と羞恥心と恐怖の証となりました。
辛い辛い涙が両目から流れるのですが、恐怖のあまり嗚咽すら出ません。
……惨めです。
……ややあって、鹿を食べ終えた熊が私の方を見ていましたが、襲いかかってくる事はありませんでした。
ただじっと私を睨み付けながらにその場を去って行ったのです。
「お前は知らなくて良いものを覗いてしまった。その報いを受けたのだ」
私を睨み付けた熊の血走った眼は、私にそう警告しているように見えたのです。
熊が去った安堵感からでしょうか、私はそのまま意識を失ってしまいました。
それから三日後に意識を取り戻してみると、私は自分の家の自室で寝かされていました。我が身を返り見ると全身を包帯で巻かれており、意識がはっきりしてくるにつれ、ひどく身体が痛むのです。特に背中の痛みは酷く、意識を取り戻してからは、仰向けにならなければ寝床につけないほど痛みました。
私が九死に一生を得ることができたのは、家から居なくなった私を家人達が必死に探し、見つけてくれたからです。
もう少し発見が遅れていたら凍傷にかかり、手足の指を切断していたかもしれなかったとのことです。
……そのような話を聞いた時は少なからず動揺し、そして生き延びた事を安堵しましたが、家人達は私を発見した時に、私のあの哀れな姿を見ているのです。
その事についてはあえて触れては来ませんが、悪意のない、よそよそしい態度がかえって私の心をキズつけるのです。
代償…
私が被った代償…
それは生涯、消えない背中の傷。
後年ですが、年相応になってもめぐってこない月経…
この時の心の傷が、私の身に子を宿せなくしてしまったと医者は言っていました。
これで私の武家の子を産み育てる、という武家の娘としての価値はなくなってしまったのです。
これが私の好奇心の代償でした。
私の人生はこの時、見事に暗転してしまったのです。
籠の中の鳥は籠から出るべきではなかったのです。
籠の中の鳥は籠から出ても、世界の残酷さの餌食になるだけなのです。
好奇心の代償として私が悟った理です。
「駕籠の中から出なければ良かった…」
そう思わない日はありません。
この時の経験が私を無関心で、外を散歩することもできない臆病な人間へと変えていったのです。
何事にも深く関わらず、無関心でいる事こそ、最良の安全地帯であると思い知り、そして、悟りました。
ただし、はた目には、私は終わってしまった灰色の人生を、ただただ無為に過ごしているように見えますが、結局、そうはならないのです。
これが生きると言うことの面白さだと私は思います。
私は自分の悟りのままに人生を生きて行くつもりだったのですが、これから先、思いよらない出来事が、さまざまと私の前に起こってゆくのです。
ー前置き終わり本編へ続くー