06 すまなかったな。~ターク様と残り湯~
場所:タークの屋敷(バスルーム)
語り:小鳥遊宮子
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――まだ異世界……?
ソファーで目覚めた私は、さっきと変わりのない景色に、落胆しながら身体を起こした。目が覚めたら日本という淡い期待は、見事に裏切られたようだ。
二人のメイドさんが、私の顔を覗き込んでいる。さっきの真面目そうなアンナさんと、くるくるした短い髪の元気そうな女の子だ。歳は私と同じくらいだろうか。
「きれいにしてやれ」
ターク様はそれだけ言うと、デスクに向い、なにやら書類に目をとおしはじめた。
お風呂あがりなのか、なんだかさっぱりして、血に汚れた服も着替え終わっている。
私はいったい、どれくらい眠っていたんだろう。
――ここ、お城……?
あらためて周りを見渡してみると、そこは、クラシックな雰囲気が漂う、ステキなお部屋だった。
ランプが吊りさがった大きな書棚と、上部がアーチになったおしゃれな出窓がある。
書棚の前には、重厚感のあるデスクと椅子が置かれていた。
やっぱりここは、彼の書斎のようだ。
ぼんやり部屋を観察していると、メイド達が「こっちよ」と、バスルームへ案内してくれた。
そこは、先ほど寝かされていた書斎の隣にある、ターク様の寝室の、さらにその奥に位置していた。
ターク様専用のバスルームのようで、広々とした大理石の床に、おしゃれなバスタブがある。天井にはシャンデリア、壁の大きな窓には、美しい装飾のカーテンがかかっていた。
まるで高級ホテルのようで、なんだかとても贅沢な気分だ。
まだあちこち痛むけれど、ターク様の治療のお陰で、私はなんとか歩けるようになっていた。
身体中にあった、たくさんの切り傷も、ほとんどが塞がっている。赤く盛りあがったような傷跡が残っているけれど、血はすっかり止まったようだ。
――すごい。もう動けるなんて。
だけど、バスルームの鏡に目をやった私は、思わず「ひっ」と声をあげた。
――なんて悲惨。
壁にぶつけられた顔面が、自分でもだれだかわからないくらいに赤く腫れあがっている。
それはもう、女子高生なんて可愛いものじゃなかった。
あまりの状態に、ターク様はこんな顔の相手に、よくあんな治療をしたものだなと、思わず感心してしまった。
「ひどい顔……。オバケみたい」
「さっきはもっとひどかったわよ? ご主人様の癒しの加護がなかったら、とっくに死んでいたと思うわ」
「そうね。それに、ご主人様は、貴重な魔力をまた使い切ってしまわれたわ」
そう言いながらも、メイドたちはアザだらけの身体を気づかって、そっと洗ってくれた。
恥ずかしいので自分で洗いたいと言っても、「仕事ですので」と、聞き入れてもらえなかった。
あまりに手際がいいので、諦めてまかせていると、私を湯船につけたところで、彼女たちはさがっていった。
「私たちはこれで失礼しますから、よく温まってくださいね。着替えはこちらに用意しましたよ」
仕事が早い彼女たちは去りぎわもすばやい。『本物のメイドさんなんてはじめて見たな』と、私は少し感動しながら彼女たちを見送った。
脚をへし折られ、身体中切り裂かれたというのに、もうお風呂に入れるなんて、本当にありがたい。
バスタブには、ミルクのような肌触りの優しい湯が、キラキラと光っている。傷に湯が染みるかと思ったけれど、むしろ心地いいくらいだ。
――もしかしてこれ、ターク様の残り湯?
少しくすぐったくて気持ちのいい、あの不思議な光。包まれた感覚を思い出すと、まだ胸がドキドキする。
――私が眠ってしまったあと、どれくらいあの状態だったのかな……。
ぼんやりキラキラのお湯を眺めていると、突然バスルームにターク様が入ってきた。
「きゃっ!?」
裸の乙女が声をあげて小さくなるのを見ても、彼はおかまいなしだった。
ツカツカと近づいて、バスタブの縁に座ったかと思うと、「顔がひどいな」と無表情につぶやく。
「う……」
私は、思わず横を向き、顔を手で覆った。ミルクのようなお湯で、なかまでは見えないけれど、それにしたって視線が痛い。
ターク様は、私の傷跡だらけの背中をしばらく眺めていたかと思うと、突然傷を指でなぞりはじめた。
「いたっ」
「ふーん。まだ痛むか」
思わず肩をすくめると、無表情な彼の口元がニヤリと歪んだ。まるで私が痛がるのを楽しんでいるかのように、次々に傷をなぞっていく。
――お礼を言うつもりだったけど、これは……。なんだか少し意地悪じゃない?
――達也は私が嫌がることはしなかったのに……。
幼なじみの達也と、そっくり同じ顔の彼だけに、どうしても二人を比べてしまう。
朗らかで優しかった達也を思い出すと、目の前の彼に、どうしても少しビクビクしてしまった。
しばらく無言で傷口をいじっていた彼は、最初からあったミミズ腫れの跡を指さした。
「この傷は、だれにやられた?」
「わかりません。気が付いたら傷だらけでした」
「じゃぁ、ほかになにか、覚えていることは……?」
「うーん……」
「本当に所有者不明なのか?」
私がよくわからないという顔をすると、彼はバスタブの縁に座ったまま、思い切り顔をしかめた。
「記憶喪失は頭のケガのせいか?」
彼の手が今度は後頭部を探る。
「い、痛いですよ」
「我慢しろ。私が触って悪くなることはない」
彼は得意げにそう言って、濡れた髪をかき分け、頭の傷を確認した。
「しかしこれは……かなりひどいな。あいつら、なにをしたんだ?」
「石の壁にぶつけられました」
「はぁ……? じゃあ、あの骨折は?」
「拳で叩き折られました」
「本当にふざけたやつだな」
ターク様は苛立った顔で小さく舌打ちをする。
――どうしてこの人だけは、こんなに怒ってくれるんだろう。
さっき道端に倒れていたとき、だれも助けてくれなかったことを思い出して、私は首を傾げた。
「すまなかったな」
「え? なにがですか?」
「急いでいたとはいえ、私の配慮が足りなかったようだ。牢屋にいるほうが安全かもしれないと思ったんだが……」
悲しげな顔で謝罪する彼。私はなにも言えないまま、ただポカンとした顔で彼を見上げた。
――まさか、謝られてしまうなんて……。
貴重だという魔力を尽きるまで使って、あんな治療までしてくれたターク様。意地悪だなんて思ってしまったことが、急に申し訳なくなってきた。
「私の使用人がしたことだ。治療は最後までさせてもらう」
はっきりとした黒い瞳が金色の光を反射し、誠実そうに輝いている。
真剣な顔でそう言ったターク様は、牢屋でいきなり怒鳴ってきた彼と、同じ人物だとは思えなかった。
相変わらず目付きは鋭いし、怖いくらい無表情だけど、声がひどく優しい。自分の落ち度でケガをさせてしまったと、本当に悔やんでいるようだ。
――あれがあなたのせいだなんて、そんなはずないじゃないですか。
そう思うものの、うまく言葉が出てこない。
私が「よろしくお願いします」とだけ返事をすると、彼はこくんと頷き、湯船に手を浸けた。
光り輝く指先から、金色の光が静かにもれだし、湯に溶け込んでいく。
「ゆっくり入るといい。この湯には私の加護が残っているからな」
「はい……!」
私が口まで湯に浸かり込んだのを見ると、ターク様はくるりと背中を向け、バスルームを出ていった。