その2
ここまでは「自然」というものに対する俺の考えというか、感じるところを書いてきた。ここからは「自然保護」や「環境問題」を考えてみる。
ここまで「自然」は人間にとって悪いものである、と書いてきた。いわば「自然」は人間の敵だ。そうすると「自然保護」は、言葉そのものに違和感がある。「自然」とは、たやすくねじふせられるような容易な敵ではなく、決して勝利することができない強大な敵なのだ。保護というのは、基本的に弱いものを守ることだ。しかも、保護するからには守るだけの理由がなければならない。いったい「自然」のどこが弱いのだろうか。そして、どうして人間は己の敵を守らなければならないのか。意地の悪い言い方をするなら、地震、台風、竜巻、雷を、なぜ保護するのか? どうやって保護するのか?
いいや、誰も台風や地震を保護したくて「自然保護」と言っているのではないだろう。それは俺にもわかる。しかし、台風や地震は、俺の見方では「自然」なのだ。では「自然保護」とは何を守ることなのか。
美しい田園風景を守ることが「自然保護」なのか? 北極や南極の氷が溶けないようにすることが「自然保護」なのか? それとも、クジラや一部のカエルなど、絶滅の危機に瀕していると言われる生物種を未来に残し、生物の種類を多く保つことが「自然保護」なのか?
「自然保護」だけではつかみどころがない。そこで「環境問題」を見てみる。「環境問題」の中身をはっきりとさせて、次に「自然保護」と「環境問題」の関係を考えてみたい。
「環境問題」は具体的な例と、それらの共通点が挙げられるので、「自然保護」よりはわかりやすいかもしれない。「環境問題」の具体例を挙げていくと、大気汚染、土壌汚染、水質汚染、土壌流出、砂漠化、地球温暖化などが出てくる。どれも深刻な問題である感じだ。汚染やら砂漠化やらなどは、字面だけでも印象が悪い。次は、具体的にこれらの「環境問題」の具体的な面を見てみる。
大気汚染は文字通り空気の汚れだ。古い自動車の排ガス、工場の煙、悪臭などが人間の呼吸を妨げ、健康を害するのだ。中国の都市部で問題になっていたり、かつては日本やアメリカでも都市部の空気は危険なほどに汚かったという。日本の北海道で言えば、スパイクタイヤによる粉塵も問題とされていた。スパイクタイヤとは、タイヤに金属の鋲を打ち込んだもので、これを雪や氷に食い込ませて車が滑らないようにしていたのだが、このスパイクがアスファルトを削り、空気中に粉塵をまき散らした。そのため、現代の日本ではスパイクタイヤの使用は禁止されている。このように見てくると、確かに、人間の生存に必要不可欠な空気が汚れていては、大変に危険であることがわかる。
次は水質汚染だ。たとえば、ダイオキシンなどの化学物質が河川に流れ込んでカエルや魚を殺したり、逆に栄養がありすぎる生活排水が川に流れ込んで一部のプランクトンが大発生し、漁業に甚大な被害をもたらしたりすることだろう。ひどい場合であれば、上流で汚染物質が川に流れ込んだために、下流の水を飲んだ人間が死ぬ恐れがある。水俣病、という公害があったが、それは水質汚染によるものだと言えるだろう。水は農業にも必要なものであるので、水質汚染は食料生産に甚大な被害を与える可能性もある。水質汚染は確かに、人間にとって大問題である。
土壌汚染と砂漠化の例を考えてみる。土壌汚染の具体例は、俺にはすっと出てくるものはないのだが、イメージとしては水質汚染と似ていて、たとえばダイオキシンやら核廃棄物やらが土地を汚して、人間の健康を害したり、農業生産を妨げることだろう。福島原発事故によって利用できなくなった農地などは、土壌汚染被害のひとつと言えるだろうか。砂漠化は、日本人の俺にはさらに漠然としたイメージとなるが、映像として想像するとわかりやすい。アフリカやオーストラリアで起こっているらしいが、イメージとしては、それまで青々と茂っていた森林や草原が、植物が死に絶えてしまって、一面の砂漠に変わっていくことだ。砂漠といえば、いかにも不毛の土地だ。そんなところでは人間は住めない。水も食べ物もなく、昼は酷暑で夜は冷えると聞く。これまでは木や草や動物が生きていた土地が、そんな不毛の土地に変わると思うと、なかなかぞっとしてくる。
土壌流出についてだが、実は俺はこれについてほとんど知識がなく、ある本に書いてあったとおりに書くしかないのだが、その本によれば、植物がない裸の土地に雨が降ると、地面が水を吸収しきれず、栄養分のある土壌そのものが川へ海へと流れていってしまい、結果として植物が育たない土地になることであるらしい。現実にどこで土壌流出が起こっているのか、具体例は挙げられないが、とりあえず、そういう現象があるなら、やはり農業生産上の大問題だろう。
最後に地球温暖化だ。これについては、実は地球は温暖化していない等の意見もあるらしいが、とりあえずここでは地球温暖化の科学的な実態には触れず、地球温暖化というもののイメージを見ていくことにする。まず、地球の温暖化というくらいだから、気温が上がるのだろう。結果として考えられるのは、まず農業生産システムの壊滅による食糧危機だ。ざっくり考えれば、全世界の畑が砂漠化すると思えばいいかもしれない。次には、北極や南極の氷が溶けることによる全世界的な平地の水没だろう。地球温暖化の悪影響は、SF映画を見ている人にはおなじみかもしれない。かつての都市が丸ごと海に沈み、人々は廃墟の中でわずかな食料や燃料を取り合って銃を撃ち合い、殺しあっているというディストピアだ。全地球規模で同時に起こるため、地球温暖化は人類を滅ぼしかねない大災厄に思えてくる。
さて、ここまで「環境問題」の具体的な例をイメージしてきた。あまり科学的ではないかもしれないが、イメージとしてはそんなに誤っていないと思う。そして、これらの「環境問題」には一つの共通点がある。それは「人間に害を与える」ことだ。
何を当たり前のことを、と思われるかもしれないが、俺がこれまで書いてきた内容を思い出してほしい。「自然」とは人間の強大な敵であった。それも容赦なく殺しにかかってくる残酷な敵だ。ある意味では「環境問題」は「自然」に似ている。人間に害をなすという点では「環境問題」も「自然」も同じだろう。「自然」と「環境問題」の違いは、原因が「自然」によるか、「人間」によるか、である。「人間」によって引き起こされた「人間」に対する危機が「環境問題」なのだ。ある見方をするなら「戦争」と「環境問題」は同じである。どちらも人間による人間の殺傷が問題となるからだ。だが「環境問題」と「戦争」を同じくくりに入れて考える人は少ないと思う。「戦争」と「環境問題」は何が違うのか。
「環境問題」は「人間の産業活動」の結果としてやむなく起こされるもの、と考えることができる。「産業活動」の結果として仕方なく起こってしまうのが「環境問題」であり、人間同士が勝手に殺し合いを始めたり終わらせたりするのが「戦争」だ、と。
「産業活動」が「環境問題」を生むのであれば「戦争」との違いは見えてくる。「産業活動」は人間にとって必要不可欠だが、「戦争」は違う。農業、工業、漁業を行わなければ人間は生きてゆけないが、「戦争」をしなくても人間は生きていける。「戦争」は生産活動ではなく、むしろ純粋な消費、破壊活動なのだから、しなくてすむならそれにこしたことはない。
ここでさらにしつこく考えていく。読んできてくれたあなたには申し訳ないが、もう少しお付き合い願いたい。
「産業活動」が「環境問題」を生むとするなら、それはなぜか。素直にイメージで考えてみよう。「産業活動」は「資源」を消費することによって成立する。例えば、煙を吐く工場は、きれいな空気を吸い込み、きれいな水を飲みこみ、汚い煙と汚い水を吐き出して、有用な製品やエネルギーを生み出す。自動車のエンジンも同じに考えていいだろう。漁業は、魚を取ることによって成立する。きれいな水に住む魚を大量に取り出して、切り身にするのだ。農業は、肥沃な土地を耕し、きれいな水を撒き、単一の作物を植えることによって穀物をつくる。「資源」とは、この場合は「きれいな空気」「きれいな水」「肥沃な土地」等となる。そして「産業活動」に消費された「資源」は「汚い煙」「汚い水」「荒れた土地」等に変わってしまい「環境問題」を引き起こす。それでは「きれいな空気」「きれいな水」「肥沃な土地」はどこから持ってきたのだろうか?
「自然」から持ってきた、と思われるかもしれない。つまり「資源」とは「自然」である、と。確かに、それならば話がつながる。「自然保護」と「環境問題」の関係が見える気がする。「自然」は「資源」であるから「保護」しなければならないのだ、と。
しかし、本当にそうだろうか?
その2で終わるつもりでしたが、長くなってしまったので、続きは後日にします。漠然と思っていることを文章にするのは、やっぱりそれなりに大変ですね。調べたりとか、全然してないんですが。