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その1

 最近は、環境問題と言うことが言われて久しい。20年、30年前から言われている気がする。のだが、テレビなどで環境問題、とか、日本の自然、といった言葉を見聞きするたびに、違和感が大きくなってきたので、ここに吐き出してみる。


 なお、注意点というか、許してほしいというか、先に言い訳を書いておくと、俺は生物学や科学、歴史、考古学についてはまったくの素人だ。だから、多くの間違いはあると思う。それでも、ただの素人がふらっと思ったこと、考えたことを読みたいと思う人だけ、ここから先を読んでほしい。その、別に価値がなくても、書くのも読むのも自由なのが「小説家になろう」だと思うので。


 豊かな自然、という言葉を聞くと、多くの人はそれがよいことだと思うのではないだろうか。俺も子供のころはそう思っていたし、何しろ「豊かな」自然なのだから、言葉の意味としては、プラスに取る方が普通だ。だが「豊かな自然」とは、いったい何のことだろう。

 自然の豊かさを計るのに、たとえば、生物種の多さを基準にしてみるとする。そこに生きている生物の種類が多ければ豊かで、少なければ豊かではない、という考え方をしてみる。すると、たとえば熱帯雨林や海中の暖かいあたりが自然が豊かで、北極や砂漠、東京などの大都市が自然が豊かではないことになる。熱帯雨林なんかにはいまだに新種の昆虫が見つかったりと、まず生物の種類が多い感じがするし、海の中でもプランクトン等が豊富で、それを餌とする魚類等が多い遠洋なんかが、生物の種類が多い感じがする。逆に、砂漠は生き物なんていない気がするし、北極や南極も寒すぎて生き物は少なそうだ。東京などの大都市は、あえて極端な言い方をすれば、人間とゴキブリくらいしかいないのではないだろうか。

 さて、この時点で少しおかしな感じがしてくる。東京の大都市や砂漠があまり豊かな自然ではないのはいいとして、なぜ北極や南極の自然が豊かではないのか。北極や南極は、基本的に人間の手があまり入っていない。地球温暖化による氷の減少といったことは、また別の問題が絡むので、とりあえずここでは考えない。北極や南極に人の手が入っていないのはなぜかというと、利用価値がないというか、土地利用が難しいからだが、写真などで北極や南極の映像を見ると、まさに「大自然」といった感想が出てくる。「大自然」なのに「豊かな自然ではない」のだ。

 次に、生物種の多さとして、田舎を考えてみる。木のないはげ山、山岳、田畑などだ。はげ山は、まあ、あまり生き物はいなさそうだし、生物の種類も少なそうだ。印象は砂漠に似ている。豊かではないだろう。山岳は、とても大雑把なくくりだが、生物の種類はそこそこ多そうだ。特に虫や草木、キノコなんかが多いと感じる。最後の田畑だが、実は、あまり生物種は多くないようだ。当たり前なのだが、田畑というものは単一の作物を得るための土地なので、生物の種類は少なくなるように人間が手を入れている。要するに、田んぼに雑草が生えると困るので、除草剤を撒いたりする。もちろん、ある程度の雑草は嫌でも生えてくるし、農業害虫なんかも嫌でもやってくるし、別に害ではないにしろ、虫の類はたくさんいる感じはあるが、虫がたくさんいるといっても限られた虫ばかりで、生物の種類としては、あまり多くはない。人間が考える畑や田んぼの理想は、田んぼでであれば稲だけが育ち、小麦畑であれば小麦だけが育ち、雑草害虫が一切ないというものなのだが、生物種が一種類であることが理想であるので「豊かな自然」ではないことになる。

 ここまでくると、かなり違和感が出てくると思う。いわゆる「日本の田園風景」についてだ。一面の稲田、小麦畑、ラベンダー畑、どれも美しいと思う。しかし、それは「自然の美しさ」ではないことになってしまう。では田園風景を美しいと感じるなら、何が美しいと言えばいいのか。「人工物の美しさ」だ。スカイツリーや高層ビル、都市の夜景、一部の人たちが好む工場地帯の美しさと、田園風景の美しさが同じカテゴリに入ってしまう。

 さて、ここで少し整理してみる。生物の種類の多さを基準に「自然の豊かさ」を考えると、熱帯雨林、暖かい海中、山岳が「豊かな自然」になる。逆に、砂漠、北極南極、大都市、田畑、はげ山が「自然が豊かではない」ことになる。

 これでは、テレビなどで言う「豊かな自然」と違いがありすぎる。自然と聞くたびに混乱するばかりだ。疲れてしまう。

 そこで「豊かな自然」はとりあえず棚上げにして、「大自然」をリストアップしてみる。素人がなんとなく感じている「大自然」だ。ウィンドウズのデスクトップの背景に最初から入っているような美しい光景のことだ。北極南極、大河、滝、山脈、砂漠、大平原、熱帯雨林などが思い浮かぶ。共通点は、どれも人の手が入っていないことだ。もっと言ってしまえば、人間が利用制御することが困難であったり、人間にとって過酷な場所が「大自然」ということになる。これは「豊かな自然」よりもわかりやすい。要するに、人間が手を加えていない場所が「大自然」なのだ。

 ここまで考えてくると、違和感はさらに大きくなる。「豊かな自然」は正体不明だし、「大自然」は人間が利用できないものだ。「自然」とは、いったい、なんなのだろう。「自然」は、そもそも良いものなのか? それとも、もしかすると、悪いものなのか?

 自分なりの、現時点での結論を言う。「自然」とは人間にとって悪いものだ。そして、決して乗り越えることができない、永遠の壁である。


 今年、令和元年、台風19号がやってきて、多くの川が決壊し、少なくない人が命を落とし、財産を失った。これも「自然」だ。当然、地震も噴火も竜巻も「自然」だ。大災害と言われるものこそ「自然」の最たるものだと思う。

 人間には衣食住が必要だ。「自然」にそれはない。これには違う考え方もあるかもしれないが、俺は「自然」は人間を殺すものだと思っている。たとえば水。人間は生きるために水を飲まなければいけないが、たとえば海水は飲めない。淡水であっても、泥水はだめだし、澄んだ水であっても寄生虫や細菌感染等の危険がある。そこで、澄んだ水を煮沸して飲んだりするわけだ。この飲料水は「自然」ではない。「自然」を人間の力で加工して利用できるようにした「人工物」だ。

 食料といえば、現在、人類の食料のほぼ全てが農業生産物である。つまり食料は「人工物」だ。時代をさかのぼって、石器時代に戻ったとしても、人間は「自然」から食料を勝ち取るために多大な労力を費やしてきた。食べられる野草、キノコ、木の実を採取するだけでも、人間は知識や知恵を使わなければならなかった。肉を食べるためには、弓や投げやり、落とし穴などの道具を作成、使用して、危険な「自然動物」を狩らなければならなかった。そして、苦労して採取した野草、キノコ、木の実、肉を食べるために、木を切り倒して火を使わなければならなかった。食べるものとは、人間が自然からどうにかしてもぎ取った成果であり「人工物」なのだ。「自然」に人間の食料など存在しない。

 では着るものはどうだろう。考えるまでもない。「自然」に衣服などない。もっとも原始的なものでも、動物の毛皮、植物の繊維などからコシミノやら貫頭衣やらを作る必要がある。寒さ、熱さから身を守るために、人間は「自然」を加工して「人工物」の衣服として利用してきた。

 住居はどうか。縄文時代の竪穴式住居などは間違いなく「人工物」だ。「自然」には人間が住む場所はない。大昔は、岩陰、洞窟、木の下など、せいぜいそういったものを偶然に人間が使うことはできた。現代人には、とうてい「自然」の中に住むことはできない。全くの道具なしでキャンプができるだろうか。キャンプ道具なしで「自然」の中で一晩寝るなら、それはただの野宿だ。キャンプではなくサバイバルになる。

 俺はこういった風に考えている。

 もしも、自然に全く逆らわずに生きていた時代があるとするなら、それは人間が人間になる以前の時代だ。人間ではなく動物であるなら、食料は自然そのものから恵んでもらうしかない。少なくとも、火を使うようになったときから、人間は動物であることをやめた。自然と戦う術を手に入れ、自然と戦う道を選んだのだ、と思う。

 人間の歴史は「自然」との戦いの歴史だった。過去もそうだったし、現在も戦っているし、未来でも、人類が滅亡するまで戦いは続くだろう。もしかしたら、人類の滅亡とは「自然」に敗北したときかもしれない。そして、どうにかして「自然」に「負けなかった」からこそ今の人類がある。勝利はありえない。台風、噴火、地震を完全に防ぐことができるだろうか? 予知でさえ難しい。科学技術の理想がどこにあるのかは知らないが、人間が自然に勝利する日など、何万年後であっても想像できない。

 それでは「自然保護」とか「環境問題」とは、いったい何なのだろう。


と、ここまで書いてきて、予想以上の量になってしまったので、いったん終わりにしたいと思う。思ってたより疲れてしまった。続きは、また後日に上げるつもりです。

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