1 プレッツェル考
星に願いを。私は不機嫌になった。
「時々、普段とは違う道で家に帰るんだ。そうすると、また明日から頑張ろうなんて思えるんだよ」
涼が言ったそんな言葉を律儀に試してみたが、何のことはない。知らない坂道に当たって普段より疲れる結果に終わった。
それだけなら眠れば済むが、途中にあったコンビニエンス・ストアに誘われて入り、訳のわからない菓子だの酒だのを買ってしまった。六百二十六円の赤字である。玄関の電気をつけながら時計を見やれば十一時過ぎで、このまま食べてしまっては肥満の原因にまでなりかねない。
涼は気分転換の意味を適当に語ったに過ぎないのだ。あまりにも大仰に、人生訓のように喋るから、私が勝手に魔法の手順を聞いたように過大に受け取ってしまったに過ぎない。転換しなければいけない気分など、私は特に持ち合わせてはいなかった。
荷物を取り決めた場所に戻した後、自分自身は椅子に腰掛ける。行き場の定義されていないコンビニエンス・ストアの白く濁った袋をどうするかと、テーブルの上のそれを細く睨んだ。風もないのに所在げに揺れる様が忌々しい。いっそ返品でもしようかと思ったが、こんな時間にわざわざ出直すというのも厭わしかった。
暫し考える。その間、袋は中に残された菓子と酒を庇って微細に揺れ続けた。
期間限定・クリームチーズ味、だそうである。
捨てにくそうな包装を剥がすと、白いチョコレートを纏ったプレッツェルが狭そうに押し込められている。一本取り出して齧ると、別に感想を言わなくても良いような味がした。
前提として、私は大元の菓子の味を知らない。期間限定商品とは、平常時の味を知らずとも感想を述べて良いものなのだろうか。誕生の経緯まで知って初めて、私はこの菓子にちゃんと向き合える気がした。
菓子にしてみれば、知ったことではないだろう。何せ、包装の中には二十本弱のプレッツェルが押しのけあっているのだ。その中の一本に私が向き合ったとして、他の菓子どもは愉快でも不愉快でもないと思われた。私だって、満員電車の中から一人の他人が引き抜かれていって、結果その他人が救われたって喜びも悲しみも感じないだろう。
どうして私じゃないのか、と残念に思えば精一杯である。それだって、きっと感じることはないんだろう、と私は次の菓子に手を伸ばした。
菓子は幸せだ。余程不興を買わなければ、最後の一本まで食べられることが分かっているのだから。
「杏、疲れてるでしょ」
そう言いながら、里香は私にお茶のペットボトルを差し出した。遠慮なく受け取る事にする。疲れているという彼女の推理も、間違いではなかったし。
「何かあった?」
「遠回りして帰っただけ」
蓋を開けるのに苦労しながら、私は答えた。
「涼の言ってたやつ? 試したんだ」
「里香は試さなかったの?」
いくら力を入れても開かないので、私は眉間に皺を寄せながら訊ねた。
「まあ、それほど切羽詰まってはいないからね」
ふうん、と返事をする。自分でも気のない返事とわかるそんな返答で力が抜けた。その拍子にすっとペットボトルがその頑固な蓋を緩める。馬鹿げた開き方に、声も出なかった。
里香は何か聞きたそうに私を眺めていたが、私が口を開かないと思ったのか、手を振って去ろうとした。私は慌ててペットボトルから口を離して、彼女を呼び止めた。
「待って、お茶飲みながらは喋れない」
「なにそれ」
彼女は面白くも無いように言ったが、一先ず私の制止は聞いてくれたらしい。私が座っているベンチの横に腰掛けて、話を聞く体勢をとった。
「分かってるんだ。自分が何か変なのは。いつもなら、わざわざ回り道なんて試してないはずなんだ」
「ふうん」
暫しの沈黙が流れた。私はペットボトルの蓋を弄びながら、里香が話すのを待った。左手の中で軽々しく震えるそれが、先程までの強情な蓋とどうにも一致しなかった。
「それは、何故昨日はわざわざ試したのか自分でも分からないってこと?」
ようやく口を開いた里香は見透かしたように訊ねた。私はペットボトルの蓋を締めながら頷いた。それを見て、彼女は少しだけ愉快そうに口許を緩めた。
「じゃあ、分かったら教えて。待ってるからさ」
彼女はすっと立ち上がって行ってしまう。私はまだ七割ほど中身の残っているペットボトルを鞄に突っ込んで、溜息を漏らす。そして、そのペットボトルのお茶は翌朝まで鞄の中で所在なく波打つことになった。