人形の恋人
僕は人形だ。
それだけは誓って事実だった。
僕は今、連れと一緒に○○県の△△山に来ていた。アスファルト舗装されたうねった山道をぐるぐる登っていると、なんども車が僕たちの隣を追い抜いていった。
山頂はまだ先だが、ガードレールの向こうはなかなかの絶景が広がっている。
「ここの空気は都会と違って新鮮だよ。ほら、君も吸ってみなよ。全然違うだろう?」
景色を眺めながら僕は隣の連れに話しかけた。
連れというのは僕の恋人のことだ。
名前は瞳。僕が名付け親だ。彼女の目はボタンで、口はビーズ、黒髪と肌色の肌はフェルトで出来ていて、体の中身は手芸用の綿が詰まっていた。清楚で寡黙でおしとやかで、大和撫子のような美人と、父親兼恋人の僕も自負している。完璧な彼女と言っても差し支えのない彼女だが、一つだけ僕には彼女に対しささやかな不満を持っていた。
「はぁ、まただんまりか」
彼女は恥ずかしがり屋で、これまで僕に一度も声をかけてくれたことはなかった。
それが不満だった。今の今まで一緒にいて、たったの一度も声をかけてくれたことはなかったのだ。同じ人形同士なのに、どうしてこうも違うのか、僕は悲しくて涙が出てしまいそうだった。
だが、僕はもちろん泣くことはできない。だって僕の両目も彼女と同じで、安っぽい緑色のボタンが縫い付けられているだけだからだ。
「なぁ、一度くらいは僕に話かけてくれてもいいだろうに。それぐらいなら罰はあたらないだろ?」
今も衰弱した山椒魚のように、彼女はぐったりと身を預けてくる。
「長らく会話もない恋人なんて、仮面夫婦みたいなものじゃないか。一緒にいる意味ないよ。それでも僕が君とまだ別れていないのは、僕にはまだ君に人情を感じているからだ。でも今日は許さないぞ。僕は君の愛を試すためにここに来たんだからな」
僕は彼女の体を起こし、錆が出来たガードレール越しにか細い首を押さえつける。いまや彼女の体を支えているのは僕の両手だけだ。
ガードレール下から数十メートル先は、どこかの廃品業者が捨ててきたのか、タイヤやイスや冷蔵庫が山を築き、立派なごみ溜めの頂が形成されていた。彼女だってここから落ちたらひとたまりもないというのに、声一つあげなかった。
「ねぇ、一度でいいから僕に瞳の声を聞かせておくれよ。そうすれば、こんな恐ろしいことはすぐにやめるから。君が僕に声をかけてくれるのなら、今までの事は許してあげる。さぁ」
しかし数分待っても彼女は言葉を発することはなかった。
あやうく僕の口からは嘆息がこぼれてしまうところだった。彼女の前だからとカッコをつけたが、そうでなければ失意のうちに涙さえあふれてしまっていたかもしれない。
「ほんとうに落ちてしまうんだよ。それで君はいいのかい?」
だが、彼女は無言を貫いた。どうやら、それが彼女の出した結論だった。
「君の意思は固いようだね。分かったよ」
そして、僕は彼女の首から手を離した。彼女は抵抗もせず、ガードレールの向こう側に放り出され、あっさりがけ下に落ちていく。何度か岸壁に体を打ち付け、瓦礫の山に登頂した。
一度、グシャリと嫌な音をあげ、角材で割られたスイカのように、辺りに赤色を飛び散らせながら彼女の一部はバラバラになり、手足を変な方向にうねらせた。なんて下品な女なのだと思った。そんな風にヒステリーを起こさなくてもいいだろうに。
「じゃあ、もう行くからな、僕も君にはほとほと呆れてしまったからね。戻ってきたりはしないからね」
でも、本当は彼女に僕のもとに戻ってきてほしかった。崖をよじ登り、僕に相対し、「待って、置いていかないで」と懇願してほしかった。
情けないことを考えているのかもしれないが、誰だって同じことを思うだろう?
恋が醒めたって、本当は未練なんていくらでも残るし、恋人の気持ちを試す行為なんて誰でもすることなんだからさ。
「本当にこれが最後だからな。もう行くからな!」
僕は声を張り上げて、いま一度崖下のゴミ山を覗いた。瓦礫に埋もれてしまった彼女の顔は、僕をずっと見上げていた。
だが、それでも彼女の返答はなく、虚しく僕の山彦が木霊するだけだった。