春色ピンク
1
今年も桜前線が近づき、街はうっすらピンク色になりつつある。
新学期から高校3年生になる私は、その陽気につられるかの様に大人への階段を昇ろうとしていた。
同級生の子達は学校にも化粧をしてきたりしている。
なかなか大胆になれない私は、せめてルージュくらいはつけてみようと思っていた。
自分のルージュは持っていなかった。
4月1日、世間はエイプリルフール。
何だかそれはそれでいい気がしてデパートにルージュを買いに行く事にした。
何だか戦場に向かう戦士の気分だった。
少しオーバーな表現だけど、その位の気持ちだった。
電車で15分ほど、車内の中吊り広告が目に入った。
『春色ピンク』大手化粧品会社の春の新色の広告。
美しいモデルさんの笑顔の口元はピンクルージュが輝いていた。
その中のモデルさんはめちゃめちゃ可愛く思えた。
テレビや雑誌ですごくCMしている一押しの商品
やっぱりピンクかな?
実際、何を買うかなんて決めてなかった。
友達について来てもらう事も考えたが、一人で買う事に意義がある気がしていた。
ルージュをつけた自分を想像すると少し恥ずかしい気がしたりもした。
ここらで前を向かなければ、先へは進めない。
駅を降りると人波に飲まれるように目的地に向かった。
デパートに行く事自体には何の抵抗もなかったけど、さすがに今日は入り口で気合を入れた。
2
デパートは大体一階に化粧品売り場が広がっている。
毒々しい女の臭いに何だか興奮していた。
特にお目当てのない私は売り場を一周する事にした。
テレビや雑誌で見かける商品が目に入ってきた。
綺麗に化粧した店員さん達が笑顔で接客をしている。
ドキドキしていた。
ジーパンにTシャツに薄いブルゾンを羽織った、見るからに子供の私に声をかけてくれる店員さんなどいない。
何故デパートなのか?
それは最初だからちゃんと買いたいと思ったから。
コンビニコスメなら安くて簡単に買えたに違いない。
でも、大人への第一歩を踏み出す勇気が必要だと思った。
3周はしただろうか、やっぱり広告でみた『春色ピンク』が気になった。
勇気を出してその売り場で立ち止まり、商品を覗き込んだ。
「いらっしゃいませ」
店員さんの言葉にドギマギしている自分がいた。
「贈り物ですか?」
「い、いえ、あの…」
その若い店員さんは不審者を見るかのようだった。
やめようかと思った。
その時、奥から違う店員さんが出てきた。
「いらっしゃいませ、口紅お探しですか?」
若い店員さんを押しやる感じで私の前に来た。
さっきの店員さんよりはお姉さんって感じで 綺麗な人。
「広告で見たやつなんですけど…」
綺麗な店員さんは笑顔で椅子にかけるように言ってくれた。
不安は増大していたけど、椅子に腰をかけていた。
他にはお客さんはいなかった。
「どういった色をおさがしですか」
「あっ、はい!いや・・・」
ドキドキはより激しくなっていた。
逃げ出したい気持ちと、今そこにある美しい化粧品たちに心奪われてる気持ちが交差していた。
「ブラウン系よりピンク系の方がお好きですか」
私は頷いた。
「ご自分でお使いになられる分ですね」
「はい・・・」
お姉さんは笑顔を絶やさずに色々質問をし、いくつかのルージュを出してくれた。
綺麗なケースに納められたルージュたちに目はくぎづけになった。
その中の一本を慣れた手つきで取り出し色を見せて説明してくれた。
今年の流行色だというルージュを前にした私はおもちゃを買ってもらう子供のようだった。
お姉さんの説明はまさにプロって感じで、心地よい旋律のごとく私は引き込まれていった。
ドキドキは少し治まった気がしたが、今度はワクワクで胸が苦しくなった。
「あなたはまだ、若いし肌も綺麗だから明るい色が似合いますよ」
色々説明されて迷いがでてきた。
それは買う買わないじゃなく、どれを買うかで迷っていた。
初めてのルージュ、迷うのも当然だった。
それを察したのか、私の手の甲に三色のルージュを塗ってくれた。
「見てるのとは違うでしょうから、ご自分の肌の色と合わせてご覧になったらどうです」
私は塗られた色をじっくり見比べた。
手に塗られているだけなのに、今まさに唇に塗ったかのような感覚になっていた。
「唇に塗ってみましょうか」
お姉さんは小さな刷毛をルージュの先端にすべらせた。
私は顔を突き出した。お姉さんの手が顎を軽くささえてくれた。
手のぬくもりに少し恥ずかしくなって目を伏せた。
刷毛の柔らかい感触が唇に伝わり、全身がこわばった。
すばやく塗られていくルージュのしっとりした感覚が少し重く感じた。
お姉さんが自分の唇の形を変えて、私に真似するようにうながした。
初めて塗る訳ではないけど、こんな風に塗ってもらう事にかなりの違和感を感じていた。
「こうやって」
お姉さんが上唇と下唇を口の中にしまう仕草をした。
言われるがままそれに従って真似をした。
ぬるっとした感触が大人の感触に思えた。
鏡が差し出された。
治まったはずのドキドキが戻ってきた。
ルージュをまとっただけなのに、鏡に映る自分はいつもの鏡の中の自分ではなかった。
感動すらしていた。
「ん〜、いい感じじゃないですか。お似合いですよ」
お姉さんのお世辞も心地よかった。
手の甲に塗られた中から一番気にいった色だった。
「他のも塗ってみますか?」
鏡の自分に見とれていた。いや、唇に見とれていた。
見た目と手に塗った時と唇につけた時の違いがこんなにあるもんだと感心していた。
「その色が若々しい感じで好印象だと私は思うけど、どうかな?」
お姉さんの言う通りで鏡に写る私の唇は女らしく素敵だった。
「これにします」
お姉さんが笑顔で頷いてくれた。
ピンク色に塗られた唇はいつまで見ていても飽きる事はなかった。
「いい笑顔ね」
お姉さんはやさしさがうれしかった。
包む間にお客様カードに署名してくれと言われた。
嬉しかった。こんな私をお客さんと認めてくれた。
一本数千円だけど、今の私には高価なルージュ。
記念のルージュになるはず、綺麗にラッピングされ、小さな手提げの紙袋にいれて私の前にやってきた。
色々な試供品まで入れてくれた。
自然に笑顔になった。
「新製品のご案内送りますね。え〜と和美さん西澤和美さんね」
「ハイ!」
勇気を出してよかったと思った。
名札には『中田敦子』さんと書いてあった。
「ありがとうございます。また、いつでも来て下さいね」
中田さんの笑顔は最後まで変わる事はなかった。
いつしかドキドキはワクワクに変わっていた。
3
このルージュから始まる本当の女の子への第一歩。
デパートからの帰り道、私のワクワクは自然に笑顔になっていた。
行きと同じ「春色ピンク」の広告のモデルさんが自分に代わって見えていた。
小さな紙の手提げを持って歩く事に何だか誇らしい気持ちになっていた。
季節は春、桜の花びらがヒラヒラ舞っている。
いつもは俯き加減で歩く私も今日ばかりは前を向いて、いや、上を向いて歩いていた。
家に着くまでの間、おそらく気持ち悪いくらい笑っていたに違いない。
私は家に着くと一目散に自分の部屋に入り、鏡の前に座った。
綺麗に包装された、愛しい愛しいルージュを見つめていた。
ガムくらいの大きさの箱に私は3500円も払っていた。
高校生の私には確かに大金だ。
記念の箱をそっと開ける、少し手が震えたきがした。
中から現れたルージュはまさに、小さな生まれたての子犬のように可愛く愛しかった。
さっきはお姉さんに付けてもらったルージュ、今度は自分で付ける。
試供品でもらった小さな刷毛をゆっくりルージュに滑らせて塗る。
鏡に映る自分が半信半疑で期待しているように見えた。
そっと鏡に顔を近づけ、唇に集中する。
刷毛がすべる感覚はさっきのお姉さんとは少し違う。
少しづづピンク色になる唇、ゆっくりゆっくりと塗っていく。
上手く塗れるだろうか?不安と期待のドキドキは今日のこの時以外は感じられない感覚に違いない。
女の子はみんなこうやって大人の階段を登って行くのだろう。
どのくらいの時間だったのだろうか、おそらくほんの数分だったに違いないが、私には長い時間に感じた。
思っていたより上手くは出来なかった。
でも、唇一面がピンクに染まり、ぷっくりした感じは満足度を上げていた。
唇を突き出しながら、右に左にと顔を向け、鏡の中の自分を見た。
ルージュ1つでこんなにも表情が変わるものだと関心していた。
本物にはなれないかもしれない。
でも、少しでも近づけたら最高!
だって、私は高校生三年生になる少し普通じゃない、お・と・こ のこ。
「春色ピンク」が似合うようになりたいと思う今日この頃です。
まだ、誰にもいえません。