09 教師のぼやき
「話はまだ終わってないのだが……な」
取り残された教官室で、置き去りにされた格好のマティアスはとりあえず椅子に座り直した。
彼は去っていった少女の残像を思い出す。
入学当初から、自由奔放すぎるその性格で各方面に反感を買っていた少女だ。
遅刻サボリは当たり前。
上級貴族に対する度重なる失礼を理由に、女子寮の部屋も地下に移されたと聞いた。
マティアスにもしつこく話しかけてくることが何度かあり、どちらかと言えば毛嫌いしていたのだ。
しかしここ二日ほど、彼女の様子はあきらかにおかしかった。
授業を長期間休んだと思ったら、まるで性格が別人のようになって戻ってきたのだ。
周囲が訝しがるのも当然である。
久々に食堂でその姿を見た時、マティアスは実験の失敗で苛立っていた。
それもあってつい強い口調で注意してしまったのだが、返ってきたのは予想もしないしおらしい態度。
下手な演技でもしているのかと思ったが、それにしてはおかしすぎる。
プライドの高いはずの彼女が、丁寧に処理されているとはいえ継ぎはぎのある制服で現れたり、講堂の場所が分からないとおどおどしていたり。
「そんなやつじゃないとは思っていたが、まさか入れ替わっていたとはな」
マティアスは背凭れに背中を預け、モノクルを外した。
窓から入った光に目を細める。
まるで別人のような態度も、本当に別人だというのなら納得がいく。
理由までは分からないが、さっきまでアリスだと思っていた相手はその姉のエリスという娘なのだろう。
彼女の取り乱した態度を思いだし、マティアスは憂鬱な気持ちになった。
入れ替わりは勿論問題だが、今問題なのはそれよりも、彼女が『結婚』に対して何らかのトラウマを抱いている様子であることだ。
「まいったな……」
そう呟いて、彼は机の上に置いた魔法具の珠を見た。
透き通った珠は一見宝石にみえなくもないが、これはれっきとした魔法具だ。
遺跡から見つかった魔法技術を駆使し、マティアス自身が現代の材料を用いて再現したものである。
見たい相手に向けて翳すと、その者の個性や適性のある魔法属性が分かるという便利な品。しかし時にはその者の過去や未来まで見通してしまうという、厄介な性質を持つ。
そしてマティアスが先ほどの授業で突然属性診断を始めたのは、不可思議な少女の本性を見極めてやろうという魂胆があってのことだった。
魔法の属性と、その者の属性というのは往々によって比例する。
例えば炎属性の者は血気盛んな場合が多く、植物や土の属性を持つ者は心優しく穏やかであるとでもいうように。
かつてこの魔法具で少女を見た時には、珠に映った汚れた金だった。
若くして虚栄心に取りつかれているのは、珠を覗くまでもなかった。
顔がよく家柄のいい男にばかり、媚びを売り学園にいられなくなった少女。
その色は見るのを躊躇うほど胸糞悪い色だった。
ところが―――だ。
先ほど講堂で視た時、彼女の色はマティアスの記憶のそれと異なっていた。どころか、彼ですら見たことのないような情景が珠の中に広がっていた。
夜空のような濃紺の中に、ちかちかと輝く無数の星屑。
それは息を飲むような美しさだった。
どこまでも深く―――そしてどこまでも暗い。
なのに輝く星の瞬きは、目が離せないほどだった。
何の属性であるかすら分からない。ただその向こうに、更に衝撃的なものが現れた。
それがさっき二人に語った、結婚式を挙げるクロード王子と少女の姿である。
迷った末、当人には真実を伝えておこうと思い、そして伝えた結果があれだ。
王子はエリスを妃として迎え入れると宣言し、エリスはそれを拒否した。
本当なら、どちらも考えられない反応だ。
王子の妻とは、将来の王妃。
クロードの独断で簡単に決められるはずがなく、そしてクロード自身鬱陶しくつきまとうエリスを、疎ましがるような態度をとっていたというのに。
いくら別人とは言えそのアリスとよく似たエリスを、クロードはどうしてすぐさま妃にすると断言したのだろうか。
「嫌がらせにしては、度が過ぎる」
マティアスは先ほどの二人を思い出す。
顔面を蒼白にし、今にも倒れそうになりながら断固として結婚を受け入れようとしなかったエリス。
そんな彼女に対するクロードの態度は、意趣返しにしては度を越しているように思われた。
「分からん。分からんことだらけだ」
マティアスはぐしゃぐしゃと、癖のある自分の髪を掻きむしった。
それは思い悩んだ時の彼の癖で、おかげで学生時代はよく鳥の巣のような頭だとからかわれたものである。
「とはいえ、あの色……」
貴族が嫌いで、研究費欲しさに王立学校の教師をしているようなマティアスだ。
ただの生徒同士のもめごとなら首を突っ込まないのが普通だが、エリスが見せた色は彼の知的好奇心をどうしようもなく刺激する。
「とにかく、過去の資料を漁って似たような事例がないか探してみるか。もしかしたらこれは新しい属性の発見かもしれん。もしやあいつを研究すれば……俺の研究にも何か役立つことがあるかも!」
どうしてそこに思い当たらなかったのかというように、マティアスが興奮しだす。すると今度は待ちきれないとでもいうように、彼は席を立った。
するとその反動で、傍らの戸棚の上に積み重ねられていた本のタワーが、傾いてどさどさと床に散らばる。
「くそっ、まずはかたずけか。ったく……」
そう言いながらも、彼は散らかった本を置いて教官室を出て行ってしまった。
マティアス・グラン、三十二歳。
彼は自分の気になったことは、すぐに調べないと居られない研究馬鹿だった。