08 宣告
「ふっ、ふざけないでください!!」
気付いたら、思わず叫んでいた。立ち上がっていた。
(幸せになろうと思っただけなのに、それがそんなにいけないこと? ようやく夫と妹から逃げられたと思ったら、どうしてこんな厄介ごとばかり!)
「結婚なんて……結婚なんていやっ、絶対にいや! 私は一人で生きていくって決めたの。そのために一生懸命勉強しようと……一人で……」
ああ、もう泣かないと誓ったはずなのに、また涙が滲んできた。
そして私は、今の自分が結婚というものにどれほどの拒否反応を持っているかということに初めて気付いたいのだった。
「お、おい何もそこまで……」
クロード殿下の方を気にしつつ、マティアスが狼狽える。
想像もつかない反応だっただろうし、冷静に考えれば失礼な態度だろう。
けれど―――私は動揺してそれどころではなかった。
結婚なんてもうまっぴら。幸せな思い出なんて何一つない。
それに、不愛想で昨日から怒ってばかりの男と、結婚すると予言されて嬉しい女なんているものか。
「そんなにいやか?」
至極落ち着いた口調で、殿下が私に言った。
彼は座ったまま私を見上げ、なんの感情もないガラス玉のような目で私を見上げている。
「嫌です。嫌と言ったら嫌。私はもう結婚なんて―――っ」
しないと言いかけて、マティアスの存在を思い出し口を紡ぐ。
今の私はアリスなのだから、“もう”結婚というのはおかしいだろう。
目尻だけでなく全身がかっかと熱くなって、怒っているのか悲しんでいるのか自分にも分からなかった。
「夫に何をされた? エリス」
しかし殿下はマティアスに構わず、私の秘密を暴露してしまった。
「エリス……だと?」
マティアスは不思議そうにしている。
ああもうこれで全部終わりだ。私はあの家に連れ戻されるんだ。
そう思ったら堪えていた涙が溢れてきた。
そして、誰にも言えないでいた言葉も。
「夫に見向きもされず、妹に取って代わられる屈辱があなたに分かりますか!? もう嫌なんです。自分の生き方を他人に決められるなんて絶対に嫌! そのためなら、一生一人だって―――」
私の溢れだした言葉は、クロードが立ち上がったことで途切れた。
マティアスが呆気にとられた顔でこちらを見ている。
終わりだ。もう何もかも。
「どうりで、パーティーにもお前の名を騙って妹が出てくるわけだ」
クロードの言葉に、私は更に驚かされる。
けれど考えてみれば当然で。
学園に潜り込んだ私に一目で気づいたのだから、パーティーに私の名を騙って出席しているアリスにだって当然気づけただろう。
私はその時初めて、クロードの顔を真っ直ぐに見ることができた。
妹と私の違いが分かる人なんて、王都には誰も居ないと思っていたのに―――。
「それにしても、女にここまで拒絶されたのは初めてだ」
すると彼は、口元に皮肉な笑みを浮かべてそう言った。
私ははっとする。
それはそうだろう。
彼はこの国の王子で、容姿も美麗。能力も低いとはいえず、この国の女性ならば誰もが彼の視線を自分に留めたいと願うのかもしれない。
身構えそうになるのを必死にこらえていた腕を、凄まじい速さで捕まえられる。
驚きと恐怖で体が震えた。
「ひっ」
反射的に、嫌悪するような声が出た。
頭の片隅の冷静な自分が、流石にその態度は失礼すぎると警鐘を鳴らす。
もう遠慮なんてしていられなかった。
「は、離してください!」
腕を振り回して、なんとかその戒めから逃れようとする。
しかしクロードの力は強く、決して逃れることができなかった。
「―――俺が嫌いか?」
耳元で囁かれたのは、あまりにも直接的な物言いだ。
―――だめだ。
全身が総毛だち、掴まれた腕には鳥肌が浮いている。
結婚云々よりも、今の私には男性という存在が耐え難いのだ。耳元に囁かれるような至近距離に、恐怖しか感じられない。
自分の事情ばかり押し付けてくる勝手な人達。女らしくお淑やかにしていれば幸せになるはずと厳しい花嫁修業にも耐えたのに、結果はつまらない女だと見向きもされなかったじゃないか。
(勝手! 男なんて勝手! 嫌い、気持ち悪い!!)
「お、おいそれぐらいに……」
私の尋常じゃない様子が伝わったのか、マティアスが私たちを引き離そうとする。
しかし相変わらず殿下は私の腕を離そうとはしない。
一体どういうつもりなのか。
私が嫌がる様子を見て楽しんでいるのか。それほどまでに私が嫌いなのか。
「―――分かった」
不機嫌そうなクロードの声音に、初めて不機嫌以外の感情が宿った。
ぞくりと背筋を冷たいものが走る。
(今すぐにここから逃げ出したい。誰も私を知らない場所に行きたい!)
涙がぼたぼたと制服に零れた。
この学園にきてまだ七の日を一巡もしていないというのに、どうしてこう次から次へと予測不能なことばかりが起こるのか。
「決めた。お前を俺の嫁にする。絶対にだ!」
突き付けられた言葉は、私には最後通牒に等しかった。
がくがくと足から崩れ落ちる。
「お、お断りを……」
「それで、お前の実家が無事に済むとでも?」
こんな、こんなことってあるのだろうか?
私はただ、自分一人の力で幸せになりたいと思っただけなのに、どうしてそのための努力すらさせてもらえないのだ。
愛し愛されたいなんて贅沢は言わない。
ただ静かに暮らしたい。放っておいてほしい。
そんなささやかな願いすら、どうして叶わないのか。
「クロード、いくら何でも戯れが過ぎるぞ……」
マティアスもクロードの真意が分からないという顔で、私の手から彼の手をはがしてくれた。
見下ろすと手首には真っ赤な痕がついている。
どれだけ強い力で握られていたか。それを改めて思い知り恐怖で言葉が出なかった。
「明日からお前は俺の婚約者だ。そのつもりでいろ」
そう言い残し、殿下は教官室を出て行った。
私はじっと手首を見つめながら、しばらくは言葉もない。
「―――すまなかったな。別の知らせ方をすべきだった……」
そう言って、マティアスが助け起こしてくれた。
「いいえ、先生のせいではありませんから……」
どうにか返事をして、錆びついた鉄のように重い体で歩き出す。
もう何も考えたくない。
ただ静かに眠ってしまいたい。
私はのろのろと教官室を出た。
廊下に殿下の影は既にない。
「こっ、困った時はいつでも俺を頼れ! 何かしてやれることがあるかもしれない」
背中に掛けられた優しい言葉に、小さくお辞儀して扉を閉める。
心はただぐちゃぐちゃで、今の私は何も考えられないただのガラクタだったけれど。
あれだね
私の書くヒロインは基本不幸だね