05 今度こそめげない
「バカ! バカ! バカ!」
例の半地下の部屋に戻り、滅茶苦茶に枕を殴った。
飛び出した羽毛が宙を舞う。
埃が口に入って時々むせた。
小さな窓から差す月明り。
我慢していた涙が零れて、止まらない。
「泣かないって決めたのに、強くなるって決めたのにっ」
半地下の部屋のいいところは、うるさくしても誰にも迷惑かけずに済むことだ。
私は思う存分枕を殴り、吐き気がするまで暴れまわった。
もう何に怒っているのか、自分でも分からなくなってきた。
お父様も、お母様も、妹も旦那様も寮の管理人も王子もそのお付きもナターシャとかいう令嬢もさっきのモノクルの男も。
皆嫌い。何もかもが苛立たしい。
でも、でも―――一番嫌いなのは背中を向けて逃げてしまった自分自身だ。
強くなるって決めたくせに、またいつもみたいにベッドで泣きべそをかいている。
妹が夫の部屋から出てこない夜。
或いは家令から旦那さまは奥様にお会いにならないそうですと告げられた夜。
愛してたわけでもないのに悔しくて、でもそのうっぷんを誰にもぶつけられなくて一人で泣いた。
豪華なだけの冷たいベッド。
一人では広すぎる。一人では寂しすぎる。
心の中で、何度も問いかけた。
―――一体私が、何をしたっていうの?
実家では厳しく躾けられた。
学園に通いたいという願いも叶わなかった。
でも結婚さえすれば、旦那様に誠心誠意尽くせば、私にだって幸せな生活がやってくるのかもしれないとささやかな夢を見た。
脳裏に浮かぶ、笑う男の子の面影。
顔はもう覚えていない。でも妹と違って人見知りな私に、好きだと言ってくれた。いつか一緒になろうって。
子供の他愛ない約束だったけれど、その言葉がどんなときも私を支えてくれたのだ。
その約束は叶えられなかったけれど、いやだからこそ、私は自分の力で幸せになろうと決めた。
なのに―――運命を変えたくて私はここに来たはずなのに、どうしてまた泣いているのだろう。
「いやよ……」
このまま、また諦めるのなんて嫌。
このまま、また誰かの思う通りになるのなんて嫌。
「私は今度こそ自由になるんだから!」
思い切り叫んで、ようやく体の中を渦巻いていたぐちゃぐちゃの何かが外に出た気がした。
そしてそのままベッドに突っ伏し、いつの間にか眠ってしまったのだった。
翌朝。
起きると、目は腫れているし声は枯れているしでひどい有様だった。
幸い目覚めたのが早朝だったので、食堂で水を借りて手布で冷やしたら腫れは引いた。
声の方はしょうがない。今日はあまりしゃべらないようにしようと誓う。
昨晩染み抜きせずに寝てしまった制服も、水を含ませて濡れた手布でたたいたらシミが抜けた。
時間が経つと落ちないことが多いのでほっとする。
どうしてお嬢様育ちの私がこんなことを知っているかと言えば、実家にいたばあやがこっそり教えてくれたのだ。
うっかり服を汚して、厳しい両親に怒られると泣く私に、ばあやはまるで魔法のように服を綺麗にしてくれた。そして同じようなことがあれば、そっとこうやってシミを抜けばいいと教えてくれたのだ。
優しかったばあやは、私の花嫁姿を見ることなく亡くなった。
私の唯一の味方だったのに。
(くよくよするのは、今日までよ)
声にならない声で、ひっそりと誓う。
もう負けない。怯えない。強くなる。誰にも恥じない自分になる。
いくら眉を顰められたって、どうせ傷がつくのは妹の名前だ。
私の名前を妹が好き勝手に使っているように、私だって妹の名前で好きにしてやると思った。
身支度を整えて部屋を出る。
私は初日に案内してもらった管理人の元へ行き、自分がどこへ行けばいいのかを聞いた。
管理人は訝しがりながらも、しぶしぶカリキュラムの書かれた紙くれた。
今日は金の一日目。
朝一番の授業は魔法学だ。
(魔法学!)
私の心は踊った。
魔法は日常的な技術じゃない。
一部の魔術師だけが秘匿する特殊な技術だ。
世界に点在する遺跡から、時折見つかる魔法の痕跡。それを拾い集め、再生させる。
役に立たない学問だと言われたり、気味が悪いと恐れられることもあるけれど、私は遠い昔の人々が使っていた魔法を解き明かすなて、とてもロマンチックな学問だと思う。
声が出ないのでめいっぱい管理人に頭を下げて、私は授業の行われる校舎に向かった。
***
魔法学の行われる講堂は、案内板によると校舎の最奥部、裏の森の中に出っ張るように建っているとのことだった。
しかし元々は砦に使っていたという校舎の中は、とても入り組んでいて土地勘がなければとても目的地にたどり着けそうにない。
最初の授業にもまともにたどり着けないのかとめげそうになりながら、無数に伸びる廊下をやみくもに進む。
リンゴンと大きな鐘の音。始業の合図だ。
私はその場にへたり込んだ。
こんなことなら寮の管理人に、講堂までの地図を書いてもらうべきだったと悔やむ。
「おい」
後ろから声を掛けられたのはそんな時だ。
振り向くと、そこには昨夜食堂で出会ったモノクルの男がいた。
慌てて立ち上がり、反射的に体が逃げようとする。
しかし大きながっしりとした手で肩を掴まれ、逃亡は阻止された。
「これから俺の授業だろう。どこへ行くつもりだ?」
低くて怖い声だが、昨日よりは心なしか柔らかい気がする。
おそるおそるその顔を伺うと、彼は怒っているような困っているような奇妙な表情だった。
(俺の授業……ということはこの方は魔術師なんだわ!)
その授業に向かうところなんですと言いたかったが、残念ながら声が出ない。
口を開けたり閉じたり。声が出ないのだと悟ったのか、男は懐から丸くひらべったい缶を出し、その中に入っていた半透明なオレンジの飴を私の口に頬り込んだ。
「噛むなよ。ゆっくりと舐めろ」
言われた通りにすると、喉に感じていたガサガサという感触がすっと薄れていく。
「ん……え?」
少し舐めただけなのに、驚くほど滑らかに声が出た。
ついさっきまでかすれてアシナガドリの鳴き声みたいになっていたことなど、嘘のようだ。
「それで、授業をサボろうとした理由を聞かせてもらおうか?」
凄まれて、はっとする。
声が出るからには、弁解しなくてはいけない。
「それが私、講堂の場所がその、分からなくて……」
入学してからもう半年以上も立っているのに、教室が分からないなんて嘘だと思われるに違いない。
けれど飴をくれた彼に嘘を言うこともできなくて、私は正直に白状した。
彼は深紫の髪をガシガシと掻き、ずれてもいないモノクルを直す。
「講堂の場所が分からないだって? いい加減にしてくれ……」
その声には、隠しようもない呆れが混じっていた。
飽きられれても仕方ない。
でも今日は昨日と違って、怒鳴られたりするようなことはなかった。
彼はそのまま、私に背を向けて去っていこうとする。
拒絶された気がして、講堂に連れて行ってくださいなんて言えそうもなかった。
けれど。
「どうした?」
「え?」
「授業に出るんだろう? ついてこい」
「……はい!」
どうやら、授業を受ける許しが出たらしい。
私は慌てて、その男の背中を追いかけた。




