48 強敵
「ヒース! あなた一体今まで何してたの!」
彼が、偶然通りかかったとは思えなかった。
エルザの言うあいつ(、、、)は、もう心のどこかで彼なのだろうと分かっていた。
それでもなお、そう言わずにはいられなかった。
あの、照れたような笑みや、どもりながら話しかけてくれた優しい彼が、切り裂き魔の正体だなんて、信じたくなかった。
風はどんどん強くなっていく。
ひゅーひゅーと秋の木枯らしのように、容赦なく吹きずさむ。
「ねえ、答えて……」
なんでだか涙が出てきた。
ヒースと出会った頃の私は傷だらけで、まるで手負いの猫のように周りを警戒していた。マリアには優しくされたけれど他の料理人の人たちとは距離を置かれてしまうのだろうと、話しかける前からあきらめていたのだ。
そんな時、声をかけてくれたのがヒースだった。
自分だって人見知りの癖に。
不器用に、だけど優しくオーブンの使い方を教えてくれた。
たったそれだけのことが、どれだけ私を救ってくれたかなんて、あなた知らないでしょう。
知らないで、そんな怖い顔をして、また誰かを傷つけようとしてるんでしょう。
そんなこと、許せるはずがなかった。
エルザのためにも、そしてヒースのためにも。
おそらくナターシャは、ヒースに私を襲わせるつもりで、自らが襲われブローチに閉じ込められてしまったのだろう。
だとすれば、私の部屋のすぐ近くで被害にあったのも説明がつく。
「こないで! こないでぇぇ」
エルザが半狂乱になって暴れている。
ライルがその細い首に手刀を落とし、彼女を黙らせた。
乱暴なやり方だと思うが、下手に逃げられてけがをされるよりはよほど良かった。
「エリス。下がっていろ」
いつの間にか、クロードが私の前に立ち風を遮っていた。強い風にあおられながらも、彼はがっしりと揺るぎもせず、私の前で剣を構えた。
「殿下!」
焦ったライルの呼び声。
しかし、その声に反応したのは呼ばれた本人ではなく、ヒースの方だった。
「殿下……?」
うつろな彼の目に、ぼんやりとした光が宿る。
そしてそっと持ち上げた左の手のひらに、小さな竜巻が生まれた。
『風だ! あいつら風の精霊を、無理矢理人間につかせやがったのか!』
『シルヴェストル! あなたなの!?』
『ううううー、ううううー!』
サラが怒り、ウィンが動揺し、グノーが唸っている。
『エリス……やめさせて。ジルが苦しんでる』
グノーはまるで自分が苦しんでいるかのように言い、制服の胸元をぎゅっと握った。
どうやらナターシャの行った外法は、つかせた精霊にも悪影響を及ぼすものらしい。
ヴァルギスがどんな方法で精霊を操るのかは知らないが、それでも彼女が行ったのは、シルヴェストルもヒースもエルザも、他の二人の被害者もそしてナターシャ自身も、誰も幸せにしない呪法だ。
「オマエサエイナケレバ」
それはもう、ヒースの声ではなかった。
彼の周りに、たくさんの小さな竜巻が生まれた。そしてその手がこちらへ向けられるのと同時に、竜巻がごうごうと渦巻きながら一気に襲い掛かってくる。
剣を構えた近衛兵達。しかし、風をよける方法などあるわけがない。
竜巻は兵士達の鎧を切り裂き、無数の傷を作った。
ナターシャの体が傷だらけになっていたのと同じだ。風の刃が、鉄さえも切り裂き肉に食い込む。
私はあまりのことに声も出なかった。
竜巻は私とクロードも見逃さず、襲い掛かってくる。
「殿下、お逃げください!」
ライルの叫びが聞こえた。
私も、一番に守るべきなのはクロードだと思った。しかし、彼は私の前から動こうとしない。
「殿下!」
逃げてくださいとも、何もいえなかった。何もできなかった。
ただ切り裂かれた彼の鎧から血が噴出すのを、言葉もなく見ていることしか。
「やめてぇぇぇぇ!」
体中の水分が、沸騰しているかのようだった。
目の前が真っ白になって、すぐ赤に染まる。
なにも考えられなかった。怒りでもない、悲しみでもない。ただ嵐のような感情に翻弄される。
三人の精霊達が、ポケットから飛び出す。
サラは巨大な炎に包まれ、ウィンの体にはどこから現れたのか大量の水が降り注いだ。地面に飛び降りたグノーはそのまま土に呑まれ、その場所が小山のように盛り上がる。
何もかもが、一瞬の出来事だった。
次の瞬間、彼らは小さな精霊の姿から、人間と同じ大きさにまで成長した。
私が作った小さな服もまた、彼らの体と一緒に大きくなっている。
どういう仕組みかなんて分からない。ただ不思議だということ、しか。
「よくもエリスを泣かせたな!」
サラが叫ぶ。彼が動くたびに周囲には火花が散った。
傷を負った近衛兵達がどよめく。どうやら大きくなった彼らの姿は、他の人達にも見えているらしい。
「精霊を粗野に扱う所業、許しませんわ!」
言うや否や、ウィンの手のひらから水の竜が生まれ、ヒースに襲い掛かる。
私はその隙に、グノーが作り出した小山の後ろにクロードを引っ張り込んだ。
腹部にある傷が一番大きいが、他は軽症のようだ。彼は己の傷に手を当てると、無理に起き上がろうとした。
「やめてください! 動かないで!」
声を荒げるのは苦手だ。
でも、これ以上血を失えば、クロードが死んでしまうかもしれない。
そう思うと心がざわついて、とても冷静ではいられないのだった。
それは、彼がこの国の王子だからではない。彼がクロードだからだ。
嫌がる私と、ずっと一緒にいてくれた。決して見捨てようとはしなかった。彼は、私を庇うために逃げなかったのだ。それが分かるから、その傷を癒してあげられない自分が悔しかった。
「貸せ!」
後ろから、飛び込んできたのはマティアスだ。
彼は魔法具らしきものをクロードの傷口に固定し、脈を図って治療を始めた。
「ったくこんな時にー! クロードしっかりしろ。せっかく俺にも精霊が見えるチャンスなんだから!」
こんな時でも、マティアスはいつもと変わらないらしい。
その様子を見ていたら、ちょっとだけ落ち着くことができた。
「先生、殿下は……」
「命に別状はない。だからそんなに心配するな」
「よかった……」
「クロードもよかったな。こんなに心配してもらえて」
「うるさい」
クロードに言い返す元気があると分かり、ほっとしたら気が抜けた。
土の上に座り込み、起き上がれないでいるクロードの頭を膝に乗せる。
何もないよりはいいだろうと思っての行動だったが、途端に彼は真っ赤になって何も言わなくなってしまった。
でも、今はそうして彼が生きているという事実を、実感していたかった。




