40 妖精の男の子
翌日朝食を済ませると、私はいつものように教官室へと向かった。
ここでマティアスと合流して、今日やるべき事の指示を貰う。
そういえばすっかり忘れていたが、昨日は片付けを途中で放り出して帰ってしまったのだった。マティアスに会うのもクロードに会うのも気まずく、自然と足は重くなってしまう。
(でも、いつまでも避けてるわけにはいかないし)
いやいやながらなんとか辿り着くと、教官室にいたのはクロードだけだった。
「……おはようございます」
びくびくしながら、部屋の中に入る。
クロードはいつもの無表情で、小さく返事をしたきり何も言わない。私たちの間に重い沈黙が流れた。
(昨日、怒っていらっしゃったのはもういいのかな? マティアスがどこにいるか、聞いても大丈夫かな?)
どうしていいか分からず、挙動不審になってしまう。
勇気を出して話しかけようと思うが、その意思に反してなかなか最初の一声が出ない。
せめて精霊達が出てきてくれればいいのにと思うが、さっきまで寝ていた彼らは私のポケットの中で二度寝を楽しんでいる。
胸ポケット、スカートの右ポケット、左ポケット。
制服中のポケットがすっかり彼らに占領されてしまっている。
(どうしたらいいの!? マティアス早く来て!)
沈黙に追い詰められ、いっそまた部屋を飛び出してしまいたくなる。
それは流石に失礼すぎると思い、なんとか留まったけれど。
すると、意外なことに沈黙を破ったのはクロードの方だった。
「……そんなにびくびくするな」
どうやら私は、見て分かるほどに動揺していたらしい。
怯えていたことを見抜かれて、顔から火が出るかと思った。
「何も取って食いはしない」
後付けされた一言は、ぼやきのような呟きのような、ぎりぎり聞こえるぐらいの音量だった。
私は反応に困り、思わず俯いてしまう。
(冗談、よね? どうすればいいの? 笑った方がいいのかしら)
つい反射的に謝りそうになり、昨日のマリアの言葉を思い出して我慢する。
今は謝るよりも、きっとなにか別のことを言った方がいいのは間違いない。
私が黙りこくっていると、クロードの方から重いため息が聞こえてきた。
申し訳ないなと思ってこっそり伺うと、彼の薄藍の瞳が、真っ直ぐ突き刺さるように私を見ていた。
「頼む、そんなに怯えないでくれ」
「え……?」
それは命令ではなく、懇願だった。
彼のこんな弱々しい声を聞いたのは、初めてかもしれない。
「お前から見れば、俺は恐ろしい男だろうが、それでも嫌わないで欲しい」
たどたどしい言葉は、まるで子供のようだった。
昨日怒鳴りつけてきた彼とは、まったくの別人のようだ。
「殿下を嫌うなんて、そんな……」
言ってから、今までの自分の態度では、そう思われても仕方ないと気がついた。
婚約者になれと言われたときからずっと、クロードといる時は緊張して怯えてばかりいたのだ。
これで嫌ってないと言ったって、信じてもらえるはずがない。
「先生に、何か言われたんですか?」
クロードが黙り込む。
しかし彼がこんなことを言い出した原因は、それ以外考えつかなかった。
昨日、私が部屋を去ったあと二人の間でどんな会話が交わされたのか。
それを知るすべはないが、縋るようなその目を、今は信じてもいい気がした。
「分かりました。いきなりは無理かもしれませんが。慣れるよう努力します」
怒られても、仕方ないような返事だったが、クロードは「そうか」と言っただけだった。
彼は不思議な人だ。
短気なようでいて、こういう時には怒らない。王太子という地位にありながら、自ら私の護衛を買って出たり。何事にも興味がないようでいて、焦げたクッキーを食べたがったりする。
(意外に、甘党でいらっしゃるんだろうか?)
思い返していると、なんだか私の知っているクロードが、彼のほんの一面でしかない気がしてきた。
本当の彼はもっと別の、もっと優しい人なのかもしれない。
(怒ってばかりいたのにも、何か理由があったのかも……)
何もかもを、悪い方に考えるのは、もうやめようと思った。
だって私は、今までとは違う人生を送るために、この学園にやってきたのだから。
昨日のマリアの言葉で、私は改めてその頃の決意を、思い出すことができた。
「それであの、今日マティアス先生は……」
なかなかやってこない魔法学の教師について尋ねると、ほんのわずかに、クロードは眉を寄せた。
「エリスはさっきから、マティアスのことばかりだな」
「それは……」
当たり前だ。
一応上司に当たる彼がいなければ、エリスは今日の予定を決められないのだから。
しかしそれをそのまま言い返してもいいものか。
それに、少しいじけたような言い方が、不覚にも少し可愛いと思えて戸惑う。
「俺は、エリスの話が聞きたい」
「私の?」
「そうだ」
突然の無茶振りだ。
一体クロードはどうしてしまったというのか。
まさかエリスとアリスのように、顔の似た誰かと入れ違っているとでもいうのか。
「私は―――ご存じの通り、ブロイ男爵の長女、エリスです」
「そういう話ではなくて、例えば……そうだ。エリスが子供の頃の話を聞きたい」
今日の彼は、随分と饒舌だ。
「子供の頃の話、ですか?」
「ああ」
「私はその、刺繍が好きで……とにかく針を使って何かを作るのが好きな子供でした」
「そうか」
返事は短いのに、不思議と素っ気ないとは思わなかった。
彼が食い入るような目で、ずっとこちらを見ているからだろうか。
それとも、いつもは鋭いその目が、少し優しく見えるからだろうか。
「殿下がお持ちだった、あの手巾は……」
思い切って切り出した言葉に、クロードの肩が強ばるのが分かった。
聞かれたくない。けれど会話を終わらせたくもない。
彼はそういう顔をしていた。
「あれはまだ刺繍を始めたばかりの頃に刺したので、今見ると恥ずかしいです。今はもっと、うまく刺せるんですよ?」
「……きっと、そうなんだろうな」
彼の肩の強ばりが、そっと解けた。
まるで氷上を進んでいるような気分だ。
触れてはいけない話題を口にしたら、一体どうなるのだろう。氷が割れて、私は冷たい水に投げ出されてしまうのかもしれない。
それでもなぜか、口を閉ざす気にはなれなかった。
それはクロードが、もっと聞きたいとばかりに、何かを期待する目でずっとこちらを見ているから。
「特に親しい者は、いたのか?」
彼が舵を切ったのは、思いもよらない方向だった。
「親しい者、ですか?」
「そうだ。友人や、その、親しい異性はいなかったのか?」
どうしてそんなことを知りたがるのだろう。
再び疑問が首をもたげてくる。
(おとりに愛人でもいたら、まずいってこと? なら、アリスの交友関係を答えた方がいいのかしら?)
とは思ったものの、私達姉妹はほとんど一緒に過ごすことがなかったので、彼女の交友関係を聞かれても分からない。
「何人か……いたんだとは思います」
「なに!?」
彼の驚き具合に、こちらの方が驚いてしまった。
「ええ、詳しくは分からないですけれど」
「ちょっと待て。どうして自分のことなのに分からないんだ」
「え? アリスの交友関係をお聞きなんですよね? 恥ずかしながら、妹のことにあまり詳しくなくて」
正直に白状すると、クロードは頭を抱えてしまった。
どうやら私は、またなにかミスを犯してしまったらしい。
「そうじゃない。俺はお前のことが聞きたいんだ」
「私……ですか」
「そう言っているだろう」
ふむ。そんなことを知って彼はどうするつもりなのか。
「親しい異性なんて、そんな」
「いないのか」
なぜか彼は、ほっと胸をなで下ろしていた。
というか、私が既婚者であることを知っているはずなのに、過去の交際を知ろうとするだなんていささか不躾だ。
そう思ったらちょっと意地悪がしたくなって、私はつい、今まで誰にも言ったことのない秘密を彼に話してしまった。
「でも一人だけ、優しくしてくれた男の子がいました」
「男!? どんなやつだ? 年は?」
矢継ぎ早に聞かれ、ちょっと驚いてしまった。でももう引き返せない。
「人間じゃないんです。妖精の男の子でした」
「よう……せい?」
信じられないとばかりに、彼の目が見開かれる。
それはそうだ。他の場所でこんなことを言ったら、妖精なんて絵本の中だけだと笑われることだろう。
でも私と同じように精霊が見えるクロードは、否定することもできず困った顔をして見せた。
「そう。殿下と同じ黒い髪の、とても綺麗な男の子」
彼との思い出は、私にとって大切な大切な宝物だった。
だからその思い出を怪我されたくなくなくて、今まで誰にも言わずずっと胸に仕舞ってきたのだ。
それをクロードに話してしまったのは、どうしてだろうか。
気まぐれだと言う他ない。
「領地の屋敷に、ある日突然現れて、友達のいない私に花をくれたんです」




