39 優しい人
―――あの二人は大丈夫かしら?
動転して思わず逃げ出してしまった私は、特に行く場所もなく学園の敷地を彷徨っていた。
もとより馴染みのある場所なんてそれほどないのだ。だから気づくと私の足は、唯一馴染みのある教員用の食堂に向いていた。
こんな風に何回も押しかけては、迷惑になるのではないか。
そう思いつつ、この間一緒に賄いを食べた時の楽しさが忘れられないのだ。
『なあー、入らないのか?』
『私たちにおやつを作ってくれるんでしょ?』
厨房に来ただけで反射的に美味しいものをもらえると勘違いした精霊たちが、なかなか建物の中に入ろうとしない私を訝しげに見ている。
『エリス、どうした? ねむいか?』
珍しく、グノーもまた胸ポケットからこちらを見上げていた。
教官室を出る時に走ったりしたので、その時に起こしてしまったらしい。
普段の彼は多少私が動いても絶対に起きようとはしないので、おそらく動転してあっちにぶつかったりこっちにぶつかったりしたせいかもしれない。
そう自覚したら、忘れていた痛みまでじわじわと蘇ってきた。
どこに何回ぶつかったかなんて覚えていないが、体のあちこちが地味に痛い。
いくらなんでも慌てすぎだと、自分で自分が情けなくなった。
「眠くはないんだけど体が―――」
苦笑しながら覚悟を決め、厨房の扉の前に立った。
中からはいつものように、料理を指示する声や包丁で何かを刻んでいる規則正しい音がする。
なんだかそれを聞いているだけでほっとするなあと思っていたら、驚いたことに内側から扉が開いた。
外開きの扉が、なんの心の準備もできていなかった私の顔に激突する。
「あば!」
ただでさえ低い鼻が更に低くなりそうな衝撃に、私は思わず顔面を押さえた。
『大丈夫か!?』
『ちょっとエリス! あんたの鼻は無事?』
一応心配してくれているらしいサラとウィンに、反射的にこくこくと頷く。
しかし痛みは強烈で、顔を覆った手をなかなか離すことはできなかった。
「ちょ、誰かと思ったら嬢ちゃん!? 大丈夫かい!」
どうやら中から出てきたのはマリアだったらしい。彼女はすぐさま私に駆け寄る。
「ら、らいじょうぶです……」
「全然大丈夫じゃないじゃないかい! ああ~ごめんねぇ。嫁入り前の女の子の顔になんてこと」
珍しく、マリアは動揺しているらしい。
気にしなくていいと伝えたかったが、顔を押さえたままでは何を言っても説得力がないだろう。
その頃にはようやく痛みが引き始めたので、私は顔を押さえていた手をそっと離した。
顔中じんじんとしているが、場所が場所だけに鏡を見ないとどうなっているか分からない。
私の顔をのぞき込んでいるマリアは心底困った顔をしていて、申し訳なく思うのと同時に少しおかしかった。
いつもは女だてらに厨房を引っ張る彼女だが、驚くとこんな顔もするのだと分かったからだ。
「お嬢ちゃんあんた、なに笑ってんだい! ああ早く手当しなくちゃ。誰か救急箱持ってきな! 傷でも残ったら親御さんに申し訳が立たないよ」
そうして彼女に引っ張られるまま、私は料理人用の休憩室に連れて行かれたのだった。
***
結局、私の顔にたいした怪我はなかった。
少し鼻とおでこが赤くなっているらしいが、マリアさんが用意してあった薬草をガーゼに塗って貼り付けてくれたのでいまはひんやりと冷たい。
しばらく休んでいくように言われ、私はその言葉に甘えることにした。
流石に、このガーゼを顔に貼ったまま外を出歩く勇気はない。
「すいません。お忙しいのに……」
時間は、さっき昼三つの鐘が鳴ったところだ。
マリアは夕食の仕込みでこれから忙しくなる時間だというのに、ずっと心配そうに私についていてくれている。
ところが、謝ると彼女は驚いたように目を丸くした。
「何言ってんの。謝るのはこっちの方だよ。あたしがよく確認もせずに扉を開けたせいさ」
「そういえば、外に何か用事があったんじゃないですか? 私のことは大丈夫なので、そっちを―――」
「ああもう! 大丈夫って言ったら大丈夫だから、そんなに謙遜するんじゃないよ。あんただって、ぽやぽやしてるが、一応お貴族様なんだろう?」
マリアが、呆れたとばかりにため息をつく。
ぽやぽやしているとは一体どんな状態なんだろうか。分からないけれど、一応呆れられているということだけは分かった。
「私の家は男爵なので、貴族と言っても末端ですよ」
「でも、実家は領地持ちだろう?」
「それは……」
確かに男爵というのは、貴族の中では最下層でも庶民と比べれば大きな身分差がある。貴族と言うからには領地も持っているし、カントリーハウスは普通の民家よりずっと大きい。食べ物に困ったこともないし、子供のうちから働かされたわけでもない。
言葉に詰まった私に、マリアは困ったように笑いかけた。
「あたしがこんな態度でも嫌な顔一つしないしさ。あたしは好きだけどね、あんたのそういうとこ」
こんなにさらっと好きだなんて言われたら、どうしていいか分からなくなってしまう。
そもそも私は、誰かに優しくされることに慣れていないのだ。
わんぱくな精霊達のおかげで、最近ようやく人と会話することが苦痛ではなくなってきたという有様で、自分でも、自分がおかしいということは十分に理解している。
そわそわして何も言えなくなった私に、マリアは更に言葉を続けた。
「でも、そんなふうにいつも遠慮してばっかりいたら、誰もあんたに近づけないだろう? もっと甘えることを覚えるんだ。この先うまくやっていきたいと思うんなら、なおさらね」
「マリアさん……」
彼女の言葉は、私の痛いところに真っ直ぐに刺さった。
確かに、この厨房の人たちと賄いを一緒にした時も、仲間に入れてもらったと言うだけで、自分から何かを話したりとかはできなかった。
ただそこにいただけ。
同じテーブルを囲んではいたけれど、それで果たして親しくなったと言えるのか。
マリアやヒースにクッキーの作り方を教わった時も、私はひたすら恐縮するばかりで、褒められてもどうせ気を遣ってくれたんだろうとしか思わず、会話が弾むと言うことは決してなかった。
あまりにも人と、関わらないでここまできてしまった。
研究生になってからの日々は、嬉しかった反面、そのことを思い知らされる毎日でもあった。
落ち込む私に、マリアはそっと手のひらでぽんぽんと頭を撫でてくれた。
まるでマティアスがそうしてくれたみたいに。
でも彼女にそうされると、まるでお母様に褒められたみたいに落ち着かない気持ちになるのだった。小さな頃から私はずっと、お母様にこうして話を聞いて優しく撫でて欲しかったのだ。
すると、外で昼四つの鐘が鳴り響いた。
どうやら気づかない間に、随分ゆっくりしてしまっていたらしい。
「あら、もうこんな時間かい。あたしは厨房に戻るから、あんたはもうしばらくここで休んでいくといいよ。怪我もたいしたことないみたいだから、出る時にはガーゼを剥がすのを忘れないようにね」
目元を笑い皺でいっぱいにして、マリアは眩しいくらいに笑った。
「あ、ごめんなさいお忙しいのに」
「違う、そうじゃないだろう?」
慌てて立ち上がろうとした私の唇に、マリアが人差し指を当てて言葉を遮る。
「こういう時は、ありがとうって言ってくれた方が嬉しい。あんたとおしゃべりできて、あたしも楽しかったよ。だから謝ったりなんてしなくていいんだ」
「あ、ありがとうマリア」
照れながら礼を言うと、彼女の笑みは一層深くなった。
それは今までに見た誰の笑顔よりも魅力的で、私はこんな女性になりたいと深く憧れた。
「さーて、忙しくなるよ! ったくヒースのやつ、一体どこに行っちまったんだか」
「え、ヒースさんお休みなんですか?」
くるくると表情を変えるマリアは、今はぷりぷりと腕組みをして怒っていた。
「お休みも何も、昼のピークが終わったと思ったら、いつの間にかいなくなってたんだよ。それで、見つけて怒鳴りつけてやろうと思って外に出て、あんたにぶつかったと」
「あ……」
反射的に謝りそうになってしまったが、先ほどのやりとりの後なので慌てて口を閉じた。
「いくら腕がよくても、これじゃあね~。でもお貴族様の紹介だから、無碍にもできないし」
「紹介?」
「ああ、ヒースの奴は最近来たばっかりなんだよ。オーブンの扱いがうまいから、助かってるって言えばそうなんだけどさ。こうもよくいなくなられちゃね」
私は首を傾げた。
私にクッキーの作り方を教えてくれた彼は、仕事をおろそかにするような人には見えなかったのだが。
「そういえば、事件の日も……」
飛び込んだ厨房の中に、彼の姿がなかったことを思い出す。あの時は気にも留めなかったが、そんなに頻繁にいなくなるのは流石におかしい。
「あの、マリアさん」
「ん?」
「ヒースが前に働いていたお宅って、どちらですか?」
「えーと、あんまり聞いたことのない名前だったんだよね。 バルガスだか、アンガスだかっていったかなあ」
聞いたことがない家名だ。
首を傾げるマリアに、私はなんでもないと首を振った。
そしてしばらく休んだ後、講堂にある自室へと戻ったのだった。




