38 追憶
男爵令嬢と結婚したいというクロードの願いは、なかなかに前途多難だった。
当時、彼はまだ幼く、当たり前だが自分の結婚相手を自分で決められるような立場ではなかったからだ。
迂闊に口に出せば、あっけなく潰される。それは彼自身も分かっていたのだろう。
幼いながらに考えて、マティアス以外には決して誰にもエリスのことは言わず、虎視眈々と機会を狙った。
誰も自分に反論できなくなるような、絶対的な権力を手に入れるまで。
そうして彼は、一年ほど前にようやく立太子を済ませた。正式な王位継承者である、王太子の座を勝ち取ったのだ。
これでようやく公言できる。自分には結婚したい娘がいると。
積年の大願が果たされた瞬間だった。ところが、ここである誤算が発じた。
それはブロイ男爵が、エリスを側室にするため勝手に伯爵に輿入れさせてしまったのだ。
この国には、国王の側室は貴族の夫人でなければならないという奇妙な決まりがある。
国王の庶子をその貴族の子供として育てるためだとか色々理由はあるらしいが、クロードにとっては忌まわしいばかりである。
王子に娘を気に入られたと察した男爵は、その娘を王子の側室にする約束も込みで伯爵家との縁談を交わしていたのだ。
おそらくそれがなければ、家格の違う伯爵がエリスを娶ることもなかっただろう。
エリスが側室として子供を産めば、伯爵はその父として権勢を振るうことができるからだ。
しかしそれらは全て男爵が独断で進めたことで、クロードは何も知らなかった。
エリスが結婚してしまったという事実に打ちのめされた彼は、もう宮廷にはいたくないと王立学校に入学してしまった。それも、周囲の反対を押し切ってまで。
すると読みが外れた男爵は、今度は妹アリスを王立学校に入学させた。姉妹で顔が似ているから、妹の方が見初められればこれ幸いとでも思ったのだろう。何せ彼は、この妹の方をよりかわいがっていたのだから。
果たして、入学してきたアリスは父の意向を受け、クロードに接近した。彼女自身も元来わがままな性格であったから、見目麗しい王太子にこれ幸いと思ったことだろう。
クロードは初め、アリスをエリスの妹としてそれでも丁重に扱っていた。そのことが逆に、彼女を増長させその立場を悪くしたのだから、なんとも皮肉なことだが。
アリスはクロードの婚約者候補達にいじめを受け、孤立していった。やがて彼女は学校を休みがちになり、何も言わず姿を消したのである。
さて、運命の神様は皮肉家である。なにせ、幼い頃から恋に振り回されてきたクロードの不運は、これで終わりではないのだから。
いなくなったアリスの代わりに、なんと姉のエリスが、学園へとやってきた。それも、妹の名を名乗って。
学校で初めて見かけた時の衝撃は、計り知れない。
クロードは物慣れない様子で廊下を歩く彼女を、一目でアリスではなく姉のエリスだと見抜くことができた。
子供の頃に会った記憶が鮮明だったからではない。クロードは、お忍びで伯爵家にエリスを見に行ったことがあるのだ。
いくら結婚したとは言え、クロードにとってエリスとの思い出はかけがえのないものだった。しかしその慕情にけりをつけようと思い、成長したエリスを見れば思いが冷めるかと思ったのだ。
当然、エリスを王子の側室にしたい伯爵は喜び勇んで彼を屋敷に迎え入れた。むしろ紹介するとしつこい伯爵を、姿を見るだけでいいと固辞したのはクロードの方だ。人のものになった彼女と、顔を合わせる勇気がなかった。諦めるために赴いたのに、少しでも情が湧くような事はしたくなかったのである。
エリスは中庭のガーデンチェアーで、お茶を飲みながら本を読んでいた。
クロードが出会った少女ではなく、彼女はもう立派なレディだった。けれど伯爵に見せた、不器用な笑み。それは幼い頃と何も変わっていなくて、クロードはそのまま伯爵に声もかけず城へと逃げ帰った。
思いが冷めるなんて、とんでもない。
むしろ長い年月を経たからこそ、成熟してより手がつけられなくなっていた。まるで熟れすぎた果実のように、クロードはその実を持て余すより他なかった。
はたして、クロードにはエリスが刺した刺繍だけが残された。
これもまた、男爵が婚約者へ贈るようにと娘に言い、実際は娘を忘れないでくださいねとばかりにクロードへと送り続けていたものだ。
これが分かったは、ごく最近のこと。皮肉なことに、どうして手布を持っているのかというエリスの言葉が、それを証明していた。男爵に事情を説明するよう密かに送った使者は、山ほどの謝罪を書き連ねた手紙を書いて寄越した。
謝るぐらいならば、最初からしなければいいのだ。それがクロードの正直な感想だった。ついでにアリスとの仲を邪推するような文章が併記されていたので、見下げ果てた人間だと思う。
まあ、ブロイ男爵だけがそうなのではない。宮廷など己の利益にばかり汲々とする者どもの伏魔殿だ。悲しいことにクロードはだましだまされるその世界に慣れきっていて、
本当は今にも男爵を呼びつけてくびり殺してしまいたかったが、親の罪は子供の未来にも多大な影響を与える。エリスはあの男の娘なのだ。そんなことできようはずもない。
クロードは、自分とエリスのねじれすぎた運命を思うと今にも悲しみに囚われてしまいそうになる。いっそ彼女をさらって、国を出たいと思ったことも数知れない。
実際、マティアスが将来二人が結婚する姿が見えると言ってくれなければ、そうしていたかもしれない。
あれは彼の優しい嘘かもしれなかったが、クロードはわずかでもその未来に可能性があるのならば縋りたいのだ。
しかし、エリスの絶対的な拒絶の前には、全てが自分の独りよがりだったのかと途方もないむなしさに襲われる時もある。
なのに諦めることもできず、今も強引に婚約者だと公言して、側にいる。
彼女自身におとりのためだと誤解されたのは、痛かった。そうなのだと彼女に信じ込ませたマティアスを、恨みもした。
だがああでも言わなければ、こうして四六時中側に付き添うことなんてできなかっただろう。護衛のためだと言えば、エリスの強硬な態度は諦めにも似たそれに変わった。
実際、切り裂き魔が次に狙うとしたらそのターゲットはエリスで間違いない。
どこの誰かは知らないが、犯人はわずかに残っていたクロードの婚約者候補を屠り尽くしてしまったのだから。
他の二人はまだしも、ナターシャの件は早急に犯人を見つけなければ国際問題へと発展するだろう。
こうでもしなければ側にはいられなかったが、この幸せはかりそめだ。
ようやく少しだけ打ち解けてくれたエリスも、犯人さえ捕まればまた以前のようにクロードから離れていこうとするのだろう。
エリスはクロードとの約束を覚えていない。自分が人生のほとんどを執着し続けた約束を。
こんなことならいっそ嫌いになれれば楽なのになと、今まで何度考えたか分からないようなことを考える。
しかし、時は巻き戻せないのだ。今はもう絡みきった運命の糸を、解くこともできず先に進むだけである。
半月後にどんな未来が待っているのか、それはまだ誰にも分からないのだった。




