34 それでも優しい人
三つの事件の犯行時間は、全て六つ目の鐘が鳴った後。夜の入り口、宵闇の時刻だ。
だから昼間は大丈夫だろうと思うのだが、クロードはついてくるといって聞かない。
確かにおとりを見張るのは大事だろうが、事情が呑み込めてしばらく経ってみると、頭が冷えて冷静に物事を考えられるようになってくる。
「あの、思うのですが、私の護衛は別の方になさって頂いた方がいいのではないでしょうか?」
昼過ぎ、厨房に続く近道を歩きながら、さっきから何も言わないクロードを伺う。
彼はさっきの悲劇的な表情が嘘のように、平素の少し不機嫌そうな彼に戻っていた。服装はいつもの制服姿に、腰には細い剣を佩いている。
「大丈夫だ」
と、彼はさっきから必要最低限の言葉しか口にしようとしない。
おとりにしようとしていることがばれたから、もう媚びを売る必要はないと思っているのかもしれない。
以前のように結婚を迫られるよりは随分ましだが、それでもどうしてか彼が落ち込んでいるような気がして、ついつい様子をうかがってしまうのだ。
「でも、殿下の御身に、もしものことがあったら……」
「俺はそれほどやわじゃない」
そう言われてしまえば、更に言葉を重ねるのは非礼に当たる。
私は仕方なく言おうとしていた言葉を呑み込むと、黙って彼の隣を歩き続けた。
『全く、見ていられないわねぇ』
ウィンが、やけに楽しそうに尾びれで宙をかいている。一方でサラは恐い顔をしながら、クロードの監視をやめようとしない。
『なあなあ本当にいいのか? エリスをおとりにするなんて……こんな最低なやつに協力してやるなんてさぁ!』
どうやら、サラは私がおとりになることに、まだ納得できていないらしい。
「サラ、心配してくれてるの?」
尋ねると、サラはただでさえ赤い顔を更に赤くした。まるで熟れた果実のように真っ赤だ。
『そりゃ、心配するに決まってるだろ!? 昨日のやつら血をいっぱい出してた。もしエリスがあんなことになったら……』
サラは激情家なのだ。
私は私で、真剣に心配してくれる人がいることに嬉しくなった。
「ありがとうサラ。でも大丈夫。サラ達が守ってくれるんでしょ?」
『おう!』
小さなサラが、腕を振り上げて頼もしく返事をする。黒のマントが揺れて、その姿は凄くかっこいい。
すると、不意に胸ポケットに入れていたグノーが、ぐいぐいと這い出してきた。他のポケットに入れるとつい忘れてしまうので、場所をこちらに移動したのだ。
一体何事かと思いきや顔を出した彼は私を見上げこう言った。
『俺も、守る』
言うやいなや、恥ずかしがって再びポケットに潜ってしまったのだが。
その様子があまりにも可愛らしくて、私は言葉にできない喜びを噛み締めた。
『ふふ、エリスってば、本当に罪な女ね』
ウィンが意味深に笑っている。
クロードは相変わらず不機嫌そうな顔で、私達のやりとりに口を挟もうとはしなかった。
そうこうしているうちに、厨房の裏口に辿り着く。
昨日は助けを求めて駆け込んだ場所だ。
迷惑をかけたお詫びとお世話になったお礼に来たのだが、切り裂き魔の容疑者にこられても向こうは戸惑うだけかもしれない。
それでも、たとえ拒絶されたとしても、やっぱりあのままさようならにはしたくなかった。
「アリスさん、ですか?」
入口で決心がつかず立ち尽くしていたら、後ろから声をかけられてびくついた。
振り返ると、そこに立っていたのはヒースだった。
「ああ、ごめんなさい」
自分が裏口を塞いでいることに気づき、慌てて飛び退く。
けれど言いたかったことはそんなことじゃないと気づいて、反射的にヒースの顔色を伺った。
ヒースの方はといえば、クロードがいることに驚きを隠せない様子だ。どうやら彼は、クロードが誰であるか一目で分かったらしい。
「えっとこちらは……」
一応紹介しようとするが、私の言葉はクロードによって遮られてしまった。
「彼女の婚約者だ。よろしくたのむ」
彼は一歩前に出ると、呆然とするヒースと強引に握手を交わした。
「まさか殿下にお会いできるなんて……よろしくお願いします」
呆気にとられるのも無理はない。私だって、クロードの端的な自己紹介に唖然としているところなのだから。
「と、とりあえずなかへ。皆さん心配してますよ」
「皆さんには本当に、ご迷惑をおかけしてしまって」
「迷惑だなんて! アリスさんは被害者のために、助けを呼んだだけじゃないですか」
ヒースの不器用な笑顔に、今は癒やされた。
彼に促されるまま、厨房の中に入る。
するとそこには、昼食時の忙しい時間を終えて、自分たちも食事をとる料理人達の姿があった。
「アリスじゃないか!」
昨日と同じように驚いた顔をして、マリアが出迎えてくれる。
「心配したんだよ。あんたが教師達に連れて行かれたまま、戻ってこないから」
「無事でよかった。心配したよ」
「なにもされてないか? 怪我とかないか?」
皆口々に、私をいたわるような言葉をかけてくれる。
「わ、私、皆さんに謝りに来たんです。ご迷惑をおかけしてしまって―――……」
「迷惑だなんて! 大変な目に遭ったのはアリスの方だろう。気にすることないよ」
そう言って、マリアは私の頭をがしがしと撫でてくれた。
温かい手だ。
まさかこんなにも心配してもらえるなんて思いもしなくて、不意に目頭が熱くなった。
今まで大変だったこととか、疑われて辛かったこととか、麻痺していた感情が一気に吹き出してきて、うまく喋れなくなってしまったのだ。
マリアはそんな私の背を撫でながら、まるで子供にするように優しい声音でいった。
「辛かったね。もう我慢しなくていいんだよ」
涙腺が決壊して、お礼も何も口からは嗚咽しか出てこない。
彼女はその豊満な胸で私を抱きしめると、よしよしと子供をあやすように優しく頭を撫でた。料理人用の白い制服からは美味しいご飯の匂いがして、なぜか乳母が懐かしくてたまらなくなってしまった。




