26 圧倒的説明不足
とにかくということでクロードのお目付役には帰ってもらい、教官室は私とマティアスとクロードの三人になった。
それほど広くはない教官室に、重い沈黙が横たわる。
「そ、そういえば、昨日はどうだったんだ? うまくいったか?」
沈黙を破ろうと、最初に口を開いたのはマティアスだった。
私はすぐにそれが料理のことだと気づき、すっかり忘れていた報告を先に済ませてしまうことにした。
「マリアさんに教わってクッキーを焼いたんですけど、少し焦がしてしまいました。それでも精霊達は、美味しいといって食べてくれましたよ」
その時のことを思い出すと、にへらと顔が緩んでしまいそうになる。
精霊達はなんだかんだいって純真で、私のすることにいちいち驚き、大きな喜びを全身で表現してくれるのだ。
いままで、誰かのために何かをすることがこんなにも幸せだったことなんてあっただろうか。
「クッキー、だと?」
ところがその報告に、顔色を変えたのはクロードだった。
「はい?」
「昨日その小者らが食べていたクッキーは、エリスが焼いたものだったのか?」
ただ事ではない様子で尋ねられたものだから、私は思わず一歩下がって頷いた。
「ええ。あまりいい出来ではなかったのですが……」
「それは、その……残ってはいないのか?」
どうしてそんなことを聞くのだろうと思いながら、今度は首を横に振る。
「いいえ。精霊達が綺麗に食べてしまいました。優しい子達なんです」
そう言うと、なぜかクロードはひどく落ち込んだ様子だった。
怒ったり落ち込んだり、なんだか忙しい人だ。
出会った時は全く表情が読めなかったが、最近一緒に居ることが増えてなんとなく彼の感情の起伏が分かるようになってきた気がする。
「そうかそうか」
一方でマティアスは、腕組みをして満足そうに頷いた。
「食堂の方には俺から言っておくから、またなにか作ってやるといい。全く不思議なことだが、ただの光にしか見えなかった精霊達が、今日は俺にもうっすらと人の形に見えているんだ。おそらくクッキーを通じてエリスの魔力を得て、より人間に馴染んだと言うことなんだろう」
サラとウィンとグノーは、普通の人には見ることができない。
今のところ何の補助もなしに見えるのは、私とクロードだけのようだ。
魔法具や精霊を長年研究しているというマティアスは、モノクルの形をした魔法具で精霊達を光として認識しているらしい。
王族であるクロードは別として、しがない男爵家出身の私がどうしてそんなことができるのかは謎だが、おかげで研究生になることもできたし、サラ達に出会うこともできた。
今ではこの不思議な力に、私は深く感謝しているのだった。
「ところで、その肩に乗っけてる茶色いのはなんだ? もしかして―――」
マティアスの言葉に、そういえばグノーを紹介するのを忘れていたと気がつく。
私はグノーを手のひらに移し、マティアスの前に差し出した。
恥ずかしがり屋なグノーは、昨日私にそうしたように二本の腕で顔を隠し縮こまっている。
それをマティアスが穴が空きそうなほど凝視するものだから、縮こまりすぎたグノーは最終的に土でできたボールみたいになっていた。
「彼はグノームと言って、昨日出会った精霊さんです」
「グノーム……名前からしておそらく土の精霊だな」
「分かるんですか?」
驚いて思わず問い返してしまった。
確かに見た目がなんとなく土っぽいなとは思っていたが、グノーは自分のことを喋らない―――というかほとんど口を開かないので、私が彼について知っていることのほとんどはサラやウィンから聞いたことなのだ。
「ああ。炎のサラマンデル、水のウィンディーネ、土のグノーム、風のシルヴェストル。古文書に書いてあったとおりだ。彼らは一であり十。全ての個体が同じ名を持ち、一つの個体に名を教えれば、同じ属性の者達は全てがその名を答えることができるという……」
ぶつぶつと、マティアスがまた自分の世界に入っていってしまったようだった。
その時、始業開始を知らせる学園の鐘が鳴り響く。
するとそれに気づいたマティアスが、目に見えて慌てだした。机の上に置かれた教材を抱えて、どたどたと教官室を飛び出していく。
「そういう訳だから、俺が授業の間とりあえず殿下の世話でもしといてくれ! エリス頼んだぞ!」
よりにももよって、とんでもない仕事を押しつけられてしまった。
「そんな! 待ってください!」
慌てて教官室から顔を出した時には、既にマティアスの背中は小さく遠ざかっていた。
おそるおそる体勢を戻し、鋭い顔で立ち尽くすクロードと向かい合う。
(そんなこと言われたって、一体どうすればいいの?)
パニックになりそうな私のことなどお構いなしで、サラやウィンは興味深そうにクロードの回りを飛び回っているのだった。
ああ、今すぐ部屋に閉じこもりたい。
まだ手のひらの上で丸くなっているグノーもまた、私と似たような衝動に駆られているに違いなかった。




