25 平穏はまだ遠く
「いい報せと悪い報せ、どちらを先に聞きたい?」
朝食を済ませ、教官室に行くと開口一番マティアスはそう言った。
しかし私は彼の言葉よりも、椅子に腰掛けたマティアスの傍らに立つ人々に驚き言葉をなくしてしまった。
「なんで……」
私がショックを受けたことが伝わったのだろう。
マティアスはそのくせっ毛をがしがしとかき混ぜて、眉を下げて情けない顔をした。
「あー……話せば長くなるんだが……」
そしてそんな彼の言葉を遮るように、その男は言った。
「俺も今日から魔法学の研究生となった。よろしく頼む」
そう言って手を差し出してきたのは、昨日別れたばかりのクロードだったのだ。
「殿下、やはりお考え直しを! 研究生になりたいというのでしたら、帝王学や史学などほかに学ぶべきことがいくらでもございますっ」
その魔法学の講師が室内にいるにもかかわらずクロードに食い下がるのは、以前寮の食堂で顔を合わせたことのある眼鏡の男子生徒だった。
どうやら彼は以前の印象通り、王太子であるクロードのお目付役的な立場にあるらしい。
しかしクロードは、そんな青年の必死の訴えにも、耳を貸す様子はない。
「学ぶべきことは、宮廷で十分に学んでいる。やるべきことをすれば他は自由にして構わないと、陛下はおっしゃっていたはずだが?」
「しかし!」
「とにかく、俺はここの研究生になったんだ。お前はクラスへと戻れ」
「そういうわけには参りません。殿下のお世話をしっかりするようにと、父からも仰せつかっておりますれば」
どうやらクロードは、自らの意思でこの王立学校へと来たようだ。ここの授業の他に帝王学や史学を学んでいるのだとしたら、その日常はひどく多忙であるに違いない。
「くどいぞ」
「いいえ引き下がりません。校内で物騒な事件も起きていることですし、いっそ卒業を早めて―――」
彼らの言い争いは白熱していた。
しかしそれはそれとして、私とマティアスはすっかり蚊帳の外だ。
ともかくどうしてこうなったのかを聞こうと、こそこそとマティアスに近づく。
すると彼は小さなため息をついて、二人には聞こえないようそっと私に耳打ちした。
「見て分かるとおり、悪い報せってのはあの王子様だ。それでいい報せってのは、国からの補助が増えた」
そう言って、マティアスはへらりと表情を緩めた。
どうやら、クロードを研究生とする見返りとして、魔法学の予算に相応の金額が加算されることになったらしい。
私は思わず呆れてしまった。
まあ魔法学はあまり重要視されていない学問なので、マティアスにとって予算の増額は降って湧いた幸運に違いない。
晴れて研究生となってクロードその他のしがらみから逃げたつもりだった私にしてみれば、いい報せの方にはなんの喜びもなく、ただただ悪い報せしかなかったように思えるのだが。
「あれ、そういえば新しい服を作ってやったのか? 水色のドレスがそこの浮いて……」
そしてマティアスは、私が近づいたことでようやくウィンのドレスに気がついたらしい。
彼はモノクルをかけた右目でもって、ウィンが浮かんでいる私の右上あたりを凝視している。
「これもエリスが作ったのか? うまいもんだ。精霊が俺にも見えたらさぞ似合って……」
マティアスは今の状況を忘れて、夢見るように言った。
そんな彼の頭に、突然大きな手のひらが振ってくる。
すぐ側に居た私も、咄嗟に反応することができなかった。
目の前では手袋をつけたクロードの大きな右手が、マティアスの頭を力強く掴み、強引に己の方へと目を向けさせている。
「いささか距離が近すぎるように思えるのだが、どうだ?」
クロードの言葉は低く重く、あまりの恐ろしさに私の方が一歩引いてしまった。
ちなみにマティアスはといえば、唖然としているのか「ふぁい」という謎の返事を返している。
次にクロードは私にその剣呑なまなざしを向け、低いままの声音で言った。
「今日からよろしく、先輩殿?」
マティアスの頭を掴んだままでそう言う彼に、私は壊れた人形のようにこくこくと頷くより他なかった。




