10 新しい出会い
「恐かった……」
体は鉛のように重かった。
静まり返る廊下を一人、体を引きずるように寮へと向かう。
昼食は寮にある食堂で取る決まりだ。
あまりお腹は空いていなかったが、兎に角なにか食べなければいけないと思った。
苦しい時ほど、無理をしてでも食べるべきだ。睡眠や食事や、とにかく人として必要な行為を怠ると、人間はすぐ脆くなって潰れてしまう。
私は食べた。
両親に厳しく叱られても、夫を妹に取られても、負けたくないからとにかく食べた。
食べるとお腹が満たされて、少しだけ悲しみも薄れる。
本当は乳母の作るパン粥が食べたいけれど、残念ながら彼女の料理をもう食べることはできない。
しかし考え事をしながら、歩いていたのがよくなかったのか。
それとも変に近道をしようとしたのがよくなかったのか。
講堂と寮の間にある中庭で、私は迷子になってしまった。
今日はとことんついてない日だ。
どうしようかと思いながら歩き続けたけれど、いつまで経っても寮にたどり着くことはできなかった。
これは奇妙だ。
こんなに歩いたら寮どころか王立学校の敷地から出てしまってもおかしくないはずなのに、どうしていつまでも中庭が続いているのだろう?
森と言っても、景観を保つ程度のごく小さな庭だ。
最初に通った時には、二三歩分け入っただけで向こう側の建物を確認することができた。
(へん、よね? いくら私が方向音痴でも、こんな小さな森に迷い込むなんてことありえないわ)
それに気のせいなのか何なのか、先ほどから木々のざわめきに混じって、くすくすと笑い声のようなものが聞こえる気がする。
奇妙すぎる。これは一体どういうことなのだろう。
気疲れの上に歩き続けたことで空腹になり、苛立ちが募っていた。
どうして私がこんな目にと、言いたくても言えない鬱憤が蓄積していた。
だから私はもうここで限界だと思ったところで立ち止まり、大きく息を吸った。
「わ、笑ってるのは誰!? いい加減出てきなさいひょ!」
こんな大声を出したことなど、今まで一度もない。
おかげで舌を噛んでしまった。
踏んだり蹴ったりの泣きっ面を、蜂に刺されたような気分。
すると、ざわざわと森のざわめきが増した。
『聞こえるの?』
『ふしぎ』
『くすくす』
『あなたは誰?』
「あなたたちの方が誰よ! 人に名を尋ねるのならまずは自分から名乗りなさい!」
むしゃくしゃした気持ちを吐き出すように大声を出すと、少しだけすっきりした。
それにしても、私に語り掛けてくるこの声の主は一体誰なのだろう。
一人ではない。沢山の声が折り重なって、まるで森のざわめきのようにすべてが意味をなさないのだ。
腕を組んで、萎えそうになる気持ちをぎゅっと立て直す。
なぜだか、恐れているのを相手に悟られてはいけないような気がした。
トントントン
しばらくその場で足踏みをしていると、信じられないようなことが起きた。
半分透き通った小さな人間が、すっと空気を滑るように私の前に現れたのだ。
それは赤い綺麗な羽の、赤い髪をした裸の人間だった。
「あなた、お人形?」
最初は、魔法具が仕込まれた人形かと思った。
しかし目の前に現れた人は、きっと目つきを鋭くして私を見据える。
『なんだよ! お前が名乗れっていうから出てきたんだろ!』
彼―――なのだろうか? 裸だけれど女性とも男性ともいえないような体つきをしている―――は、怒りを表現するように私の目の前を飛び回る。
触れられるのかと思って手を伸ばすと、熱を感じ私は手をひっこめた。
『ばか。炎の精霊に触ろうとするやつがあるか』
「炎の、精霊?」
『ああ。俺の名前はサラマンデル。炎を司る者だ』
えっへんとでも言いたげに、彼は腰に手を当てて胸を張る。
でも私は、そんなことより気になることがあった。
「ねえあなた。そんな恰好で寒くないの?」
『はあ?』
「だって、裸でいるなんて寒いでしょう? ちゃんと服を着なきゃ」
『服? 服ってなんだ?』
サラマンデルが首を傾げるので、私はぴらりと自分のスカートをつまんだ。
「体に身に着ける布よ。暑い時には薄く、寒い時には厚くして体温を調節するのよ」
『ふーん』
サラマンドルは興味深げに、私の周りを飛び回った。
どうやら服が珍しいらしい。
『なあ、お前』
「お前じゃないわ。アリスよ」
私は妹の名前を名乗る。
『じゃあアリス。俺にその服ってやつをくれよ』
「え?」
『いいだろ? そのふくを俺に作ってくれってば!』
キラキラと、サラマンドルは子供のように目を輝かせた。
そういうことならと、私は少し考えて言った。
「いいわ。でも私は今、この森から出られなくて困っているの」
『えー、森の中で作ればいいのに』
「寮に戻らないと、服の材料が手に入らないのよ。だから森の外まで案内してもらえるかしら?」
少し考えた後、サラマンドルは残念そうにうなずく。
『分かった! 代わりに絶対、俺に服を作ってくれよ。約束を破ったらひどい目に合わせるからな!』
「ええ。分かったわ」
彼の案内で、私はようやく広すぎる中庭から脱出することができた。
もうお腹はペコペコだ。
クロードに脅された恐怖もすっかり忘れかけていたので、私はちょっとだけサラマンドルに感謝したのだった。




