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短編小説

悪女か魔女か、弱き者か

作者: 伊那

R15は念のためです。

 稀代の極悪人が処刑される。


 アミラはナイフの柄を握りしめた。

 世界を敵に回しても、あの男を助けよう。

 世間一般的に言えば、倫理観からすれば、アミラは間違っているのだろう。

 アミラは悪女と罵られるだろうか。人をたぶらかす魔女と呼ばれるだろうか。

 だがそれがなんだと言うのか。

 世間はいつも、アミラに優しくなんかなかった。

 ゴミ溜めに生まれてクソみたいな人生を送ってきた。汚泥でも詰まってるみたいなこの肉体を、何度捨て去りたいと願った事か。

 アミラは生きる事などうんざりだった。それなのに死ぬ事も選べなかったから、生きる為に何でもした。何でも、だ。一度は娼婦の真似事までしたが、今では小さくない町を裏で仕切る組織の一員になった。ボスの右腕と呼ばれるレルカリスの情婦として。

 組織に属していればアミラは以前より安定した生活が送れた。たとえそれが、表の世界を生きる者には犯罪とされる行為をして得られる安寧だとしても、アミラは気にしなかった。

 殺しだけは命じられた事はないが、その手助けなら何度だってした。他者を陥れる為の嘘など山ほどついた。相手に言う事を聞かせる為に女の体だって使った。もうとっくに好きでもなくなったレルカリスに抱かれても、彼を愛する振りをした。

 彼女の中には何もない。ただ、生きて腹を満たせて屋根の下でゆっくり眠る事が出来ればそれでいい。

 そう、思っていた。

 思い込むのに成功していた。

 それなのに、アミラの生活を壊したのはあの男――エール。

 魔族だった。




 魔族と人族(ひとぞく)の間に不可侵協定が結ばれ七十年がたった――。

 魔族は人族の領域に立ち入ってはいけないし、また逆もしかり。人族は魔族の存在を知っていてもその目で見る事なく生きていく。もし人族の領域に魔族が飛び込めばただちに捕縛され、退去させられる。

 魔族の中には人族に好意的な者もいるが、彼らに人族のルールや人情や感覚は通用しない。人族にはない強大(きょうだい)魔力(ちから)を持ち、人族を家畜か何かのように見なしている。所詮彼らには人族のような《心》はない。

 彼らが相容れるはずがなかった。


 男は、町の外れにボロ雑巾みたいな格好で捨てられていた。

『死んでるの……?』

 血まみれだった。死体など見慣れたと言えたらよかったのだが、いかなアミラでも死んだ人間には気分が悪くなる。

 死体だと無視すればよかったのだが、アミラにはその男がかすかに身動ぎしたように見えた。

 一歩前に出て気がついたのは、男が魔族であるという事――。人族にはない鳥の足に似た手と鉤爪をしていた。

 アミラは息を呑んだ。魔族なんて、法では強制退去が決まっているが、人族の私刑も免れない存在と聞く。どう考えてもまずい事にしかなりそうにない。

 魔族の男を連れて帰る訳にはいかないが、なんとかしなければと思った。何故かなのか、アミラには分からなかった。


 男を助けた事をアミラはすぐに後悔した。

 町の外にある小屋に男を隠したが、アミラが翌日行くといなくなっていた。

 驚いたが魔族の治癒能力は人族より優れているため、もう怪我は治ったのか。あるいは怪我などなく返り血だったのか。

 安心したらいいのか心配したらいいのかアミラには分からなかった。

 アミラは男の再訪に気づくのが遅れた。

『お前は、誰だ?』

 心臓を撫でられたような感覚に、アミラは目を見張る。魔族がいるというだけで、アミラの恐怖心はこの上なく高まった。

 男の瞳は狼に似た黄色をしていたが、しかし鳥の羽毛のような耳が生えていた。

 その瞳にはなんの感情もなかった。

 アミラはこの男の前では何かする事を許されていない。男の言動はアミラに返事を求めているようだが、圧倒的な力を前に、膝を折る事さえしてはいけないのだ。

『……直接、脳に聞くか』

 男は何回か繰り返された反応に慣れているみたいに言った。

 突如、アミラの世界が真っ暗になった。暗い記憶がよみがえる。

 空腹で仕方なく、頭痛や腹痛がやまなかった頃。寒さで手足の感覚がなくなった記憶。一時生活を共にした男から加えられた暴力。犯されそうになって相手を殴って逃げた――それなのに身がよじれそうな空腹に、自ら見知らぬ男に股を開いた――

『ああ゛……ッ』

 肉体ではなく、頭の奥の重要な部分が捩切れそうだった。

 レルカリスと出会ってから増えた自分への侮蔑と嫌悪と憎悪と絶望に満ちた視線――。

 事切れたばかりの人間の瞳。

 裏切りが相手に知られた時の心の傷。

 アミラの罪。

 犬の頭部から流れる血。

 止まらない吐き気。

 もう安心だと思ったのにレルカリスにボスの部屋へ行けと言われた時の痛み。

 痛み。絶望、全部、アミラの――

『……や、め……』

 体中の穴から液体が出ているようだった。

 解放された時、アミラは地面に転がっていた。

 まだ生きている事に、慣れ親しんだ嫌悪感を抱く。

『お前の記憶は、カナシミに満ちているな』

 この魔族の男がアミラに何かしたのは分かりきっている。だがアミラの記憶を暴いて何がしたいのか。

 しばらくアミラは何も出来なかったが、しゃべれるようになったら嘲るような声が出た。

『悲しみが何か分かっている訳?』

『分からん。だが気になっている。そう口にしたら故郷に戻れなくなった』

 男は魔族の領域を追放されたのだ。


 魔族の男は――エールと名のった。

 エールは人族を殺した。何人も。

 アミラにしたのと同じやり方で、人族の記憶を読もうとしたからだ。人族の中には不幸な出来事を忘れる事でなんとか生きてる者もいた。そうして自分を守っていたのにエールに忘却の盾を壊された。

 彼は人族を知りたいと言う癖に、人族の脆さを何も分かっていなかった。

 精神を痛めつければ死ぬ。そうでなくとも、か弱い肉体をいじめれば死ぬ。そんな事も分からなかった。

 アミラは彼と関わるつもりはなかった。思い出したくもない過去を見せられて、嬉しくなんてなかった。

 だけど男が最初の日に言った言葉が忘れられなかった。

『お前は、壊れないな。人族の記憶を読むと大きな体の男でも死んだ瞳になる』

 魔族の瞳は無機質で、とても感情があるようには見えなかった。

『お前は、“強い”のかもしれないな』

 その時ばかりは、アミラは笑ってしまった。自分には似合いの言葉と思えなかったから。むしろ、アミラは自分を弱いと思っていた。

 この男を助けた事を後悔してアミラはすぐに小屋を発った。

 しかし寝る前になって、“強い”などと言われたのは初めてだと気づいた。あの魔族は、人間の“心が”強いなどと知らないで使っているのだろう。覚えたての単語を使いたがる子供みたいな、不慣れな事を言う口調だったから。

 魔族に人族と同じ感情を求めてはいけない。それは人族の共通認識だった。

『強い、か』

 そんな風になれたら。そう言われたら。そんな事――夢にも思わなかった。

 心を、“強く”持てたら。

 自分を“強く”持てたら。

 何かを守れるくらい“強く”なれたら。

 そんな過去はなくそんな未来も来るはずがなかった。それなのにアミラは、何年かぶりに悔しさで涙した。

 まるで諦めたものをぶら下げられた気分。アミラのどこが“強い”というのか。もし望めば、努力をしたら、アミラはもっと違う人生を歩めたかもしれないのにそうはしなかった。何かを“強く”願い続ける事はとても根気のいる事だから。望まなければ絶望もない。流されるままに、誰かに従っていれば、傷つく事もない。

 それなのに今は、エールの記憶手繰りによりたくさん傷ついた自分しかいない事を思い知った。

 誰が、強いのか。一体アミラのどこが。


 気がつくとアミラはあの小屋に来ていた。

 魔族の男がとどまる理由などなかったが、アミラはそこしか彼の居場所を知らなかった。

 少しして、エールがあらわれた。

『わたしのどこが、強いっていうの?』

 前置きもなしにアミラはたずねた。

 男は動物みたいな目付きをしていた。こちらを見ていても、人族と同じ事は考えられないような瞳だ。

『逆にこちらが聞きたい。経験上、カナシミに満ちた記憶を読むと人族は動けなくなるか死ぬ。お前は何故そうならない?』

 アミラにだって心当たりはない。昨日は泣いていた気がするし、心がヒリヒリと痛んだ。

 あえて言うなら、過去も現在も、なんの代わり映えもしない生き方をしているからだろうか。アミラは、毎日目が覚める事に絶望している。希望に満ちた朝なんてなかった。だから、だろうか。

 自分が絶望してる事ぐらい、もう知ってる。

『……慣れてしまったのかしら。カナシミに』

 わざとエールみたいな言い方をした。

 その事に彼は気づいたのだろうか。アミラをあの動物めいた瞳で見つめる。

『カナシミが一定以上になると、大抵は壊れると考えていたのだが……慣れる……?』

 今更ながら、アミラは何故こんな会話をしているのか自分に疑問を抱いた。

 それから、この男が何故人族に興味を持つのかも、気になった。

『どうして人族を知りたがるの? 不可侵協定で人族はそちらには行かなかったでしょうに』

『さあ? 何故かは分からないからこそ、知りたいんだ』

 アミラは帰る時になって、もうエールに圧倒されなかったと気づいた。


 毎日会いに行った訳ではない。アミラは一人で暮らしているのではなく、レルカリスと共に仕事をしたり、同じ寝室で寝たりする。はっきり一人で過ごす時間は少なかった。

 また、町に“逃亡中の犯罪者”の噂が立ち始めていた。それがあの魔族の男エールを指すのは間違いないだろう。以前いた町で不自然な死に方をした者が何人かおり、付近で不審な余所者の目撃情報があったらしい。

 ある時アミラは何人殺したのかエールにたずねた。

『魔族と知られた時は、いつでも。記憶を読んで壊れてしまった時も』

 答えになっていなかった。


『わたしは、“強く”なれるかしら』

 その日アミラはレルカリスに言われある女の肩を床におさえた。レルカリスが女に切りつけて、出血多量で女は死んだ。

 出来るならば人を殺したくなかった。アミラはレルカリスに逆らえるほど強くはなかった。

 組織にも、元同業者にも、誰にも聞いてもらえなかった。言葉にしても理解されなかった。

 何しろアミラは血ぬられた両手を持つ日常に溶け込んでいる。誰も彼女が怖がっているなど、知らない。

 時々犬や猫に深刻な悩みを打ち明ける者がいる。それと一緒だ。アミラはエールを魔族とも見なしていなかった。だから話せる。

『こんな生活いやなの。でも抜け出すには、とても……たくさんの努力が必要だわ。それが出来るのはきっと、本当に強い者だけ』

 アミラには無理だ。ずっと長い間、まっとうに生きる道から目を逸らしてきた。傷ついても立ち上がるなんていう芸当、彼女には出来ない。

『わたしには無理だわ』

 どうしたら心を強く持てるのか、いっそエールと共に研究したいくらいだった。

『何かの大きな事を成すなら、独力では不可能な時もある。そういう時魔族は、他者の力を借りる。人族はそうしないのか』

 アミラはぽかんとした。思いつかなかった訳ではない。だがアミラには本当の意味で助けを求められる相手などいなかった。何よりエールが、魔族の男が人族と変わらぬ事を言うのが驚きだった。

『あなた、意外に普通の事いうのね』

『何がだ? 協力というのは虫でも出来る単純な行為だぞ』

 (アリ)か何かの事を言っているのか。アミラには彼が人族らしい意味で協力という言葉を使っているのかはかりかねた。

『頼める相手がいる場合は、そうしたでしょうね』

 エールは小首をかしげた。最近覚えたらしい人族のジェスチャーは、魔族には不似合いで滑稽だった。首が回るフクロウみたいだ。

『何がしたいのか知らないが、お前が望むなら、手伝ってやってもよい』

 実験を続けると告げる研究者のような響き。

『人族は強くなったり弱くなったりする。その変化に興味がある』

 動物のような眼差しをしながらも、エールはかすかに目を細めた。日差しが眩しかったかのように。

『そんな風に言われても、嬉しくないわ』

 こう言ってもエールはどうせ、アミラの言葉の意味を理解しようともしないだろう。

 だからこの話はおしまいのはずだった。

『言葉選びが問題なのか? お前がウレシソウにしているのは見た事がない。ウレシサやタノシミは人族の“強さ”に関係していると聞いた事がある』

『あなたと話していると、本当に疲れるわ』

 人族だって自分の感情をいちいち理解してから発しているのではない。何かと質問の多い男に付き合うのも限度がある。

『知識を深めたからって、本当に理解する事が出来るのかしら』

 アミラにはそうは思えない。

 どうせ何日か後にこの男は、また人族の返り血を浴びて寝こけているのだから。

『さあ? でもお前とはしばらく行動を共にしたから、少しは理解が深まったと考えられる』

『あのね、わたしは普通の人族と同じ感覚なんて持ってないの。だからその辺の人族の情報と一緒にしない方がいいと思うわ』

『そうだろうな。お前は、』

 自分で口にしておいてアミラは、まともな女ではないと言われたような気持ちになって、俯いた。

『お前の事は、少し分かる』

 だからエールの表情筋がかすかに動いたのを知らなかった。


 何か大きな変化があった訳ではない。アミラはエールをいまいち理解出来なかったし、エールの方もそうだろう。

 だが呆気なく幕切れとなった。

 町の者を殺してまわっていた魔族の男が捕まったのだ。




「アミラ」

 レルカリスが呼んでいる。アミラはナイフを服の下に隠した。

「刑の執行、見るだろ?」

 この日、魔族の男が不可侵協定を破った挙げ句に人族の殺人を繰り返した(かど)で処刑される事になっている。

 公開処刑は数少ない娯楽のひとつだ。悪しき存在を罵り石を投げ、それが滅するのを目にして安堵する。一種の感情の捌け口になる。

「行かない」

 アミラが言うとレルカリスは「そうか」と気にした様子もなく去って行った。

 アミラとエールの間に、何かあった訳ではない。

 それなのにアミラは――

 強くなりたいと、願ってしまった。

 君が困難に立ち向かうなら、手助けをするよ。

 誰にだって思いつくし言える言葉だ。

 だが誰もアミラにそんな事言ってくれなかった。

 どれだけアミラが嫌だと言っても聞いてくれなかった。いつもアミラに何かを強いた。

 待てば他にもアミラを支えると言ってくれるまともな人族があらわれたかもしれない。

 だがそんな者はいなかった。探しに行けるほど強くもなかった。

 エールだけだ。

 あの魔族の男だけが、アミラの本心を認めてくれた。

 馬鹿げていると分かっている。エールに人族と同じ心はなく、彼は自分が何をしているのか分からないのだ。アミラの事など実験動物くらいにしか思っていないだろう。

 だが、それでも、アミラは


――お前の事は、少し分かる


 ナイフの柄を強く握った。




 魔女、と誰かがアミラを罵倒した。誰もが。

 もしかしたらアミラは死に場所を求めていたのかもしれない。生まれた時から自分が大嫌いで、息をする事さえ許せなかった。

 だからこれで楽になれる。

 血が流れていく。

 空が高い。

 晴れた、雲の少ない日だった。

 あとどれくらい待てば死ねるのか、少し期待していた。同時にエールが無事に追っ手を振りきれたか知ってから眠りたいとも思った。

 もしかしたら、魔族の男も“変化”しているのかもしれない。

 ついさっきの事だ。アミラがナイフを振りかざし男を拘束する縄を切った時――エールは人族みたいに驚いたような、戸惑ったような複雑な目付きをしていた。

 感情なんて知らないくせに。アミラは何故か笑えてしまった。

 もし、もしも魔族も感情を知る事が出来るのなら。

 いや、もしも“エールが”心を知るのなら。

 それはそれで、いいような気がした。




 魔族の男は一度も振り返らずに町から逃げた。

 今さっき起きた出来事を思い出す事はなかった。

 脳裏によぎるは、か細い女に出会ったばかりの頃の――記憶。

 何故か覚えている小屋で会った回数。

 それから――

 何かが足りない、と考え男は町を振り返った。

 男は人族のように眉を寄せた。

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