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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

悲しみに勝る憎しみを社会に

作者: 星葡萄

書きたいことは何もないよ。

感情を半分殺してしまったから、感受性も心も鈍くなっている。そんな気持ちで書いたって何も響くものなんて書けないだろうから。それでも、少し、リハビリに書いてみようと思う。

ずっと、私が苦しんでいることは家族に知られてはいけなかった。私が病むと母がどういうことか、負けじと病みはじめるから。

学生の頃、いじめと持病により不登校だった。その時、母は、私が学校へ行きたくないと、玄関の扉を開けられずに靴だけ履いてしゃがみこんで項垂れている私を見て過呼吸になった。介抱するのは私で。とにかく励ましの言葉を送った記憶がある。ある時は電気の付けてない暗いキッチンで正座をしながらぶつぶつと独り言を言っていたり、夜中に壁をドンドンと叩いていて、五月蝿くて、怖くて、眠られない夜もあった。またある時はとっくに登校時間が過ぎた頃、リビングで、苦しすぎて呼吸をするのすら辛い私を横目に、母は包丁を研ぎ始めた。あわててキッチンへ行くと、その研いだ包丁を手首に当てているところだった。無論私はそれを止める。止めてなかったなら、間違いなく包丁でリストカットしていただろう。包丁といえば、私がまだ幼稚園児の頃、たあいない理由で母が、「もうやだママ死ぬ!」と言ってキッチンへ走っていき包丁を取りだし自分のお腹に当てたこともあった。幼い私は泣き叫びながらママ、死なないで!信者嫌だ!!と号泣しながら止めたこともある。小学生の頃は、突然「ママは鬼になった」と言って私に向かって物を投げてきたこともあった。そんなわけで、私が病むと母が追って病むから家庭で弱味を見せられない。学校にも居場所がなく、保健室の先生へ泣きながら相談しても軽くあしらわれていた。

いじめのきっかけはとても仲良くしてくれていた友達の裏切りだった。今でもどうして私を裏切ったのか分からない。クラス全員に有りもしない噂とリストカットをしていることをバラしたんだと思う。すぐに私はひとりぼっちになった。それだけならまだいい。物を捨てられたり、ペンケースの中に香水と液体のりを大量に入れられたり、椅子をチョークで汚されて座るたびにスカートが真っ白になったりと色々あった。

いじめのことを担任の先生へ勇気を出して告げた時はもっと悲惨だった。クラスぐるみのいじめだというのに、ホームルームの時間に、いじめや仲間外れはいけませんよ、と堂々と公言したのだった。とても残酷な対処だった。後から、あいつチクりやがったよといじめが加速したのは言うまでもない。

登校する時は、セーラー服の胸ポケットに貝印のカミソリを常備して、人気のない道を選んでゆっくり、ゆっくりとナメクジ並みに遅い歩幅で歩きながらリストカットしながら登校していた。登校中の道は修羅の道だった。道の端にスプラッタな死体が転がっているのを幻覚として見ながら登校していた。勿論腕を切るのは登校中だけではなかった。授業中も、持病の過敏性腸症候群の痛みに耐えながら、その痛みを誤魔化すために、また、狭い部屋の中に敵であるクラスメートが沢山詰まっている環境に耐えられないために、リストカットをした痛みで気を誤魔化し、いつも授業を耐え抜いていた。まぁ、それも長くは続かなかった。

次第に登校する時間が遅くなってきた。5限、放課後に登校するのがザラになっていった。クラスの人等が私をみると悪口を言う。ちょっとスクールバッグのストラップや髪ゴムを変えただけでキモい、趣味悪いなんて言われていた。中でもお昼休みが酷かった。友達でもないのにカフェテリアで食事に誘われる。断る権利など、無い。6人掛けのテーブルの真ん中に座らされ、食事中ずっと罵倒され続けた。そんなに嫌いなら誘わなくていいのに。いじめるのって、楽しいんだろうね。お陰で私は会食恐怖症になった。人と食事をすると、手が、頭が震える。ご飯の味なんてまったくしない。震えを抑えるのに必死だけれども、それはどうにもならなかった。それが理由で家族と食事をするのも避けるようになった。今は、大分治ったけれども。

リストカットで切る場所がなくなってきて、次に手を出したのがブロンのOD、いわゆるオーバードーズというもので、薬を大量に飲んで意識を朦朧とさせることだった。

そんな私にも、やっと救いの手が伸ばされた。

見かねて相談に乗ってくれる男子ができた。つらい思い、リストカットをしながら、お薬を大量に飲みながら、満身創痍で学校にやっとの思いで来ていることを泣きながら話した。

結果、希望なんてものは無いと知った。

私の相談に乗ってくれた男子はペラペラと私が薬中であることをクラス内、クラス外に話していた。学年中に私が危ない薬中だと知れ渡った。すぐに別のクラスの友達に問い詰められた。私がやってるのは病院で買える薬だよと説明しても納得のいかなさそうな顔をしていた。そりゃそうだろうね。まぁ、言霊とは良く言ったもので、近々本当に薬中に私はなっていた。それは高校を転校して、いくらか経った時のことだった。精神科に通い始めたのだった。お薬中毒だった故人、南条あやのように、毎日のようにお酒とお薬を飲んでラリっていた。そんな中、私に彼氏というものが出来た。当時全盛期だったmixiで知り合った人だった。片道二時間かけて彼の家に通っていた。外でデートなんてしたことが無かった。いつも、彼の家でセックスして、彼が背中を向けて寝て、起きたと思えば私の存在など無いかのようにネットゲームに勤しむ人だった。放置された私がいじけても、責任転嫁されて私が悪いと怒られるだけだった。つまり、私はデリヘルとして扱われていた。結果として、そんな付き合いに我慢できずメンヘラになった私は彼の手には負えず、邪険にされるばかりで、相手から別れを告げられた。

でも、それで良かった。何故なら援交する為に処女を捨てたかったから。だけど、初彼もほとんどレイプに近かったから、どうせなら処女を援交で捨てれば良かったとも今は思う。高い値で売れただろうし。

それから色々な人と付き合ったりもしたけれど、ロクな人は居なかった。みんな、男は自分勝手で女性を見下してばかりだと嫌悪は増すばかりだった。


原点に戻ると、最初はただ普通の愛が欲しかった。認められたかった。


なによりも、私を支えてくれるものが欲しかった。

親も友達も頼れない私は精神薬に溺れていった。


誰か助けて。

何度願っただろう。


私を見て。

何度焦がれただろう。


私を見ないで。

何度怖れただろう。



この先も人生は続く。

書ききれないことも多かった。


いつか、私を理解してくれる人が現れて、

幸せな人生のロスタイムを過ごせたらいいな。

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