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山猫の物語―そして料理店へ―

作者: 各務あおい

 金田一郎君。そう呼ばれても、一郎はぼぅっと窓の外を眺めたままでいました。先生は一郎の席をちらりと見ると、慣れている様子でそのまま授業を始めてしまいました。

 一郎には時たまこういうことがありました。こうしてひとしきりぼぅっとした後に、周りからはとうてい空想の中の物語としか思えない話をさも本当にあったことであるかのように話すのです。いつもぼぅっとする直前にどこかへ出かけており、周りからは本当か嘘かはわからないのが、話の常でした。

 放課後、友人で自分と同じく百姓の跡取り息子である太郎が、ぼぅっとしたまま家へ帰ろうとする一郎を呼び止めました。

「どうしたんだい一郎くん、今日は一日心ここにあらずといった感じではないか。また新しい話を考えたのかい」


 彼は日頃から好奇心旺盛で、一郎の空想話を面白がって聞いてくれる一人でもありました。

 友人が自分の心配をしてくれているのが嬉しくもありましたので、一郎は太郎に週末に起きた不思議な裁判の話をすることにしました。

「じつはそうなんだ。とはいっても、今回体験した話にはいつもと違って証拠があるんだ」


 そう言って、一郎はかばんからどんぐりの入ったますを取り出しました。

「その何の変哲もないどんぐりと升が証拠なのかい」

 太郎は怪訝そうな顔をしました。ですがそんなことは気にもとめずに一郎は続けました。

「僕は昨日山猫によばれて、どんぐりの裁判に行ってきたんだ」

 そうして一郎は森の中を西へ南へと歩いて行ったこと、気味の悪く、世辞に弱い馬車別当のこと、気取って偉そうな山猫のこと、くだらないことで争うどんぐりのこと、そして何よりその争いをわずかに一分半で片付けた自分のことを話しました。

「そうしてその裁判の御礼として山猫にもらったのが、このます一杯の金のどんぐりなのさ」

「そのどんぐりは、普通のこげ茶色をしているじゃないか。どこも金色なんかではないよ」

 太郎の言うとおり、どんぐりは至って普通のどんぐりでした。色以外もどこにでも落ちているどんぐりと比べて、不思議に思うようなところは無いように思われました。

「どんぐりは僕が森を抜けるに従ってこの色になっていってしまったんだ。きっと鮮度が落ちると色が変色してしまうに違いないよ」

 一郎は確信を持ってそう言っていましたが、太郎はどうにも信用していませんでした。そもそも一郎の話を楽しみにしていたことはあっても、本気にしていたことなどただの一度もなかったのです。

「どんぐりに鮮度なんてあるもんかい。なにか他には証拠になるものはないのかい」


 そう太郎が聞くと、一郎はこれまた得意げな顔をして言いました。

「それがあるんだよ。これ以上ないっていう証拠が。これさ」

 そう言って一郎が取り出したのは、一枚のはがきでした。太郎の目には、それはお世辞にも綺麗とはいえないものでしたが、それだけに不思議な雰囲気を醸し出しているようにも思えました。

「なんだか酷く汚い字だね。なになに……あなたは、ごきげんよろしいほで、けっこです。なんだこれは。字が下手なだけじゃなくて文章も怪しいもんだね。今時尋常の三年生だってもっと上手に文章を書くだろうさ」


「そうなんだ。これはとても字も文章も読めたものでは無いんだけれども、それもそのはず。書いたのは山猫の馬車別当なんだよ」

 なるほどこれは確かに証拠と言えそうでした。太郎も、なんだか一郎の言っていることを信じてもいいような気がしてきました。

「次の週末に僕も山猫のいた森に連れて行ってくれないか」

 太郎は気づくとそう言っていました。今まで信じていなかった事が本当のことかもしれないとなった時に、自分の目で見なければ納得できなかったのです。

 週末になると、二人は一郎の家の近くの森の中に居ました。一郎が前の週末に辿った道のりを二人で行くことになっていました。

 一郎が迷うこと無く進んでいくと、栗の木がありました。一郎は栗の木を見上げて、

「栗の木、栗の木、こないだ僕はどっちへ向かったかな」と聞きました。

 太郎は木に話しかけている一郎を不思議に思いながらも何も言いませんでした。しばらく待っても栗の木が答えてくれる様子はありませんでした。一郎は答えを待つのを止めて、記憶を頼りに進みました。その後も、笛吹の滝や、群生しているきのこ、栗鼠などにも出会い、その度に道を訪ねましたが、誰も答えてくれるものはいませんでした。

 栗鼠に話しかけたぶなの木からしばらく行ったところで、一郎はようやく自分たちが、道を失っていることに気付きました。

 二人は慌てふためき、帰り道を探しました。太郎が沢へと続く獣道をやっとのことで見つけ、帰路に就く頃にはもう日は沈み、月が天上にありました。

 そのことがあってからというもの、一郎が不思議な物語を話すことは無くなって行きました。その代わりに、大学校へ進学することを夢として勉学に励むようになったのです。

 それから幾十年の月日が流れました。

 一郎も太郎も家を継いで百姓をやる傍らに、狩りを趣味にするようになっていました。その冬のある日も近くの山に専門の鉄砲撃ちを何人か案内に狩りに行く予定をしていました。

 その準備をしている最中に、太郎が突然思い出したように言い出しました。

「そういえば、子供の頃、この山に二人で入っていって遭難しかけたことがあったね」

 太郎の言葉に、一郎はその頃のことを懐かしく思い出しました。

「そんな事もあったね。たしかその頃の僕は突拍子もない物語を話すことがあって、その時はどんな話だったかな」

「たしか、この山で山猫に会ったという話ではなかったかな」

 もうすっかり二人共、昔語りに入ってしまいました。

「そうだ、山猫だ。たしかその時は山猫には会えなかったんだよなあ」

 イギリスの兵隊風の防寒具を確認しながら一郎が言うと、

「物語が本当だったことなんて無かったじゃないか」

と太郎がかえし、何がおかしいのか二人共大笑いしました。

 子供の頃の話をしている二人のその顔はあるいは狩りをしている時よりも興奮していたかもしれません。

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