たとえばあなたが王子様でも
主人公がネガティブで根暗で卑屈です。合わないと感じたら即ブラウザバックをおススメします。
その瞬間、分かってしまった。やっぱり彼にとって、私はお姫様ではあり得ない、と。
*
重い瞼を持ち上げると、目の前に見知らぬ少年と少女の顔があった。右側の少年は、大きな鼻に負けないくらい、目を大きく丸く見開いていた。左側の少女は、そばかすの浮いた頬を赤く染め、目に涙を浮かべる。
「ああ……白雪! 目を覚ましたんだね!」
「良かった! 兄さんたちを呼んでくるね!!」
ベッドはマットレスがいつもより硬くて、寝心地に違和感を覚えた。薄い掛け布団からも、知らない匂いがする。
首を動かして周囲を確認してみる。そこは、私の部屋ではなかった。
少年と少女がぱたぱたと、軽快な足音を響かせながら部屋を出ていく。
彼らは私を白雪と呼び、兄さんたちを呼んでくる、と言った。しかし私は白雪とは似ても似つかぬ名前だし、兄もいなければ、そもそもこの少年と少女を知らない。
この状況を即座に夢と判断し、私は二度寝に入ることにした。
とはいっても、そう長くは眠っていられない。今日は数学の課題が当たりそうなのだが、まだ解けていない問題があるのだ。夢なら早く醒めてくれないと。
――早く目覚めないと。夢から覚めないと。
何度もそう唱えた私の努力もむなしく、夢だと思った状況は変わらなかった。
先ほどの少年と少女に続いて、五人の少年たちが部屋に入ってきた。皆一様に涙目になっていて、そのうちの一人などは号泣しながら鼻をかんでいた。
「本当にびっくりしたんだからね!!」
「僕らが帰ったら、白雪が腰紐で締め上げられていて」
「急いで紐を切ったけど、息してないし」
「このまま起きてくれなかったらどうしようって」
「……」
彼らの口から次々と飛び出してくる説明。それは昔々に聞いた、記憶の中のお伽噺とピタリと符合する。
夢なのかトリップなのか転生なのかは知らない。けれど、どうやら私は白雪姫になってしまったらしい。
やむなく私は、七人の小人との生活を始めた。白雪姫的には「続けた」が正しい表現だが、私からすると新しい生活の始まりだ。
料理を手伝おうとすれば、危ないから白雪は包丁を持たないで、と止められる。洗濯を手伝おうとすれば、綺麗な手が荒れるから触れないで、と注意される。掃除をしようとすれば、僕らの仕事を取らないで白雪は座っていてと椅子に戻されてしまう。終始そんな風に、小人たちにお姫様のように扱われながら――実際、白雪姫はお姫様なのだからそれはあるべき姿なのだろう――日々は穏やかに過ぎていく。
けれどそんな穏やかな時間の中でも、物語はきちんと進行していたようだ。
小人たちが各々の仕事や用事で家を空けていたその日に、訪ねてくる人があった。
黒いローブに、フードで顔を隠したその人は、言わずと知れた魔女である。
「綺麗な櫛はいらんかね」
「結構です」
これを使えばまた死にかけると分かっているものを、わざわざ買う馬鹿がどこにいる。
きっぱりと断って扉を閉めようとしたが、出来なかった。魔女が驚くべき早業で扉の隙間にブーツの先をねじ込んできたからだ。
「いいのかい?」
「……何が?」
「この物語を終わらせないと、この世界からは抜け出せまいよ」
なんとなく、そんな気はしていた。意外だったのは、魔女が続けて言った内容だ。
「お前だけでなく、王子役として送り込まれた男も、だ」
なんと、王子も私と同じ立場の人間らしい。
「知っている物語のとおりに出来なかったらどうなるの?」
「元の世界のお前の心臓が止まり、体が朽ちるだけさ。なに、心配はいらない。この櫛でお前が倒れたとて、小人どもは必ずお前を救う。この物語を変え得るのは、お前と王子役の男のみだからね」
「じゃあ、王子役の男が物語通りに動かなかったら……?」
「……」
魔女は微笑むだけで答えない。
どの道、私にできるのは物語通りに行動することだけだということだ。
だから、知っている物語に忠実な行動を心掛けた。小人たちのお姫様扱いを当然のように受け入れ、魔女が何かを売りに来るたび馬鹿素直にそれを買っては倒れ、小人たちに助けられた。
魔女がいよいよ毒りんごを売りつけに来た時にも、躊躇うことなく受け取った。素直に毒りんごを食べ、王子が来るのを待った。
……のだけれど。
現れた王子が、まさか彼だとは。彼の方も、まさか私が白雪姫役だとは思わなかっただろう。
彼の躊躇いが、目を瞑っていても気配で分かった。
*
彼と私は高校のクラスメイトだったけれど、住む世界ははっきりと分かれていた。
彼がからりとした明るい海沿いの道を走っているとしたら、私はじめじめとした暗い山の中のトンネルを這っている。
彼はサッカー部に所属しながら、成績はいつも学年トップ。対して私は、部活もせずにガリガリ勉強してようやく学年二十位以内。
皆と同じ制服を、誰よりも爽やかに着こなす背の高い彼。皆と同じ制服なのに、野暮ったく服に着られているチビで小太りでメガネの私。
スマートな立ち居振る舞いでいつもみんなの中心に居て、仲間たちに囲まれてキラキラしている彼。鈍臭く挙動不審でいつも隅っこに居て、誰にも顧みられることなく一人ぼっちの暗い私。
同じ世界に居たはずなのに、彼は白雪姫の世界の小人たちより、よほど異世界人じみていた。
そんな彼と私の最初の接点は、図書室で話しかけられたこと。
「いつもここに居るよね、えっと……小佐田さん?」
突然名前を呼ばれ、戸惑いながら顔をあげると、爽やかにキラキラオーラを放つ彼がいて、さらに戸惑った。
彼が話しかけてきたのは多分、好奇心から、だったのだと思う。あまりにも歩いてきた道が違う、人種も違いすぎる私に対する、ほんの軽い興味からの。
あるいはいつも一人でいる私への、同情か余計なお節介か。
けれどその時の私は、あまりにも唐突なことに驚くばかりで、そこまで頭が回っていなかった。持ち前の人見知りも手伝って、ただ固まっていることしか出来なかった。
彼が私の手元を覗きこんでくる。
「今日の復習? へー、毎日えらいね。俺なんてテスト前しかやらないよ」
感心するように、そう言われた。
思えばこれは、完全にイヤミだったと思う。「へえ? 小佐田さんって、これだけ勉強しても、テスト前しか勉強しない俺より順位下なの?」という。
その後も彼は何か話しかけてきた気がするけれど、私はまともに返せた記憶がない。
最後には彼は、気まずそうに立ち去って行った気がする。
この件以降、私と彼が学校で話したことはない。
今でこそ諦めがついているが、かつては「世界が違うことに甘んじていてはいけない。女としての努力をする前に諦めてはいけない」、そう考えたこともあったのだ。
まずはこの地味な外見から変えてみようと、手近なファッション誌を開き、お小遣いをはたいて服を買いに行った。
コスメも買い揃えてメイクの仕方を研究したし、コンタクトにするため眼科にも行った。
――『普通の』ファッションで外に出て、人目にさらすことに慣れよう。こんな私でも、そうしてみることで少しは『普通』に近づけるかもしれないから。
そう考えて勇気を振り絞り、めいっぱいおめかしをして出かけた土曜日。
「小佐田さん?」
ショッピングセンターで声を掛けてきたのは、よりにもよって彼だった。
これが、私と彼の二度目の接点。
振り向いた瞬間、彼が息を飲んだのが分かった。
「やっぱり小佐田さんだ。もしかして、と思ったけど。そういう格好もするんだ。意外っていうか……」
『似合わない』どうせそう言いたいんでしょう?
それが証拠に、彼はさっきから落ち着きなく目を泳がせている。目は口ほどに物を言うって、こういうことを言うんだ。
「……でも、似合ってるよ」
うそつき。
それならどうして、こっちを見て言わないの。なんでそんなに、ばつが悪そうな顔をするの。
そう思ったけれど、私はヘラっと笑って「ありがとう」と言うことしか出来なかった。
彼はまだ何か言いたそうにしていたけれど、私は用があると言ってすぐに帰ってきた。メイクを落として、着替えて、いつもの眼鏡に戻して、そうして思い知った。身の丈に合わないことは、するものじゃない。
この時着た服は、もうずっとクローゼットに仕舞われたままになっている。
外見に関しては、一歩進んで三歩下がってしまった。
けれど私は、外見がダメでも中身を磨けばなんとかなるかも、とまだ甘い期待を抱いていた。
そこで心掛けたのは、一日一善。
……だったのだが。
分かったのは、困っている人に声を掛けても、「余計なおせっかい」としか思われないことも多いということだ。お年寄りに席を譲ろうとすれば、「年寄り扱いをするな」と怒られてしまったし、財布を落とした大学生に声を掛ければ舌打ちされた。
もっとも、私がもっと美人だったなら、喜んで「親切」を受け取ってくれる人ばかりになるのだろうけど。特に男性は。
それでも懲りずに努力を続けようとした私を挫いたのは、やはり彼を巻き込んだ出来事だった。
いつもより少し冷え込んだ朝。私が乗り込んだ車両には、朝っぱらから電車の床に座り込み、飲んだくれる中年男性がいた。触らぬ何とやらに祟り無しとばかりに、皆が遠巻きにする中、
「ひゃっ!?」
一人の女子中学生が電車の揺れでふらつき、男性の足元にあったビールの缶を蹴飛ばしてしまった。缶から勢いよく飛び出た液体は、男性の靴とズボンをべっとりと濡らす。
「ご、ごめんなさ……」
「てめえ!」
呂律の回らないまま大声で捲し立てる酔っ払い男性に、女子中学生はすっかり涙目だ。酔っ払いの剣幕は凄まじく、見ているこちらまで身が竦んだ。けれど、今日の一日一善は実践するならここしかないと己を奮い立たせる。
「や、やめてください!」
思い切って前に出て声をかけると、酔っ払いがギロリとこちらを睨む。
「ああ?」
「そ、その子、謝ってるじゃないですか。もう、いいでしょう?」
「うるせー! ブスはすっこんでろ!」
的確な暴言を受けて固まる私に、酔っ払いは手にしていた瓶を振りかぶった。まずい、と思ったが、避けられる反射神経は私にはない。痛みを覚悟して咄嗟に目を瞑ったが、しかし予想した痛みはなく、ただ遠くでガラスの割れる音が聞こえた。
そっと目を開けると、見慣れた男子の制服の後ろ姿。――彼が、まるで私を守るかのように立ちふさがっていた。
「大丈夫? 小佐田さん」
「あ……。うん。ありがとう」
次の駅で、私と彼は駅員室に呼ばれ事情を聞かれた。ぎりぎり遅刻は免れる時間に解放されて、二人で学校に向かう。沈黙だけの時間が、電車の窓から見える景色とともに流れていく。
学校の最寄り駅の改札を抜けて、ゆるやかな坂道を登りながら、彼が唐突に口を開いた。
「さっきのこと、ずっと考えてたんだけど」
ぐっと息苦しさを感じるのは、きっと傾斜のある道を歩いているせいだけではない。彼の言葉はいつも、沈黙よりもずっと重く苦々しい。
「小佐田さんが優しいのは分かっているけど……何て言うかな、――あまり首を突っ込み過ぎない方がいいと思う。正直、見ていて危なっかしい。俺がいつも助けられるわけじゃないし。あ、でも俺が傍に居てもいいなら……」
「ごめんなさい」
気を遣って優しく注意してくれる彼に、耐え切れなくなった私は卑怯にも逃げ出してしまった。
それ以来、顔を合わせるのも気まずくて、なるべく彼を避けるように行動した。とは言っても、わざわざ避けるまでもなく、彼と私に接点など無かったのだけれど。
たった三度。これが、彼と私の接点のすべて。
彼が私を嫌うには、十分すぎるエピソードだった。
*
哀れ、私なんぞを姫として宛がわれた王子役の彼は、申し訳ないくらいにうろたえていた。ところどころ聞き取れないが、ぶつぶつと、誰に話しかけているのだと思う言葉を呟いている。「なんで、小佐田さん……」とか、「え、これ、記憶に残っちゃうんだよね」とか、「どうしよう、嘘、こんな形で、初めてのキス?」とか。震える声に、はっきりとした動揺が伝わってきた。
体は全く自分の意思で動かせず、目を開けることも、息をすることすらもできない。なのに、耳だけは塞ぐことができず気配も感じてしまうとは、なんと悲惨な状態だろう。彼が嫌がっていることを、こんなにも思い知らされてしまっている。
胸にちくちくとした痛みを感じると同時に、やってきたのは諦めだった。
――このまま目覚められなくてもまあいいや。こんな最期が私にはお似合いだ。人生の最後に、小人たちにお姫様みたいにちやほやしてもらえたし、幸せだったのではないだろうか。
そんなことを考え、現世への未練を整理していると、ふと、彼の呟きが止んでいることに気付く。
ふーっと長く息を吐くのが聞こえた後、彼が私の方に身を乗り出した気配がした。
「ごめんね、小佐田さん」
唇に、柔らかい感触が降ってきた。
白雪姫が目覚めるための、王子のキス。
だけどこれを私だけは、キスだとは思わないようにしよう。肩がぶつかったとか、足を踏まれたとか、その程度の接触事故と同じだと思おう。そうしないと、彼があまりに可哀想だ。私なんかに自ら触れただなんて、認めたくないに決まっているのだから。
『白雪姫』が目を覚ますのと同時に、それまで聞こえていた音がすべて止んで、体がどこかに引っ張られる感覚がした。
私の瞼が再び閉ざされる直前、瞳を潤ませ耳まで赤くなった彼の顔が見えた。
*
私は無事、自分の部屋の自分のベッドで、目を覚ますことができた。外はもう明るくなり始めていて、目覚まし時計も鳴る五分前だった。全く眠った心地のしないまま、いつも通りの朝を迎える。
駅の改札を抜け、学校へと続く緩い坂道を歩き始めたところで、数メートル先を彼が歩いていることに気付いた。視線を感じたのか、彼がこちらを振り向く。
私と目が合うと、彼は立ち止まり、ぽんと音が出そうな勢いで赤面した。「ううう、あ~」と、意味をなさない呻き声をあげた後、意を決したように私を呼び止めた。
「昨夜のこと、なんだけど。王子が白雪姫にした、というか、俺が小佐田さんにした、キ……キ……………………スのこと、だけど」
「不可抗力なのは分かってるから」
極力感情がこもらないように口にした言葉は、必要以上に無愛想に響く。
彼は私が怒っていると思って焦ったのか、勢いよく腰を折り、頭を下げた。
「本当にごめんね小佐田さん。忘れてくれていいから」
忘れてくれていい、と私に言いながら、本当に忘れたいと思っているのは彼の方だろう。戻ってくる直前に見た、潤んだ瞳を思い出す。泣くくらい嫌だったのだから、忘れたいのは当然だ。
ところが彼は、頭を下げたまま、こう続けた。
「でも、俺は忘れない。初めてだったし……きっと一生、忘れられないから。それだけは許して」
赤い顔のまま、走っていく彼の後ろ姿。
いつも通りだったはずの朝。何かが変わるような予感がした。