表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

キスを数え切れないほどに

作者: 壬生一葉

「キスって、浮気に入るかな」


そう言って田坂は、夏希にキスをした。

夏希は、己の唇に触れた柔らかな感触に気取られた。





まるで、初めてのキスの様だった―――――





   ◇




田坂には、エミリと言う可愛らしい彼女が居た。純粋で、人を疑うなんてまるで知らなくて、田坂が言う事は真実で、正義だと思う程彼に心酔している。

そして田坂と夏希は、高校に入学し知り合った気の合う友人だ。加えて言うなれば、夏希には、夏希に想いを寄せる川畑と言う男子学生が極近くに居た。夏希にとって川畑は特段言う事の無い男だった。


夏希の話に耳を傾け、否定の言葉も無く、只管に優しい。恐らく、夏希にだけではなく他者にも同等なのだろう。其れが川畑なのだ。

夏希は、其れが悪いとは思わない。寧ろ、付き合うには申し分ない。

自分みたいに面白味のない人間に興味を示し、好意を抱き、その先を求める彼は稀有な男なのかもしれない。

悪くは無い。だが、特別に良くも無い。

夏希の川畑に対する心象はその程度のものだ。


「夏、今日部活何時に終わる?」

「んー…今日は集まり悪い日だから、そんなに遅くならないと思う」

「そっか…早く帰っちゃう?」


眉を下げ少し寂しそうに夏希を窺う川畑は、”待ってて” とは言わない。夏希も、川畑の為に自分の予定を変更したりしない。


「うん、本屋にも行きたいから」

「そっか、了解。じゃぁ明日」

「うん、川ちゃん又ね」

「じゃーね」


夏希は川畑に軽く手を挙げ別れ、”漫画研究会” の部室へと向かう。会員六名の学校から出る援助は僅かなサークルで、漫画を描く者も居るが、他はイラストを描く程度のレベルだ。夏希は其処の『漫画』を描く人間だった。投稿の経歴も有る、結果は入賞間近のAクラス。逆に微妙な立ち位置と言って良いだろう。

そこそこ上手い割に、デビュー出来るほどでは無い。


美術部が使用する美術室の隣、美術準備室はがらんどうで、予想通り漫研のメンバーは誰も居なかった。夏希は何時も一番乗りの模範会員だ。

夏希は定位置、窓を背にした場所に座り白無地のノートを広げた。次回作の物語を起こしている途中なのだ。


主人公は、高校生。気になる同級生が居るが、その彼には既に彼女が存在する。

見ているだけの、切ない恋心を抱く主人公の成長を描くストーリーだ。


何故だか筆が進まない。夏希は使い慣れたシャープペンを大判の机に置いた。


何故だろう。描きたい意欲が無い訳では無い。結末も決まっている。主人公が好きな男の幸せを願いながらも、前を向くと言うまぁ王道的な結末だ。こういった類の話を書いた事も有る。難しくは無い筈なのに、何故か今日は上手くいかない。




好きな男の幸せを願うだなんて、そんな献身的な恋を、『私』は望むだろうか。




答えは否だ。

夏希はその様な愛を施すタイプでは無い。恋に奔放でもなければ、積極的でも無い。だが、指を咥えて傍観するタイプでも無い。『好き』なのだから、傍には居たい。言葉を交わしたい、触れてみたい。つまり、欲求は有る。

好きな男を相手の女性から奪う事を良しとはしないが、彼の幸せを穏やかに見つめていられる程、夏希は達観していない。



ノートに書き殴った台詞の数々を、手に取ったシャーペンでぐしゃぐしゃと消し去る。



今日は物語を描くに適していない日だ。

夏希はノートを見たまま暫く動かなかった。数分後、彼女は右手の指で自身の唇に触れた。



田坂が触れた唇。

数え切れないほど、重ねたキス。


軽い其れから、深く繋がった剥き出しの粘膜。官能を呼び起こす器官は、田坂の味を知った。



決して自分のモノにならないと解っているから欲するのか。

欲したモノが、既に別の誰かの所有物だったのか。


どちらが先だったか。




「あぁ…」


そうだ、もう田坂と一週間もキスをしていない。だからだ。

だから、創作意欲が湧かないのだ。心が燃え上がる事が無いのだ。感情が、昂らないのだ。


田坂がどんなつもりで夏希にキスをしているのかは、当人しか与り知らぬ事。

当事者と言える夏希とて、知りはしない。知りたくない訳では無いが、事実を知るのが怖いのも、事実。




唇に触れていた指を滑らせると、僅かな引っ掛かりを覚える。


”乾いている”


夏希はそう思った。唇も、満たされる事の無い心と言う器も。




「居る?」

そんな言葉と共に、件の田坂が美術準備室にノックもせず入室して来た。淡い期待を抱いていた夏希の胸は鼓動を速め、彼から目を逸らす事をしなかった。

田坂はそんな夏希を捉え、後ろ手でドアを閉めるとカチャリと施錠をし、勝手知った室内の明かりを消した。


夏希の背にはオレンジ色の空。二人の行く末を照らすには十分な採光だった。


「漫画、描いてた?」


夏希は首を横に振った。彼女の直ぐ近くまでやって来た田坂は、彼女の手元に在るノートに視線を落とした。黒く塗り潰された白いページが夏希の心情を雄弁に語っている。


「スランプ?」

「うん」

「どうして?」

「どうして?」


スランプかと田坂は訊き、夏希は肯定したのに、田坂は更に”どうして” と訊ねる。その質問の仕方が彼らしくない。何時もの彼なら「そっか」とそっけなく言い、夏希の描いたものに目を通すのだ。

夏希は田坂のそんな所を好ましく思っていた。

夏希の奥底なんて知らなくても構わないと言う態でいても、田坂は夏希の傍を離れようとしない。その何気ない優しさが夏希の内側へするりと入り込んできた。


だが、夏希が乾いている今日に限って、静観を貫かないそんな問い。


「田坂」

「ん」


田坂がノートから顔を上げ、軽い返事をする。


夏希は思う。田坂は知っている。スランプの理由を、知っている・・・・・

承知した上で、其れを夏希の口から聞き出そうとしているのだ。


「狡い」


夏希が抑揚のない調子でそう言うと、田坂は否定も無く微苦笑を漏らす。


田坂が自分を真っ直ぐに見上げてくる夏希から視線を外す事はない。彼女から向けられる熱の籠った其れに応じる事は、田坂にとって心地の良いものなのだ。



田坂にとって、夏希は気の合う友人だった。

彼女は漫画を描いているが、此方が辟易する様な知識をひけらかす様な人間では無かったし、漫画の好みが似通っていた。

ただ単純に彼女が漫画を描いている姿を見たくて、踏み入れた美術準備室ココ

自分オレの存在等、取るに足らないと言う集中力で彼女はプロット、そして、いとも簡単に女が好きそうな所謂”少女漫画” の登場人物を描き上げた。


彼女が気付いているのか不明だが、物語の人物が微笑んでいる顔だと、生み出している彼女自身もほんの僅か口元が綻ぶ。怒っている顔を描けば、僅かに眉根が寄る。


教室に居る時の夏希は、いたって普通だ。決して女の中心になる様なタイプではない友人達とグループになり、テレビの話だとか漫画の話だとかをしている。普通に笑い、普通に困り、普通に憮然とする。

普通普通普通だ。


だが、漫画を描いている時の夏希は違う。突出している気がする。

上手い下手ではなく、ペンを持っている彼女自身がとても生き生きとしているのだ。


田坂には、エミリと言う可愛らしい彼女が居る。勉強は得意ではないが、田坂の為に可愛くいようと努力を怠らないし、とても従順だ。たまの我が儘も可愛い。けれど、何よりも『彼氏』を優先する『彼女』の核となるものが時々解らなくなる。

可笑しな言い方をすれば、エミリは田坂の彼女として振る舞っている。田坂に見合う様な『彼女』を演じている。高校と言う小さな世界で、『彼女』と言うステータスを持つ事で、自分の矜持を維持している。田坂はそんな気がしてならない。



そんな時、夏希の本来の姿を知った田坂は、誘惑に抗えなかった。


凛とした佇まいでノートに向かう彼女の、滑らかな肌に触れたいと思った。

夢へとひたむきな彼女の瞳に、映りたいと思った。自分の存在を知らしめたいと思った。


気付いたら。


気付いたら手を伸ばし、彼女の頬に触れていて、彼女がゆっくりと視線を上げた。田坂は引きつけられる様に顔を寄せ、夏希にキスを一つ。


夏希の唇は、柔らかだった。其れは田坂が今まで知らなかった唇の、感触だった。

エミリの、女性にしか似合わないフローラルの香り・・とは違う、夏希の石鹸の優しい匂い・・が田坂の鼻腔を擽り、一瞬の感動が胸の中に広がった。


ぶわっと突風が巻き起こるみたいに―――――。






『キスって、浮気に入るかな』


答えを夏希に求めた田坂は、心の中で自嘲する。罪の、有無を、相手に委ねたのだから。

あの時、夏希は黙し断罪は免れたけれど、モラルから言えば、田坂はギルティだ。彼には、『恋人』と呼ばれる女性が存在している。

そして、キスを受け入れる夏希は幇助に値する。因って、夏希もギルティなのだ。






「絵が描けない理由」



その場で立ち上がった夏希は、目の前に立つ田坂の首に下げられた紺のネクタイを少し強めに引く。田坂の顔がぐっと近付いた。近付いて、数え切れないほど重ねた唇を、今度は夏希から押し当てた。驚いた様に目を見開いた田坂だったが、歓喜が格段に上回る。


「田坂が私に、キスをしないから」


田坂を望んでいたと夏希は白状し、一丁前の欲求を彼にぶつけた。イニシアティブは田坂に移り、キスは激しく濃厚なものへとなった。田坂の腕が夏希の背と腰に回り、自身の身体へと引き付け、夏希は田坂の胸に手を這わせる。


夏希の身体が横たわれる程の、一枚板の机。田坂の手に依って優しく其処へ、縫い止められた夏希。

夏希は田坂を見上げ、田坂は、狡い、けれど確かに在る感情スキを乗せ彼女を愛おしそうに見下ろす。


キスをしたから、彼女に夢中なのか。

彼女に惹かれたから、キスをしたのか。


どちらが先だったか。




田坂はゆっくりと上体を折り、彼女との距離を縮める。



夏希は、好きでもない男にこんな事を赦す女では無いと、田坂は思っている。もしそんな女だったとしたら、クラスメイトの川畑は既に彼女を『恋人』と言って、彼女を放さないのだろう。

だが夏希は、今、自分の接吻に応えている。


田坂は、自惚れる外ない。


身体は正直に喜びに打ち震え、夏希の皮膚を唇で辿り、夏希の甘美なる吐息を喰らう。


「田坂」


掠れた声で夏希は田坂を呼んだ。田坂は彼女の首筋に顔を埋めたまま、動きを止め彼女の言葉を待った。

拒絶で無い事を祈って。


「田坂、キスは…浮気に入るのかって、聞いたよね」

「……聞いた」


田坂は、今この状態で夏希に糾弾されるのかと、瞼をぎゅっと落としたまま身体を硬くした。其れを具に感じ取ったらしい夏希は、彼の杞憂を取り除くべく、ふっと笑いの様な息を零す。


「田坂、私達の犯している事は」

「オカシテ、いる事は」

「背徳だけれど…私は此れが、浮気だとは、思わない」







オレンジ色だった空は紺青色へと変わり、田坂と夏希は深い黒闇に呑まれていった。











評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 緩い頭が空っぽの女の様が良く描けてて良かった。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ