彼女が嫌う変化
「お帰りなさいませ」
その夜、屋敷に帰ったのは深夜に近い時間だった。
クレアはわたしを見た瞬間、ほっとしたように微笑んで出迎えてくれた。わたしも彼女の顔を見たら安心して、つい彼女に抱き付いた。
「相変わらずでいらっしゃいますね!」
クレアは慌ててわたしを押しのけて、軽くわたしを睨みつける。「とにかく、無駄に元気なのは解りました。その元気なままの勢いで、湯浴みの準備ができてますのでお入りください」
「はいはい」
わたしはクレアの頭に手を置いて、ぐしゃぐしゃと彼女の髪の毛を掻き回した。こういうのは、クレアにだけしかできない。ここのところ、他の人間にこうされてばかりだったので、自分でも誰かにやってみたかったというのがあった。
いつかサイモンにもやり返してやろう。
そう考えていると、クレアがわたしの手を乱暴に振り払い、冷ややかな目つきでわたしを見上げていることに気づいた。
「女たらしと言われますから、こういうのは女性にはやらないほうがいいと思います」
「男相手にやれって?」
「……それも嫌ですね」
クレアが急に渋い表情で唸った。
「エアリアル、帰ったの?」
そう言いながら、二階から階段を降りてくるお母さまの姿。「食事は済ませてきたのよね?」
お母さまはきっと、休む直前だったのだろう。夜着に着替えていたし、わずかに目が眠そうだった。それでも、わたしが帰ってくるまで起きていてくれたというのが解る。
「うん。食べてきたよ。疲れたからすぐに寝るけど、お母さまもゆっくり休んでね」
そう声をかけると、お母さまは微かに微笑んで頷いた。そして、また階上へと戻っていく。
平穏な夜。
いつもと変わらない夜の光景。
お風呂を済ませ、自分の部屋に戻ると、ベッドのサイドテーブルの上に置いたままの檻からくーちゃんが動く音が聞こえてきた。
檻の隙間からくーちゃんが必死に前足を伸ばして、かりかりとテーブルを引っ掻く。
檻から出たいのだろうとは思う。わたしが檻に手を伸ばすと、くーちゃんが甘えるような鳴き声を上げた。わたしの指先に前足を乗せ、くるくると喉を鳴らし続ける。
「お腹すいた?」
そう声をかけつつも、こうして鳴き声を上げるのは食べ物が欲しいからじゃないというのも解っていた。
レティシアそのもの。
グレイはそう言った。
こんなにもわたしに懐いているのに、やっぱり危険な生き物?
「遅かったね」
鏡の中からそう声が聞こえても、わたしは自分でも意外なほど落ち着いていた。
それでも、気分が高揚したのは間違いない。彼にはたくさん訊きたいことがある。
わたしは鏡に視線を投げ、そこに映った彼――エアリアル・オーガスティンの短い髪の毛の色が、金色ではなくて栗色になっているのを確認して首を傾げた。
「……逃亡途中ってわけ?」
わたしはその髪の毛を見つめたまま小さく言うと、彼はその髪の毛に手を当てて苦笑した。
「金髪は目立つからね。金髪の美少女を探している捜査官が近くにいるらしいし」
「そのまま捕まってくれていいのに」
わたしはそう返しながら、くーちゃんの檻に手を伸ばした。
檻の魔法の呪文を詠唱する。また新しい檻をその上から作る。そして、またもう一度。
すると、檻はすっかり箱となってくーちゃんを取り囲んだ。光り輝く箱に包まれて、中の様子は全く見えない。それに、くーちゃんの鳴き声も全く聞こえなくなった。
念のため、もう一度その上から新しい檻を作って、その箱を持ち上げて部屋の外の廊下へと置いた。それから、また鏡の前に戻る。
とにかく、落ち着こう。
わたしはシャーラに教えてもらったお呪いも唱え、深呼吸をしてから改めてグレイを見つめ直した。
「それで、今回の用は?」
そう訊いたところで、グレイの表情に気が付く。
少しだけ意外そうにわたしを見つめている彼。困惑しているようにも思える。
「何よ」
重ねてそう言うと、グレイは我に返ったように息を吐いた。
「いや」
彼は一瞬の逡巡の後、小さく声を上げて笑った。
よくよく観察してみると、彼のいる部屋は以前とは違う場所のようだった。薄暗いのは相変わらずだったけれど、部屋の家具などが以前とは違う。以前もそんなに家具らしい家具は少なかったけれど、今はほとんど何も置いていない。壁紙など貼っていない木の壁は随分傷んでいるようだった。
前にいた家とは違う。
何となくそう思った。
「古代言語の守護魔法の一種だよね、それ」
やがて、グレイは鏡に近寄って、その手を鏡に当てた。「読み取れないところがあった。もう一回、やってくれないかな」
わたしは少しだけ悩んだものの、こちらも鏡に近づいて呪文を詠唱した。呪文自体は短い。ただ、多少複雑なだけで。
「いいね。これは使えそうだ」
彼は真剣な眼差しでそれを観察し、小さく囁く。わたしはグレイのそんな様子を見て、こう言ってみた。
「教えたんだから、あなたもわたしに何か返して欲しい。今、あなたはどこにいるの?」
「盛大な後出し交換条件をありがとう」
彼は苦笑した。それから、わたしの質問を無視して続けた。
「防御魔法は学園で習った? 司法局からは?」
「あのね」
わたしがため息交じりに口を開こうとする前に、彼は小首を傾げて笑う。
「その魔法の後に、こう続けるといい。同じ古代言語だけどね」
彼はゆっくりと魔法の呪文を唱えた。わたしに読み取れるように、酷くゆっくりと。
グレイのいる薄闇の中に浮かび上がる古代言語。青白い文字と記号が交錯していく。その呪文も短かった。それでも、完成した瞬間に彼の肉体を薄い皮膜のようなものが覆い囲んだ。
「身を守るのに役に立つよ」
「もう一回やって」
わたしが顔を顰めつつ言う。てっきり断られるかと思ったら、彼はもう一度呪文の詠唱をゆっくりと繰り返してくれた。
――意外すぎない?
わたしは心の中でそう思う。自分の驚きを彼に読まれないように、必死に平静を装いながら。
「レティシアという魔法使いに教えてもらったの?」
「不本意ながら、僕が知っている魔法は全てそうだ」
「不本意、ね」
「師としては優秀なんだろうね。化け物ではあるけれど」
「化け物のそばにいるあなたは化け物ではないの?」
すると、彼は鏡から数歩下がってわたしを見つめ直した。そして、多分彼の癖なんだろうけど、唇をその指先で撫でながら考え込む。
「僕より君のほうが気になるよ。この肉体に入ってから驚いたけれど、すごい魔力を持ってるよね」
「魔力?」
「そう、君のこの肉体だよ。だからレティシアに目をつけられたのか? 君の家系には有名な魔法使いでも存在する?」
「それはないわ」
わたしは眉間に皺を寄せた。「家系図は存在するけど、わたしの祖先に魔法使いはいない。よくある一般家庭でしょうね」
「一般家庭か」
彼はくくく、と笑いながら額に手を当てた。
「それがおかしい?」
「おかしいと思うよ」
彼はそこで奇妙な感情を込めた目をわたしに向ける。「本来なら、絶対に関わり合うことのない僕らだったのに」
「何だか、雰囲気が違う気がする」
わたしはつい、そう呟いた。「最初のイメージは、あなたは凶悪な殺人犯だと思ったのに」
「正解だよ」
「……先生を殺したの?」
わたしはギリアム先生のことに触れた。「あれから行方不明になってる」
「そうだね」
彼はあっさりと頷いた。「でも、君は知らないほうがいい。一般家庭の平凡な女の子なら、知らなくてもいいことだ」
「皮肉?」
お呪いの効果なのだろうか、わたしは冷静に続けた。「もう、平凡な女の子じゃないもの」
「確かに」
彼は冷静だ。以前はあったはずのわたしをからかうような雰囲気が、どこかに消えているのが不思議に思える。
どう話を進めれば正解なんだろう。わたしが悩んでいる間に、グレイは話を続けた。
「使い魔に心を喰われるというのがどんなことなのか、解った気がするよ」
「どういう意味?」
「僕は彼に会ったけれど、会うべきだったのかそうでなかったのかは今でもよく解らない。彼がレティシアの従順な下僕かどうかと訊かれれば、確かにそうなんだろう。目的が一致したというのかな? もともと、そういう素質があったということなのかな」
「意味が解らない。わたしに解るように説明して」
「君は彼と会ったことがある? どんな人間だったか解る?」
「解らないわよ。会ったのは二回くらいだもの。ただ、真面目そうな人だった。わたしが――勉強も剣術も頑張りたいと言ったのを聞いた時、凄く褒められたことは覚えてる」
「なるほどね」
彼は苦笑した。「だから、商売女を嫌ったのかな。真面目だったからこそ、下賤な職業を嫌うというか」
「下賤……」
わたしは顔を顰めた。
レベッカのお姉さんのことを思い浮かべる。
「……やりたくてやってた職業じゃない人だっている」
「解ってる。ただね、世の中にはどんな理由があれ、ああいう職業をやっている人間を蔑む人間がいるということだよ」
わたしはただ、沈黙したままグレイを見つめていた。
グレイは酷く明るく続けた。
「君のような恵まれた環境に生きる人間は、どう思っているのか解らない。でも、売春婦みたいな人間は、人間扱いされないこともある。害虫くらいにしか思わない人間もいるんだ。そして、彼がそうだった。おそらく、女たちを殺したのも害虫駆除としか考えていなかっただろう。しかし、解剖は楽しかったと彼は言った」
「……楽しかった?」
「そこがおかしいだろう? 害虫駆除くらいなら、作業的にやればいい。しかし、彼はそれを楽しんだ。おそらく、喰われたんだろう。レティシアの使い魔に、心の中にあった倫理的な部分とかをね」
グレイの笑顔は作り物のようだった。
わたしは彼のその笑顔の真意が知りたくて、ただ彼を観察する。
「僕が彼を殺したこと、レティシアはそれを知っても怒りはしないだろう。いつだって、彼女にとっては下僕というのは取り換えのきく消耗品だ。彼程度の殺人鬼なら、簡単に作れる。しかし、僕もそろそろ彼女にとっては危険因子だな。僕は自分の意志で彼を殺した。殺したかったから殺した。それが必要だったから殺したわけじゃない」
「それはどういう?」
「レティシアは感情とか欲望といったものに流される行為が嫌いだ。だから、僕みたいな計算で動く人間を好んだ。一番合理的だったからだろう。だから本当は、僕は彼を生かしておくべきだったんだろう。人間を解剖して、研究材料を提供する人間は、まだ利用価値があったはずだ」
彼が何を言いたいのかよく解らず、わたしはただ困惑していた。
おそらく、彼もわたしの困惑に気づいていただろう。楽しげに笑いつつも、彼自身、言葉選びには悩んでいたようだった。
「僕の母親に関する記憶は、男に買われていく背中、というのが一番多くてね」
ふと、グレイは笑みを消した。
彼はわたしから目をそらした。
「そのくらいしか記憶がないとも言える。商売女、それとも愛妾、その辺りはよく覚えていないけれど。売春婦を殺して、生きながら解剖することを楽しんでいた彼を生かしておくのは嫌だった。これは自分でも意外だけれどね、きっとレティシアが嫌う変化でもある」




