記憶を取り戻せば
「マチルダお姉さまと相談したんですけど、今夜、一緒にでかけませんか」
赤い手帳の上で、小さなエリザベスがそう口を開いたのは、さらに数日後のことだった。
学園にいく少し前の時間帯で、わたしは制服に着替え終わったところだ。荷物を持って出かけるまでそれほど時間がないので、あまり詳しい話はできそうにない。
「わたしは何でもいいよ。レベッカのこと?」
「はい。まあ、それだけじゃありませんけど」
「色々訊きたいけど、今夜会ったら話せるかな。わたしも相談したいことがあるの」
「何ですか?」
「今は時間がないかな。そろそろ屋敷を出なきゃいけないから」
「解りました。マチルダお姉さまに伝えておきます。授業が終わった頃に迎えに上がります。食事は外で済ませるとご両親に伝えていただけますか?」
「了解」
わたしは彼女に微笑みかけてから手帳を閉じた。外食なんて滅多にしないから、普通だったら浮かれるものなんだろうけど、状況が状況だからだろうか、緊張しかしなかった。
授業が終わって、サイモンが「図書室にいかないか」と声をかけてきた。でも、それを「用事があるから」と断って校門へと向かう。
すると、家紋も何もない黒い馬車の前に、エリザベスが立ってわたしを待っているのが見えた。
エリザベスが無言で馬車に乗るように促したので、わたしも無言でそれに従う。すると、中にはマチルダも乗っていた。
「まずは移動しましょ」
彼女は長い足を組んで座っていて、静かに微笑みかけてくる。わたしはそれに頷き、座りながら訊いた。
「レベッカに会いにいくんですよね?」
「そう。他の捜査官が彼女の対応をしてるんだけど……どうも上手くないのよね」
「何がですか?」
わたしが困惑して眉を顰めていると、彼女は苦笑した。マチルダの横に座ったエリザベスが身を乗り出してきて言う。
「レベッカさまが精神的なショックで寝込んでいたので、こちらも落ち着くまで待っていたんです。さらに彼女にショックを与えないように事件の情報を小出しにしているうちに、引き抜かれそうになってしまいまして。例のジェンキンスという男性に、ですが」
「え? 何それ」
「つまり、就職ってことですかね。ウェクスフォードの特待生ということもありまして、目をつけられたんですね、きっと」
就職?
わたしはぽかんとしてエリザベスを見つめていた。それから、慌ててマチルダに視線を投げて口を開く。
「あまりよくない仕事をしてるんじゃなかったですか? あのジェンキンスって人」
「まあね」
マチルダが頷く。「表向きはそこそこまともに見えるけど、時期がくればうちの筋肉が動く予定だし、ある程度は潰すつもりなのよ。つまり、違法な部分だけはね」
「筋肉……」
「正直に言えば、ああいう連中はこの街には必要ではあるのよね。治安をこれ以上悪くさせないという意味でも。でもね、さすがに未成年がいいように利用されるのはどうかと思ってね。とにかく、あなたにあの子を言いくるめてもらって、学園に戻るような気にしてもらえたらと思ったの」
わたしはしばらくの間、無言で彼女たちを見つめていた。
思考能力が追い付いていかない。わたしが彼女を言いくるめる?
「……でも、意外だわ」
マチルダの目は明らかにわたしを観察しているものであったけれど、困惑もしていた。「エリから聞いた時は、あなたはちょっと……様子がおかしいという話だったから」
「様子が?」
「いえ、あの!」
エリザベスが申し訳なさそうに眉根を寄せ、情けない声を上げた。「もしかしたら、わたしが心配しすぎたのかも! エアリアルさま、何だかほっといたら危なさそうだったし! えと、何て言うか……ええと、その!」
――ああ。
わたしはそっと苦笑した。
確かに、ちょっとあの時――エリザベスと話をしていた時は、情緒不安定というか何というか。精神的に変な感じだった。
「心配かけてごめんね」
そうエリザベスに小さく言ってから、わたしはマチルダに顔を向ける。「色々考えることがあって。何だか、もうどうにでもなれ、みたいな感じの時だったんです。わたしには何もできることがないなあ、って思ったら嫌になってしまって。確かに、ちょっと危なかったです。バカバカしく思えるかもしれないけど、あんな些細なことで簡単に……生きてるのが嫌になるとは思わなかった」
マチルダもエリザベスも、僅かに鋭い視線をこちらに向けている。だから、わたしはことさらに明るく続けた。
「でも、今はそんなことは考えてないです! 確かにわたしは何の役にも立たないし、何もできることはないけど、でもそれは仕方ないことだし」
「ねえ、エアリアル」
マチルダが疲れたように髪の毛を掻き上げ、ため息交じりに言う。「あなたはまだ学生なのよ。できないことばかりというのは当たり前なの」
「でも、考えてしまうじゃないですか」
わたしは小さく応えた。「エリザベスなんて、わたしより年下なのに捜査官でしょう? 凄い能力を持って働いてる。わたしとは違う」
「それは育った環境も、その後の教育環境も違うからよ」
「解ってます」
「でもね」
「あの」
わたしは必死にマチルダの台詞を遮って続けた。「相談というのは、わたしにできることは何か、ということなんです。今のわたしにできるのは、本当に限られたことです。グレイを捕まえるために何ができるか、それを考えて……意見を聞きたかったんです」
「意見?」
「はい」
わたしはマチルダの目を正面から見つめ、できるだけ強い口調になるように意識しながら続けた。「記憶を取り戻したいんです」
グレイに誘拐された時に何があったのか。
それは未だに思い出せない。
司法局に言われるままにカウンセリングを受けてきたけれど、最近はそれもさぼりがちになってしまっていた。主治医であるハワードはいつも優しくわたしの話を聞いてくれるけれど、結局はそれだけだ。だから、自分の中に変化など感じることができず、彼のところに定期的にカウンセリングに通うことすら意味を見失いつつあった。
記憶を無理やり思い出すのは危険だという説明に納得していたけれど、こうして考えてみれば、失った記憶を取り戻すのが一番グレイの逮捕の役に立つような気がする。
彼がその時、わたしに何を話したのか。
その会話の中に、何か手がかりがあるかもしれない。
グレイと鏡の中でだけ会話していても、それほど情報は引き出せない。今の状況はあまりにもグレイに有利で、わたしは後手に回っているからだ。
「グレイは上手く逃げ続けていますけど、このまま放っておいたらいけない気がします。事実、ギリアム先生はどうなったんですか? グレイが何かしたんじゃないですか?」
「……それはね」
マチルダが唸った。
彼女は明らかに困惑していた。唇を噛んで、どう言おうか悩んでいるようだ。
だからわたしは重ねて言った。
「わたしの肉体を使って、誰かを殺させたくないんです。だから、少しでも何かできることを考えて……。記憶を取り戻すために、協力をしてもらえないだろうかって」
「記憶に関してはハワードが消極的でね」
やがて、マチルダが口を開く。「早い話が、グレイの二の舞になるんじゃないかってことなのよ」
「グレイの?」
「そう。グレイが身柄を確保された時、あのまま何もしないでいたら今ごろは更生していた可能性が高いの。普通の少年として生活できたんじゃないか、ってね」
「普通……」
「無理やり記憶を取り戻させたことで、彼は殺人犯になってしまった。良心の欠片もなく、簡単に人間を殺すようになってしまった。それがあなたの身にも起きるんじゃないか、ってこと」
「まさか」
わたしはつい笑ってしまったけれど、マチルダの真剣な表情を見て、それが本気の台詞であることに気づいて笑みを消した。
「あなたが見た光景は、おそらく酷いものだったと思うのよ。ハワードがカウンセリングの途中で、少しだけあなたの記憶に触れたと言ったの。そこで、死体らしき映像が見えたみたいでね。ただ、それがあまりにも……問題のある光景だと彼は判断したらしいわ。記憶を取り戻さないほうが安全だと」
「でも」
「確かに、今のあなたはある意味、安定してる。こうして普通の生活を送っていけてるわけだしね。記憶を取り戻したら精神的に問題が起きるかもしれないというのは可能性にしかすぎないのは確かだけど、でも……」
「じゃあやっぱり……わたしには何もできないんですか?」
わたしは茫然と呟いた。
この数日間、よく考えたことだ。
記憶を取り戻して、何か捜査の協力ができたら、と。
自分がやれることに限界を感じたら、何かできることを探す。それは、サイモンの言葉ではあったけれど、納得できる言葉だった。
でも、それもダメなんだろうか。あれもダメ、これもダメ、他に何があるの?
「ハワードに相談してみましょう」
やがて、マチルダが立ち上がり、わたしの隣に腰を下ろした。そのままわたしの肩を抱いて、慰めるように言う。
「わたしはあなたのこと、好きよ。大変なのに、頑張ってくれてると思う。だからこそ、無理をさせたくないというのも理解して欲しいわ」
本当に?
わたしは疑念を抱いた。
わたしを好きになってくれる人はいる?
わたしにそんな価値はある?
どうしてこんなふうに思うの?
どうしてこんなにも自信がないの?
何でこんなにも自分に価値がないと考えるの?
――助ける価値など。
鈍い頭痛が襲ってきて、わたしは小さく呻いた。何かを思い出したような感覚があるのに、すぐにそれは消えてしまう。
「レベッカを引き留めてくれる?」
やがて、マチルダがわたしの耳元で囁いた。「ジェンキンスに金で買われる前に、何とか阻止したいのよ。あの子は多分、司法局の人間の言葉は受け入れられないはずだから」
わたしはぼんやりとマチルダの横顔を見やる。
彼女はさらに言った。
「『友人』の言葉なら聞いてくれると期待してるの」
――友人。
確かにわたしたちは友人だけど。
「あなたならできるわよ」
マチルダはそう簡単に言う。そして、ただ黙り込んでいたわたしを見やり、ニヤリと笑ってわたしの髪の毛を掻き回す。何となく他人事のようにそれを受け入れていると、マチルダが舌打ちして頭を軽く叩いてきた。
「本当、難しい子ね、あなたって!」
「……痛いです」
わたしが自分の頭を押さえて彼女を睨みつけると、マチルダが不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「とにかく、レベッカの件が終わったら、ご飯を食べながらゆっくり話しましょ。エリばっかり仲良くなってるみたいだけど、わたしもそこに混ざるからね!」
今一つ、マチルダという人がよく解らない。
わたしはぼんやりとそんなことを考えていた。




