この肉体では早すぎる
レティシアの微笑は作られたものだ。本当に笑っているわけではない。
そういった時の彼女は、僕が求めている返事を絶対に与えてくれない。
「エアリアル」
僕はエアリアルに目をやって、つい責めるように言ってしまった。「君がお菓子を渡したのか」
「違う……わたし」
エアリアルが虚ろな目のまま、力無く首を横に振った。震える手で口元を押さえながら、まるで吐き気と戦っているかのように喉の奥を鳴らした。
「勝手に食べたのなら、本人の責任だろう」
レティシアが酷く優しい手つきでエアリアルの頭を撫でた。「しかし、お菓子を食べずに残しておけば、それを見つけた子供たちがどうするかなど、簡単に予想はついた」
「わたし……そんなつもりじゃ」
エアリアルがぼろぼろと涙をこぼし、必死に声を絞り出した。「グレース……グレースを助けてください。お願い」
そこで急にエアリアルは顔を上げ、レティシアに向き直った。僅かに残っていた正気の光が、その瞳に浮かんでいる。
「何でもします! だから、グレースを助けて!」
「……それを助けられると?」
レティシアは仮面のような顔をエアリアルに向けたまま、静かに言った。
僕の腕の中にいるグレースの身体がさらに跳ねる。
「苦しいだろうな、殺してやるか?」
レティシアはそっとエアリアルの頬に手を当てると、無理やりその顔をグレースのほうに向けさせる。途端、エアリアルの表情が苦痛に歪んだ。
「お前の責任だ。お前がお菓子を隠しておけば、この娘はこうなることもなかった。こんな苦しい思いをしなくても済んだ。生きていられた。つまり、お前がこうさせたのだ」
「……わたし……わたしのせい……」
ゆっくりとエアリアルの表情に変化が現れた。苦痛、後悔、あらゆる感情が消えていく。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
何の感情も含まない声が繰り返された。明らかにエアリアルは追い詰められ、心が壊れていこうとしていた。
「責任を果たせるか?」
レティシアの声が優しく、そして冷たく響く。レティシアの手には小ぶりの短剣が握られていて、それをゆっくりとエアリアルの手に押し当てる。
「楽にしてやるといい。その娘のためだ、やれるだろう?」
エアリアルはのろのろと自分の手に握らされた短剣を見下ろした。何の感情も見えない瞳と、流れ出る涙。
「……助けて……」
その声は、ただ空虚に響いた。
「レティシア様」
僕は何とか声を上げた。震えないようにするだけで必死だった。
「僕が、やります。グレースは僕の大切な友人です」
僕はエアリアルのほうを見ず、ただレティシアを正面から見上げる。それから、グレースを見下ろして、血に濁った瞳が僕を見上げているのを確認する。
呼吸すらつらいのか、彼女は喉をひゅうひゅうと鳴らしながら赤い涙を流していた。
――苦しい、だろう。痛いだろう。
でも、殺したくない。
殺したくないのに。
「グレース」
僕は彼女の頬を撫でた。血で汚れた肌。あんなに――あんなに綺麗だったのに。
「ご、め」
グレースが必死に何か言おうとしている。それをゆっくりと押しとどめ、僕は彼女に微笑みかけた。
気づけば、レティシアが僕の横に立って、短剣を差し出していた。それを一瞬だけ見つめた後、受け取った。
「ごめん、グレース」
僕がそう言うと、彼女の苦痛に震える腕が上げられ、僕の頬にその手が添えられた。
こと切れたグレースの姿を見下ろし、僕はただ自分の呼吸音を聞いていた。
血で汚れた自分の手、そして短剣。
「よくやった。お前はなかなか有望だ」
レティシアの声が聞こえたけれど、僕はもうそんなことはどうでもよくなっていた。彼女に対する嫌悪感も、行き過ぎると無関心になるのだろうか。
「お前はどうにもならん」
気づけば、レティシアはどこか楽しげな口調でエアリアルの耳元で囁いている。「お前は何もできないのだ。助けを求めても誰にも助けてもらえない。助ける価値もない。それがよく解っただろう」
「……わたしには」
エアリアルの目にはただ暗い光だけがあった。涙もとまっている。
「まあいい。もう充分だ。お前は一度、家に帰してやろう」
そう言って、レティシアがエアリアルの額に手を置いた。何か魔法の呪文の詠唱を始めたようだった。それは簡単に終わり、エアリアルの肉体が床に倒れ込みそうになるのをレティシアは抱き留め、満足そうに息を吐いた。
「もう少し育ってからにしよう。まだこの肉体では早すぎる」
レティシアの言葉の意味は解らない。
ただ、何か企んでいるのは解る。そう気づいたら、僕の心のなかに少しずつ感情が戻ってくるのを感じた。
グレースは何のために死ななきゃならなかった?
レティシアの意図は何だ?
「お前」
レティシアが僕に目を向けた。「この娘を屋敷に送り届けてやれ。場所は教える。適当に庭に転がしておけば、誰か気づくだろう」
「……解りました」
自分でも驚くほど無感情な声が喉から飛び出してきた。それを聞いたレティシアが、少しだけ目を細める。
「面白いな。お前を殺すのは惜しい」
「そうですか」
別に、今さらどうでもいい。どうせいつかは殺される。そんなことはよく解っている。
「……ごめん、なさい」
意識を失ったエアリアルの身体を担ぎつつ、そのか細い声を聞く。何か夢でも見ているのか、ずっと苦しげに謝罪の言葉を繰り返している。
レティシアの命令通り、僕はエアリアルの身体を運び出した。レティシアの屋敷の庭には馬車が置いてある。
馬の世話も子供たちの役目だから、馬も僕らによく懐いている。馬車を御するのも簡単だった。
「目が覚めたら何も覚ええていないはずだ」
レティシアはそう言っていた。だから、エアリアルはさっきまでのことを全て忘れてしまうのだろう。
きっと、僕らに出会ったことすら。グレースの存在も。
「あなたをお手本にする!」
彼女がグレースに言った言葉を思い出す。強くなって家に帰るのだ、と。
もともと、彼女はそんなことをしなくても自分の屋敷に帰れる運命だったのだろうか。そんな、考えてもどうにもならないことをぼんやりと考えながら、馬車を走らせる。
エアリアルの身体は軽かった。辺りに人目がないことを確認してから、彼女を馬車から下ろした。レティシアに教えてもらった魔法を使い、エアリアルの身体だけをオーガスティン家の庭に運び入れた。屋敷を取り巻く柵は高く、魔法を使わないと無理な行為だった。
柵の向こう側にエアリアルの身体が音もなく横たわるのを確認してから、僕は唇を噛み締めた。
――まだこの肉体では早すぎる?
レティシアの狙いが何にしろ、いつかまたエアリアルは誘拐されるのだろう。ある程度育ってから? それは何年後になるだろう?
「エアリアル」
僕はそっと囁いた。「できるだけ早く、何とかする」
レティシアの屋敷に戻ると、彼女は珍しく居間のソファに座っていた。僕は無関心を装って彼女に頭を下げると、そのまま台所に向かおうとした。
色々考えなくてはならないことがある。
とにかく、一番に思うのは。
絶対に、レティシアを殺さねばならない、ということ。
もしチャンスが少しでもあるなら、どんな手を使ってでも。
レティシアは化け物なのだ。殺さなきゃいけない生き物。
そう、自分に言い聞かせた途端。
突然、凄まじいまでの吐き気が襲った。さらに眩暈、立っていられずその場に膝をつく。
胸が苦しい。何か、僕の身体の中にいる。
胸を掻き毟り、その『何か』を探そうとした。そして、突然に理解した。
レティシア、だ。レティシアの魔法が何か、僕にかけられている。
どうやったのかは僕にも理解はできない。何か叫んでいたかもしれない。とにかく必至に、その『何か』を排除しようとした。
そして、気づけば僕の手の中に赤い生き物がいた。小さな赤いトカゲ。異形の、嫌悪感しか抱けない生き物が。
僕はそれを見た途端、床に叩きつけて足で踏み潰した。鋭い悲鳴を上げたそれは、すぐに空気に溶けて消えた。
何だ、さっきのは。
僕は荒い呼吸を整えながら考える。
「そいつを殺したのはもったいなかったな」
いつの間にかレティシアが僕のそばに立っていた。「生かしておけばお前の命を守ってくれただろうに」
僕は彼女のほうに振り向き、首を傾げた。
「どういうことですか?」
「あれはわたしの使い魔だが、お前の一部でもある。宿主を守る習性があるから便利なのだよ」
「守る? 守ってもらうより自分の身は自分で守ります」
僕は薄く微笑んで見せた。
一番の敵はレティシアだ。彼女から身を守るにはどうすべきか?
「使い魔を僕に仕掛けるより、魔法を教えてもらえませんか」
「魔法ね」
レティシアがくく、と声を上げた。笑っている感じではないが、その声だけを聞けば嘲笑に近かった。
「教えてやってもいい。お前の中の反抗心は食われたみたいだしな、多少は扱いやすい」
僕は困惑して彼女を見つめ返した。反抗心とは?
僕は彼女を――。
「あなたに逆らおうとは考えませんが」
何故か心がざわついた。
自分はどうしたというんだろう。僕は彼女に……彼女を殺そうと。そんなことは無理なのに?
「さっきまで、お前の敵意は隠し切れていなかったぞ。感情を消すのは上手いようだが」
「……」
僕は眉を顰め、じっと考え込んだ。すると、レティシアは僕に近づいてきた。後ずさりたくなったのを必死に堪えていると、彼女が僕の額に手を置いて魔法の呪文の詠唱を始めた。
しまった、と僕が思うより早く、彼女の魔法が完成した。




