焼き菓子を買いに?
「色々あったんですねえ」
クレアが穏やかに言う。
わたしが泣き止むまで、クレアはわたしを抱きしめてくれていた。彼女からこうしてくれるのは、初めてかもしれない。
わたしは何だか、自分自身の感情とか思考がよく解らなくなっていた。
クレアのことは好きだ。友人として、まるで姉妹のように。
失いたくないと思いつつも、いつか嫌われることを恐れながら一緒にいるより、今のうちに離れてしまったほうがいいとも考えたり。
矛盾だ。
今のわたしは何もかもがあやふやで、どうしたらいいのか解らずにいる。
だから、自分の考えを整理するという意味でも、今日の出来事をクレアに説明してみた。
何もかも、全部。
トカゲのことも、トカゲをわたしに植え付けたらしい魔法使いの話も。
「でも、昔も今も、お嬢さまはお嬢さまですよ」
クレアはわたしの不安を見透かしているようだ。「このトカゲがお嬢さまの『何か』を食べたのだとしても、あんまり気にしなくていいんじゃないでしょうか」
「でも、クレア」
わたしはまだ、彼女の肩に自分の頭を預けたままの格好で口を開いた。「もし、この子が食べた部分が今もわたしの中にあったら、もっと違った自分だったのかもしれない」
「うーん、確かにそうかもしれませんけど」
クレアはくすくす笑う。「昔のお嬢さまは確かに、無邪気すぎました。脳天気というか何というか」
「は?」
わたしは顔を上げる。すると、クレアは僅かに首を傾げている。
「子供だったから、とわたしは理解してたんですが、違ったんですかねえ? あの、おめでたいまでに楽観的なところとか、そういうところを食べられてしまったから、今のお嬢さまが存在するのかもしれません」
「何気なく酷いこと言ってるよね、クレア」
「すいません、正直で。この際、ぶっちゃけて言いますけど、わたしは昔、不安だったんですよ。あまりにもお嬢さまは無邪気で、他人を疑うことも知らない様子でしたから。いつか、悪い人間に騙されるんじゃないかと思ってたんです」
「やっぱり酷いこと言ってるよね」
わたしが唇を尖らせていると、クレアは苦笑しながらわたしの手を取った。
「今は、昔ほど頭の中がお花畑ではないでしょう? そりゃ、空気読まないところとか、好き勝手に暴走したりとかありますけど」
「ちょ」
「これが普通だと思うんです。今のお嬢さまくらいがちょうどいいですよ。人間の感情なんて、そう簡単に白黒はっきりしてるわけじゃないです。理不尽なことだって、たくさんあります。お嬢さまみたいに迷走するのは当たり前なんですよ」
わたしは肩を落としてため息をつく。
クレアはさっき、自分は召使いだからとか何とか言ってたけど、とても召使いとは思えない発言じゃないだろうか。そりゃ、本音で話をしてくれるのは嬉しいよ、嬉しいけどさ!
「昔のお嬢さまは、どんな嫌みを言っても通じませんでしたよ」
クレアはわたしの手を握る自分の手に力を入れた。「わたしが何を言っても、『そうだよね』とか『クレアの言う通り』とか笑ってました。冗談や嘘を言っても、簡単に信じてしまう。でも、いつからだったか『疑問を抱く』ことを覚えてくれたので、安心したんです」
「安心?」
「ええ、だって、世の中には色々な人がいますから。いつまでも安全なお屋敷に籠もり続けるのは無理ですよ」
確かにそうだろうけど。
わたしは眉を顰めた。
よく覚えてないけど、わたしはそんなにおめでたい頭をしてたんだろうか。
そしていつ、このトカゲ……くーちゃんはわたしの心の中に入った?
レティシアにいつ接触した?
「ねえ、クレア」
わたしは疑問を口にした。「わたしはいつから、今のわたしになったんだろう? いつ、変化が?」
「んー」
クレアはわたしから手を放し、しばらく腕を組んで考え込む。そして、ぽん、と手を叩く。
「そうそう、お嬢さまが頭を打って寝込んだ時ですよ」
「ああ」
わたしはふと頷いた。お屋敷を抜け出そうとして、二階の窓から落ちた時。
わたしが十歳くらいの時の事故だ。
「わたしはてっきり、お嬢さまの性格が変わったのは、頭を打ったからだと思ってたんですけど、違ったみたいですねえ」
「そう、だね」
わたしは唇を噛んだ。
何でお屋敷を抜け出そうとした?
遊びに出かけたかった。クレアを置いて、外に出ようとした――らしい。
その辺りはよく覚えていない。
美味しい焼き菓子のお店があって、こっそりそこに行きたかったらしい。
でも、外出は禁止だった?
だから無理に二階の窓から出ようとして、落ちた。
らしい。
らしい、らしい、ばかりでよく解らない。
記憶が所々抜けているのは、頭を強く打ったからだ、とお母さまに説明されたけど。
何か違う理由があるんじゃないだろうか?
「あの、お嬢さま?」
クレアが躊躇いがちに言った。「急いで記憶を取り戻す必要がありますか?」
「え? そりゃあ」
「グレイという犯罪者に誘拐されて記憶をなくされましたよね。わたしは、お嬢さまは焦りすぎじゃないかと不安ですよ。身体を鍛えたり魔法を習ったり。色々抱え込みすぎじゃありませんか?」
「でも、自分の身体を取り戻すためだよ」
わたしは真剣に言う。
いつまでもこんな身体ではいたくないから必死なんだ。
「もちろん、それは解ります。でも、相手は恐ろしい殺人鬼なのでしょう? 話に聞くだけでも、相手がとんでもなく残虐だとわたしでさえ解るのに。何で司法局に任せないんですか?」
「だって……」
それはもちろん――。
シャーラも司法局を頼ったらいいじゃないか、と言った。
でも。
放っておいても、解決はしそうにないから。
ただ待つだけなんて、落ち着かないから。
それに、グレイは鏡を通してわたしに接触している。
これは誰にも言えない。
もし話したら、お父さまやお母さま、クレアの身が危ない。
だから、誰にも話さず、わたしだけで彼から情報を引き出す。そして、彼を追い詰める――ことが、できるんだろうか。
「お嬢さまはおっしゃいましたよね。巫女様のお言葉」
「うん……」
「色々なものや人と接して、心の穴を埋めるように、って」
うん、クレアにも説明した。シャーラが言ったことは全て。
「グレイを追うことは、お嬢さまにとってベストなことですか? 『いいことだけで埋めていく』ことですか?」
「それは」
――いいこととは言えないかもしれない。
グレイを追うことは、彼の犯罪に触れることだ。
ジェーン・マーチンの遺体を見つけた時のように。
もしこれからも、彼の犯罪に触れ続けるのだとしたら。
「もしお嬢さまが、巫女様みたいに何でも万能に魔法が使えるなら、わたしだってグレイを追うことをとめはしません。でも、まだお嬢さまはそんなに強くないですよね」
クレアの言葉がわたしにザクザクと突き刺さる。
確かにそうだ。反論はできない。頑張ってはいるけど、空回りしているところもある。
「だから、ちょっとだけでもいいです。力を抜いて下さい。周りを見て下さい」
わたしは顔を上げ、クレアを見つめ直した。彼女の表情は真剣だ。
そして多分、わたしを心配しているから言っているのだ。
「わたしは、お嬢さまにこれ以上、危険な目に遭って欲しくないんです。お願いします」
クレアはまたわたしの手を取った。「わたしのお願いは、叶えてもらえますか?」
わたしは彼女の手を握り返した。
「心配かけてごめんなさい。もう、無理はしないよ。約束する」
わたしは泣きたくなる衝動に駆られつつ、そっと応えた。
こんなに真剣に言われたら、拒否なんてできない。したくもなかった。
「何だそれ」
夕食の時間になって、わたしとクレアが食堂にいくと、エドガーがわたしの姿に気づいて声をかけてきた。
正確に言えば、わたしが持っているものに気づいて、だ。
「くーちゃんといいます」
わたしは真面目な顔で小さな檻をエドガーに見せてから、そっとテーブルの上に置いた。
檻の中のくーちゃんは、案の定エドガーを威嚇して「シャーシャー」言っている。
「くーちゃん……」
エドガーは呆れたような表情をわたしに向けたけれど、何に対して呆れたのかは不明だ。
わたしのネーミングセンスか、それとも食堂に怪しげなトカゲを持ち込んだことに対してか。
「あ、ペット飼うのオッケイなんすか、ここ」
と、エドガーの『相棒』のディーンも近寄ってきて、檻の中からの威嚇音を浴びた。そして、ふとその表情を曇らせてわたしを見た。
「まさか、黒焼きにして食べるとか」
「違います」
わたしは瞬時に否定した。




