忘れていた恐怖
「ねえ、あなたはグレイという少年に殺されそうになったというわね」
シャーラは気遣うような笑顔をこちらに向けている。慈愛の笑顔。みているだけで安心できる。
「はい」
「あなたの中に恐怖心はあった? こうして事件に巻き込まれて、怒りの他に感じたものは?」
「もちろん、怖いです」
わたしは眉を顰める。シャーラは奇妙なことを言う。
怖いに決まってるじゃないか。
確かに怒りは大きかったけど、もし……。
もし、家族やクレアの身に何かあったら?
「自分が殺されるかもしれない恐怖は?」
「え?」
「あなたは女の子でしょう。今、剣術を習ってると聞いたけど、恐怖はないの? 自分のお屋敷に隠れて過ごそうとは思わなかった?」
「それは思わないです」
わたしははっきりと言った。「自分の肉体を取り戻すためなら、何でもするつもりです」
「でも、追われた獣は凶暴だとよく言うでしょう。返り討ちになる可能性が高いわね。怖くないの?」
「怖くはないです」
わたしはそれだけは自信があった。自分のことだったらどうでもいい。誰かが巻き込まれるのが嫌なのだ。
「恐怖心がないというのも、人間としては不完全なのよ」
シャーラがふと悲しげにわたしを見つめ直す。
不完全?
恐怖心がないほうが強いんじゃないの?
よく本でも読んだ。過去の偉人たちだって、恐れを知らぬ強さ、というのを持ってたはず。
わたしだって、強くなれるはず……そう思う。
「人間には、種を守るという目的のために、自衛の恐怖心というものが働くわよね。危険な場所や人間を察知して、逃げようとする本能。でも、あなたにはそれがないみたい。使い魔に奪われてしまった感情かしら」
「でも……なくても困りません」
むしろ、戦うためには必要ない。
恐怖心は弱さに繋がる。そうじゃないの?
「恐怖心を知らない人間は恐ろしいわ。あなたは二人目のグレイ・スターリングになりたいの?」
わたしは息を呑んだ。
何を言っているの?
そんなわけあるはずない。
わたしが望むのは。
望むのは。
グレイ・スターリングの死?
違う。それは違う。
彼は確かに、殺人者だ。あんな人間はこの世界にいないほうがいいとは思うけど。
でも。
自分の身体を取り戻すまでは生きてくれなきゃ困る。
それまでは。
その後なら死んでも。
でも、わたしはいつからこんな冷酷な考えかたをするようになった?
もともと?
本当に?
わたしは自分の手を見下ろした。膝の上に置かれた手は、ぎゅっと握りしめられている。指が色を失って白い。
「大丈夫よ」
気がつけば、シャーラが椅子から立ち上がり、わたしの頭を抱き寄せていた。
まるで、壊れ物を扱うように、そっと。
彼女の優しい手のひらが、わたしの頭を撫でる。
「大丈夫、あなたは優しい子だから。絶対に道を間違わないわよ」
「……本当ですか」
わたしの声が震えていた。シャーラの胸に頭を押し付けたままで、わたしは言葉を必死に探す。
「わたしは、本当は悪い人間なのかも。だからグレイに目を付けられたのかも。わたしが、悪い人間だから」
「そんなことはないわ」
「でも」
胸が、酷く寒い。何だろう、これは。
苦しいのか寂しいのか悲しいのか解らない。
「わたしを信用しなさいな。これでも、この神殿ではそこそこの力を持つ巫女なんだから」
彼女の腕に力が込められた。強く抱きしめられて気づく。
――嬉しい。
誰かに優しくされること、優しい言葉をもらえること。それがこんなにもありがたいってことを思い出す。
そして気がつくのは、自分が不安で仕方なかったということ。
ただ、毎日頑張ってきたつもりだった。
何も考えず、必死に突き進もうとしていたのは、立ち止まったらもう歩き出せなくなるんじゃないかという不安もあったんだ。
「……今は怖いです。シャーラ様」
わたしはいつの間にか泣いていた。
「失いたくないです。家族も、友人も。一番怖いのは大切な人を失うこと。それを阻止するためには、何でもする気でした。たとえ、わたしが死んでも」
「解るわよ」
シャーラの声はただ優しい。
もしかしたら、わたしが何も言わなくても、わたしの考えていることは解るのかもしれない。
でも。
「父も母も、クレア……友人も、わたしが守らなきゃ。この感情は嘘ですか? 偽物ですか? わたしは、本当にわたしですか?」
「嘘でも偽物でもない。あなたの本質までは変わっていないのよ」
シャーラがわたしの頬を手で押さえた。彼女は泣いているわたしを覗き込み、穏やかに微笑む。
「あなたはあなたなのよ、エアリアル。姿形は変わっても、ご両親はあなたを愛してくれているでしょう? あなたは確かに心に欠落がある。でも、それを埋めていくことができる」
「埋めて?」
「そう。あなたは今まで、狭い世界で生きてきた。でも、これからたくさんのものに触れていかなきゃいけない。きっと、また悪意に触れることもあるでしょう。でも、この世界には色々と素敵なこともあるのよ」
「そう……でしょうか」
わたしが不安げに囁くと、彼女は力強く頷いて見せる。
「そうよ! あなたはまず、普通の生活をしなきゃね。学園生活は楽しい?」
楽しいかそうでないかと言われたら、楽しいとは思う。
でも、わたしが目指しているのはグレイを追うために強くなる手段。学園生活だって、その延長で――。
「まずは、普通に勉強しなさいな。それから、たくさん友達を作って、仲良くなりなさい。他人と触れ合って、たくさん楽しいことを知って、お互い協力しあえる相手を作りなさい。あなたの心の穴は、いいことだけで埋めていくの」
「いいことだけ……」
「あなたは優しいけど、本当は強い子なの。だから、心配しないで。ただ、ゆっくり歩いて、辺りを見回してごらんなさい。きっと、色々気づくことがあるはずよ」
ゆっくり歩いて?
わたしはぼんやりとシャーラを見つめながら考える。
でも、よく解らない。
「おまじないを教えてあげる」
シャーラはわたしから一歩下がり、意味深な目つきをこちらに向けた。「もし、嫌なものに……悪意に触れて、自分の心が危ないと思った時。このおまじないを呟いてごらんなさい」
そう言いながら、彼女は自分の手を胸に当てる。そして、短い言葉を口にした。
言葉。
違う。古代言語だ。
わたしは驚きのあまり、涙すらすっかり止まってしまっていた。
それは短かったけれど、酷く印象的だった。一瞬だけシャーラの身体が光に包まれたようにも見える。でも、見つめ直した時には何もない。
「これは悪いものから身を守るおまじない」
シャーラはいたずら好きそうな光を映した瞳をこちらに向け、もう一度そのおまじないを繰り返した。そして、わたしにも真似をするように促す。
わたしは彼女に続いて、何度か繰り返す。そして、古代言語の響きに身を震わせた。
凄い。単純にそう感じる。学園やエリザベスに教えてもらっている現代魔法の言語のシンプルさと比べて、何て緻密なんだろう、と。
「あなたは優秀ねえ」
シャーラがくすくすと笑う。「きっと、あなたならグレイ・スターリングと戦えるわよ」
「え」
わたしが身体を硬直させて彼女を見ると、シャーラはわたしの肩をばしばしと叩きながら豪快に言うのだ。
「腕力でも魔法でもなく、別の戦いかたもあるってこと。落ち着いて行動すれば、あなたのほうがグレイ・スターリングを上手く手玉に取れるはずよ」




