ウサギの飼育
「二本足のウサギ?」
わたしが困惑しつつもそう言葉を返し、ちらりとシドのほうへ視線を走らせると、その横顔は強張っているように見えた。いや、強張っているというより、緊張している?
そして唐突に理解する。
――シドは何か知っている。
「解らないけど……どういうこと?」
わたしはシドを見つめながら言葉を返した。無言の圧力とやらを思い知るといいわ。
すると、キースが何か言う前にシドがどこか苦しげに口を開く。
「その痣は、そういうことなのか」
「ええ」
キースがぎこちなく応え、シドが眉間に深い皺を刻ませてため息をこぼした。疲れたように額に手を置きながら、シドがそっとわたしのほうへ目をやった。彼はトニーの視線も気にしつつ、小さく続ける。
「金持ちが時間と金を持て余すと、ろくなことを考えないという例だろう。……メルヴィル家で起きた事件、あれはおそらく、『狩り』と『美食』だ」
――狩りなんだよ。
父さんの言葉が頭の中に蘇る。
「狩りと美食……」
わたしはふと、キースを見やる。
キツネの痣。キツネ狩り。
ウサギの痣。それは。
「私の父がメルヴィル家で働いていた、と言いましたよね」
キースがわたしを見つめる気配がして、我に返る。
わたしは自分でも知らないうちに唇を噛んでいたらしい。顔を上げてキースを見つめ返し、彼が『痣』の辺りをもう片方の手で押さえていることに気づく。
「ええ、わたしの父もそこにいたはずだわ」
「あなたはメルヴィル家に入ったことは?」
「いいえ。一度も」
「そうですか。それはよかった」
キースは何故か安堵したように息を吐いた。「私は何故か、メルヴィル家に入ることが許されました。いつも、父のいる厨房に入り浸っていたと記憶しています」
「……それで?」
わたしが眉を顰めつつも話の先を促すと、彼は少しだけ言いにくそうに言葉を続けた。
「あの頃、私は幼かったので自分が置かれた立場を理解していませんでした。おそらく、父も最初は理解していなかったのだと思います。名家の料理人として雇われていましたが、父が担当していたのは通常の料理……つまり、メルヴィル家の人間に対する料理だけでした」
――どういう意味?
わたしの目線に気づいたのか、彼は困ったように首を傾げる。
「『夜会』には関わっていなかったのです。そう、最初のうちは。だから……」
そこで、いったん彼は言葉を切った。
そして、声を低くして続けた。
「メルヴィル家の当主、ハーマン・メルヴィルには二人の息子がいました。上の息子は身体が弱く、ほとんど寝たきりでした。確か当主も奥方も、跡取りである彼の看病に忙しく、その病気を治すために色々と奔走していました。だから、次男であるトロイ・メルヴィルはあの屋敷で放置されていた。だから、実質的には彼――トロイ・メルヴィルがあの屋敷の人間を好きなように操っていた、と言っていいでしょう」
「で、そのトロイとやらが夜会を開いていた?」
わたしが訊くと、キースは小さく頷いた。
彼は少しだけ唇を歪めるようにして、笑おうとしたのかもしれない。でも、それはどうやっても笑みの形にはならなかった。
ふと、そう言えばキースの笑顔を見たことがない、と気づく。
緊張しているから笑う余裕がないと思っていたけれど……。
キースはどうやら笑うという仕草を諦めたようで、事務的な口調で続けた。
「ある日、厨房にやってきた彼を見ました。トロイ・メルヴィルという男性は、とてもにこやかな人間に見えました。少なくとも、幼い私はそう思いました。彼は穏やかに父に話しかけ、父の料理の腕を褒め、そしてこう言いました。『確か、君の息子さんは菜食主義だったとか?』と」
「菜食主義? あなたが?」
わたしは首を傾げる。
そして、キースが頷く。
「まあ、ただの偏食ですが。私は子供の頃、肉が……あらゆる肉類が苦手だったんです。母は安上がりな息子だ、と笑っていました。確かに、料理人である父が家に持ってくる肉といえば、質の高いもの……きっと、大人であれば上質の肉だと思えたんでしょう。でも、どうも私は脂身の部分が苦手で食べられませんでした。珍しく野菜が好きな子供、と色々な人間からからかわれたと思います」
「そうね、確かに珍しい……」
「だから、目をつけられたんでしょう」
「え?」
「トロイ・メルヴィルは言いました。『二本足のウサギだ』、と。とても楽しそうな笑みを浮かべたまま、私を見下ろしてそう言ったんです。私はその時、ただ彼に……恐怖を覚えました」
「ウサギ」
急にトニーが口を挟んできた。どこか歯切れ悪い口調で、いかにも嫌そうに。
「ウサギ料理は好きだけどさあ……? それって、アレじゃん?」
アレって何よ。
そう思わず言いたくなったけれど、実際に言葉にはできなかった。
おそらく、わたしの表情もトニーと似たようなものになっていたに違いない。微かな嫌悪。それは生理的なもの。
「トロイは魔法免許を持っていました。ああいう上流階級の人間にとっては珍しいことです。裕福な人間であるなら、魔法使いは通常、給料を払って雇うものであるからです。でも彼はおそらく、自分の趣味のために魔法を習い、免許を取った。あの時、彼はわたしの腕を掴んで『印』をつけました。その目的は管理するためです。どうやら彼は……自分が魔法をかけた相手の足取りを追うことができるようでした。だから、私を逃がさないように管理して、そして」
「喰うってわけ?」
トニーが持っていたフォークで皿の上にある肉団子を刺した。フォークの先が皿にぶつかって耳障りな音を立てる。そのまま肉団子を口の中に放り込んだものの、少しだけ飲み込むのに時間がかかった。
飲み下した後に小さく呟く。
「……まずそー。うえー、って感じ」
「トニー」
肩をすくめて鼻の上に皺を寄せた弟を、わたしは一応、形だけ諫めた。
でも。
確かにそれは。
「父がその言葉の意味を理解したのは、それからしばらく経ってからです」
キースはトニーから目をそらし、シドを見やる。「つまり、夜会の食事の準備をさせられるようになってから、という意味で。夜会の料理を準備する厨房は、地下にありました。そこでおそらく、父は見たんだと思います。『二本足のウサギ』です」
「……二本足の……つまり、人間か」
シドが囁くように言う。そしてそれ以上言葉が見つからなかったようで、小さく首を振った。
「ええ、そうです。実際に、私も後に見ることになりました。逃げ出す時に、という意味ですが。父が地下室から戻ってこなくなってから私は……――いえ、話を元に戻しましょう。まずは、事件が起きる前のことです」
キースの瞳に暗い影が落ちたのが見えた。
――地下で見た。
何を? いえ、誰を?
とても、それは考えたくないこと。
でも、きっとそれは。
「あの事件が起きる前、私の食事は全てメルヴィル家で用意されるようになっていました。トロイ・メルヴィルが指定した、『安全な食事』、『安全な野菜』のみ。父がそれに気づいた時には、とても逃げ出せるような状況ではなかったんです」
キースの表情は事務的なものに戻っていた。でも、この場の空気は重い。
その空気を耐えかねたように、わたしの弟は大仰に首を振って口を開いた。
「安全な野菜、ねー」
トニーは料理の皿を自分から遠くへと押しやり、明らかに食欲が失せたような顔つきでフォークさえテーブルの上に投げ出していた。いつもだったら行儀が悪い、と注意しただろう。でも、わたしも何も言葉が見つからなかった。
トニーがガシガシと頭を掻きながら身をのけぞらせた。その弾みで椅子が軋む。
「草食動物と肉食動物の肉は、味が違うらしいしなぁ。そーゆーことなんだろ?」
「ええ。つまり、私は食肉用として『飼育』されたんです。彼らが食べる肉だから、余計なもの……危険な農薬などの入った野菜を食べさせることをしなかった。安全な食材で、安全な、そして美味しい料理を。彼らは『夜会』で狩りと食事を楽しんだ。何もかも、ゲームのように思っていたんでしょう」
キースは酷く冷静な表情でトニーを見やり、無礼そのものといった相手にすら捜査官としての礼儀正しさで応える。しかし、さすがにトニーの顔から表情が消えた。
「彼ら、ね?」
トニーが腕を組んで唇だけで笑う。「人間狩りと人肉食。それを楽しんだのはトロイ・メルヴィルってーヤツと、他に?」
「彼の友人たちです」
キースの声はとても静かだった。違和感を覚えるほどに。
「あの夜会は仲の良い人間たちだけの秘密の遊びでした。彼の両親が上の息子にかまけている間、下の息子は道楽に現を抜かしていたということです」
「ねーちゃん」
トニーがやがてわたしを見つめた。
「……何よ」
「司法局って犯人捕まえてないんだろ?」
――そうね。
「俺、ここまで事件の内容、聞いてない。初めて知った」
――わたしだってそうだわ。
「何で、捕まえてねえの? そこまで解ってるなら、何で? とーちゃん以外にもたくさん死んでるって話だろ? 大騒ぎになった事件だったよな? なのに」
「もみ消された、そう言った」
そこで、シドが苦々しく口を開いた。
わたしたちの視線が彼に向いた。シドは誰の顔も見てはいなかった。我々ではなく、我々の背中の裏にある壁を睨みつけたままこう続けた。
「あの事件は、一人の男性が街中で死体となって発見されて発覚した。トロイの関係者が死体を回収する前に、一般人が見つけてしまった。そして、とうとうトロイの父親、ハーマン・メルヴィルの知るところになってしまった。次男の『趣味』と、今までやってきたこと。だが元々、隠し通せるわけがなかったのだ。トロイは若く、悪知恵は働いたし優秀ではあったかもしれない。ただ、常識も良識も持たず、愚かにも、自分の悪行を目撃している屋敷の人間の口を魔法で塞ぐ、ということだけで安心していた。だが、彼が知っていたのは現代魔法、それも学生が学園で習える程度のもの。完璧ではない。すぐに綻びが出た」
「失礼ですが、シド・スレイター捜査官」
キースがそこで静かに口を開く。「どうやらあなたはこの事件について詳しく知っておられますが、どうしてでしょうか?」
ふと、シドがその問いを受けて顔を顰めた。キースの表情には少しだけ困惑の色がある。
確かに、その疑問はわたしにもある。わたしだってこの事件については色々調べようとしてきた。司法局に入って、できる限りのことをしてきたと思う。
でも、何も資料は手に入らなかった。
今回の捜査官の移動による調査において――北部の時期局長候補と言われているシドは、どれだけの権威を持っているのだろう。新しく北部にやってきた捜査官たちの過去や資料を目にしただけで、それだけの情報が手に入るとでも?
「私がこの事件についてこれだけ知っているのは、記憶を取り戻したからです」
キースは緊張した面持ちで続ける。「あの事件の時、トロイに魔法によって記憶の操作を受けました。だから、あの地下の厨房で……父の遺体らしきものの前で座り込んでいるのを司法局の人間の手によって保護された時、私は一時的に正気を失っていました。何を訊かれても何があったのか応えることができませんでした。司法局で治療を受け、話せるようになっても、まだ記憶は壊れたままでした。だから何も自分の口から説明などしていません。記憶が戻ったのは、私が魔法学校に入り、自分で何とか過去を探ろうとしていた時の副産物。偶然、トロイの記憶操作を解くことができたから。だから――あの事件の関係者ではないあなたが……ここまで知っているのは」
辺りに落ちる沈黙。
「シド」
わたしはそっと彼の名前を呼んだ。
すると、シドが小さく笑った。
「私がここまで知っているのも、偶然なんだよ」




