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魔法使いは鏡の中で笑う  作者: こま猫
第七章 始まりの場所、終わりの場所

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お前が正しい

 その時、グレイ・スターリングの身体が床の上で痙攣した。

 口から溢れ出す血はさっきよりもずっと多い。その目は見開かれ、驚愕したように天井を見上げる。


「お前」

 グレイが起き上がる。死にかけていたと思われる彼。僅かに痙攣しながらも、手で身体を支えて立ち上がった。

 彼の身体の周りに途端に渦巻いたのは、青白く輝く治療魔法の言語の羅列。

 血だまりの上にゆらりと立ち上がり、わたしに視線を向ける彼。


「……レティシア様」

 わたしは薄く笑ったまま彼を――グレイ・スターリングの身体の中に入っているであろう、レティシアを見つめた。


 笑い出したくなる衝動。

 こんな状況で。こんな状況だからこそ。

 わたしは、自分がおかしくなってしまったのかとすら思った。禁呪の波動。それがわたしの身体の中から広がった瞬間に覚えたのは、快感にも近い何か。あまりにも強すぎる魔力に、自分自身が操られているかのようにすら感じた。


 さっき、グレイから与えられた記憶の断片。それだけでも、かなりの情報は得られたのだと思う。でも、わたしは完全に記憶を取り戻したわけじゃない。思い出せない部分も多く存在した。

 今感じるのは、わたしの中にある魔法の名残。頭の中にある小さな何か。

 記憶の解除。

 失われた記憶。

 わたしは、レティシアに封じられた記憶を取り戻すために、自分自身にかけられた魔法を壊した。それはあまりにも単純な魔法で、呼吸をするかのように簡単に、あっさりと壊れた。

 唐突に全てを理解するということは、頭の中がクリアになるのと同時に混乱も巻き起こすのだろう。

 わたしは不規則な心臓の音を感じながら、つい声を上げて笑い出していた。


「……お菓子をくださいましたよね」

 わたしは笑いながら囁いた。

 笑っているのに、涙がこぼれだす。泣きたいわけじゃない。何で泣いているのか解らない。

「小さなお店でした。わたしが街で入った焼き菓子のお店は、とても小さかった。そこで、初めてあなたに会いました」


 甘い香りを思い出した。

 路地裏にあるその店に入った時、店内には誰もいないように思えた。小さなカウンターがあって、木で作られた陳列棚にはいくつものお菓子が並んでいた。そのどれもが美味しそうで、わたしは服のポケットに入れてあった金貨や銀貨、銅貨、どれだけのお金を使えばこれらを買うことができるんだろう、と考えていた。

『すみませーん』

 そう、カウンターの奥に声をかけるわたし。

 開きっぱなしのドアの向こうに、小さな部屋が見えた。

 年季の入った感じのテーブル、背付きの椅子。その椅子に、誰かがこちらに背を向けて座っているのが見えたけれど、その人はわたしが声をかけても眠っているのかぴくりとも動かなかった。

 その人の代わりに、急にわたしのすぐそばに現れた人影。

 わたしは驚いて声を上げた。

『あの』

 わたしが慌てて何か言おうとする前に、その人――レティシアは薄く微笑んで話しかけてきた。

『この辺りでは見かけない子だ』


 今なら解る。

 きっと、あのお店で椅子に座っていた人こそが、あの店の本当の主だろう。でも、動こうとしなかった。きっと、死んでいたからだ。

 彼女は主の代わりに、わたしにお菓子を差し出した。一つだけ、プレゼントだと言った。気に入ったなら、もっとあげよう、と。

 お金は?

 そんなことを考えながら、お菓子を受け取って一口食べてみる。それは、ナッツの入ったマフィン。それはほろほろと崩れるほど柔らかく、とても甘くて、今まで食べたことのない特別な味がした。

 わたしは、美味しい、と感嘆の声を上げた。

 美味しいのか、と彼女は言った。

 わたしが頷きながら見上げると、彼女は凄絶な笑みを浮かべてわたしを見下ろしていた。三日月型になった唇があまりにも怖くて、急に逃げ出したくなった。でも、その前に彼女がわたしの腕を掴んで、魔法をかけたのだ。

 そして、記憶が一部、消えている。

 改竄。そうなのかもしれない。

 何が現実で、何が作り変えられた記憶なのか解らない。


 気が付けば、彼女に腕を引かれて暗い道を歩いていた。

 この人は誰?

 わたしは慌てて逃げようともがいた。でも、彼女の腕はとても力が強く、振りほどくことができなかった。悲鳴を上げても、周りには誰もいなかった。

 暗くて、誰もいない道。辺りには何もない。そこは普通の道じゃなかった。

 わたしは何をしていた? お菓子を買いに屋敷を抜け出して、お店に入って、そこでお菓子を食べて、それから?

 お菓子を食べて……一人で歩いてたんじゃなかった? 目の前を歩くこの人は誰?


「あれが始まりだった」

 わたしは小さく言った。「あの時、わたしが屋敷を抜け出さなければあなたに会うこともなかったのに。こんなことになることもなかったのに」


 ――グレースも、死ぬことはなかったのに。


 唐突に胸が痛んだ。

 自責の念。自己嫌悪、無力感。あらゆる負の感情がわたしから笑みを消させた。


「エアリアル」

 レティシアが苦しげにそう発音した。そして、彼女は手を上げて魔法の呪文を詠唱した。わたしは動かなかった。動く必要もなかった。

 彼女の手に現れた青白い光は、刃の形になる前に弾け飛んだ。それは、空気を揺るがして、レティシアの――グレイ・スターリングの身体をも揺さぶった。

 シドの魔法が壊れるのが解った。その身体では、攻撃魔法は使えない。そういうふうにされている。

 そして、その肉体に浮かび上がってきたのは、魔法免許の永久剥奪の刻印。

 これでもう、彼女は魔法を使えない。


 彼女が床に膝をついた。

 俯いた彼女は、さらに大量の血を吐き出して床を濡らした。身体を支える彼女の腕が震えている。

「……なかなか、面白い」

 彼女は血だまりを見下ろしながら、静かに言った。「残念ではあるが、これも興味深い展開だ」

「そう、ですか」

 わたしは冷ややかに応えた。

 すると、彼女は傷口を押さえながらわたしを見上げる。そこには恐怖も何もない、平穏なだけの表情。その穏やかな口調で、こう訊いた。

「どうだ、その身体は? 凄い魔力を持っているだろう」

「そうですね」

 わたしは頷く。

「さらに強化したいと思わないか? その身体なら、どうとでも作り変えることができる。もう、肉体も充分に育った。数年をかけて、『あれ』の肉、血がお前に馴染んだはずだ。さらに『あれ』を喰って、今以上の力を得たいと思わないか? 私と同じように」

「第二のあなたになるつもりはありません」

 わたしはすぐにそう言った。「あなたは全然……綺麗じゃない」

「……それは心外だ」

 レティシアはそこで力尽きたかのように、床の上に倒れこんだ。そして、仰向けの状態でさらに言葉を続けた。

「私が憎いか?」

「もちろんです」

「ならば、時間がない。最初の殺人を楽しむといい」


 レティシアは天井を見上げたまま、浅い呼吸を繰り返していた。きっと、このまま放置していれば、彼女は死ぬだろう。

 わたしはそれを待つだけでいい。

 でも。

「その手で殺さねば、後悔するかもしれんぞ。感情の解放は必要だ」

 彼女は僅かに手を動かして、床に落ちていたナイフを手に取った。「それに、人間性が問題があったとしても、健康的な肉体はまた別の話だ。ここには、解剖のための道具はそろっている。治療魔法を学ぶ人間なら、必要な行為だよ」

「……あなたのことが理解できません。いいえ、したくないんだと思う」

 わたしは一歩、彼女に近づいた。

 彼女は恐ろしい人だ。

 でも、何となく……理解したいと思うのは間違った感情だし、絶対にしてはいけないことだと解る。

 もし理解してしまったら、彼女の考えに同意する部分を見つけてしまったら、わたしはわたしでいられなくなってしまう。

「でも、あなたを殺さなくてはならない。あなたが生きていたら、きっともっとたくさんの人が殺される。だからこれは」

「ああ、お前が正しい」

 わたしは、そんな彼女の声を聞きながら、ゆっくりと手を上げた。

 そして、彼女の傷口にかけた治療魔法を解除したのだった。


 吹き出す血。さらに広がっていく血だまり。

 途端、レティシアの――グレイの顔が色を失っていく。生きている人間のものではない色へと。


 わたしはその場に膝をついて、顔を覆った。

 涙。

 涙があふれてとまらなかった。


 誰か。誰でもいい。

 わたしが正しいと言って欲しい。レティシアの言葉は怖い。レティシアはわたしが正しいと言ったけれど、本当にそうなの?

 本当にこれでよかったの?


 わたしは、彼女を殺した。

 これでよかったんでしょ、ねえ、誰か!


「……エアリアル」

 掠れた声がその場に響いた。

 わたしは涙で濡れた頬をそのままに、声のするほうへと顔を向ける。

 レティシアが床に座り込んでいる。正確に言えば、レティシアの肉体に入ったグレイが。赤い目と、苦痛に震えているらしい身体。

「何も見えない。エアリアル、いるのか?」

「……グレイ」

 わたしはそっと口を開いた。酷く鼻声のわたしの声。

 わたしは何とか立ち上がると、彼のそばによろよろと歩み寄った。そして、彼の前に座り込んでその手を握る。

「ここにいるよ」

 そう言った時、辺りに大きな魔力の流れを感じた。『上』のほうから。

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