わたしがやれること
一瞬、彼が何を言っているか解らなかった。
そして、すぐに理解した。
混乱と、何とも言えない後ろめたさに襲われる。
確かに、わたしはこの身体の持ち主じゃないけど。でも、こんなことになったのはわたしが……失敗したからだ。レティシアとの会話の駆け引きを間違ったから。
もし、この身体に入っていたのがグレイなら、きっと今も無傷だったのかもしれない。
でも。
そう、確かにわたしたちの身体は入れ替わっていて。
……死にたくなんてないけど、でも、そう思う自分が醜く思えて。
だって、わたしのせいで。わたしがまずい対応をしたからなのに。
「グレイ」
わたしは手を上げて彼の手を掴もうとした。
動かない。
待って、少し待って。
それよりも、話をしてよ。さっき見えた光景。あれは何なの。
彼女は――彼女は。
グレース。
そう、わたしは彼女を知ってる。綺麗な黒髪、強気な瞳。でも、とても優しい人で。あなたが殺した少女。殺さなくてはいけなかった少女。
あれは。
あれも、わたしのせいで。そう、わたしのせいで彼女は。
――お前は何もできないのだ。
レティシアの声が頭の中に聞こえる。
涙が眦から耳元へと流れていく。
ダメだ。
ダメだよ、こんなの。わたしには何もできない。わたしが生きていても、何もできないんだ。わたしのせいでグレースは死んだ。そうでしょう?
あの時だって、グレイがわたしを助けてくれた。わたしの代わりに手を汚した。
そして、今はどうなってるの? グレイが求めるものは何なの?
わたしが必死に口を動かそうとしているうちに、グレイはまた呪文の詠唱を始めた。その目は少しだけ天を仰ぐように動き、少しだけ詠唱がとまる。それから、タイミングを見計らったらしく、魔法を完成させた。
そして、さっきよりも激しい衝撃が身体を突き抜けるのを感じた。
気づくと、わたしは俯いていた。
さっきの衝撃のせいか、吐き気すら覚える。鈍い頭痛と、倦怠感。
目の前にいるのは、血だらけで横たわっているグレイ・スターリングの姿。さっきまでわたしが入っていたはずの肉体。
グレイは微かに咳き込み、血を口から吐き出した。白い頬、疲れ切ったような表情。でも、穏やかにわたしを見上げて笑う。
「泣いているほうが君らしいな」
そう言った彼の口調は、楽しげだった。
そして、震える手でわたしの頬に手を当てて、小さく続けた。
「髪の毛、切ってごめん」
そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!
わたしはぼろぼろと涙をこぼしながら、彼の首筋に手を当てた。イングラム先生からならった治療魔法、そして今、グレイから記憶ごと受け継いだ治療魔法。どっちが効き目が強いんだろう。やっぱり、グレイの古代言語の治療なんだろうか。
そして驚かされるのは、わたしの――エアリアル・オーガスティンの肉体に戻った瞬間に感じた魔力の強さだ。学園で、そしてエリザベスから魔法を習った後だからよく解る。わたし、こんなに強い魔力を持っていた?
身体の奥から脈打つかのような、身体が震えるくらいの魔力の渦。グレイの肉体の中にいる時は、こんな感覚は知らなかった。怖くなるくらいに、わたしの身体からは異様な力が湧き出ているのが解るのだ。
もしかしたら、この力があればグレイの命を助けることもできる?
わたしが祈る思いで必死に呪文の詠唱を続けていると、グレイが苦笑した。
「ただの延命にしかならないよ。それより、今しかチャンスがないんだ。レティシアを殺してくれ」
そう言って、彼は床に手を這わせ、落ちていたナイフを拾おうとした。でも、力が入らないらしく、握ろうとしたまま動きを止めた。
「時間が経てば、レティシアの身体は回復してしまう。だから、今だけしかない。身体のどこを攻撃しても、可能性は低い。もし僅かな可能性に賭けるなら、頭だと思う。脳だ」
「無理だよ」
わたしは治療魔法を続けながら首を横に振った。「わたしにはできない。絶対、無理だよ」
「でも、やらなきゃ次に狙われるのは君だ」
彼は困ったように眉を顰め、目を閉じた。その顔を見て、わたしは不安に駆られて叫ぶ。
「待って! 死んだらひっぱたくからね! 目を開けて!」
「……サドだって言われるだろ、君は」
グレイが冗談めかして囁き、目を閉じたまま息を吐く。
「冗談言ってないで、助けてよ。わたし一人じゃ無理だよ。わたしだけじゃ……」
わたしは彼の服の胸元を掴んだ。ウェクスフォードの制服。
「大丈夫だろう」
そこでグレイは薄く目を開けて、困ったように笑った。「無理だと思い込んでいるだけだ。まあ、厄介なことを押し付けて悪いとは思ってるけどね。でも、おそらく僕は彼女を殺せない。だから、君がやるしかない」
グレイは彼女を殺せない。
確かに、レティシアもそんなことを言った。
「レティシアがくる」
グレイが低く呟いた。「禁呪の波動は大きいはずだ。いくら壁があっても、きっと彼女は気づく」
「……そう」
わたしは唇を噛んだ。
そっと辺りを見回す。
わたしたちの周りには、さっきグレイが作った魔法の壁が取り囲んでいる。でもきっと、彼が言う通りなんだろう。さっきの人格転移の魔法は、凄まじい衝撃があった。彼女が様子を見に来てもおかしくはない。
わたしは天井を見上げた。
どこか近くで、魔法の波動を感じる。これは神官長やシャーラの魔法だろうか。小刻みなタイミングで空気を震わし、奇妙な歪みを宙に作り出している。
わたしは、グレイがやったのと同じように、その波動に合わせて魔法を完成させた。
もう一度、魔法の壁を作る。完成した瞬間に、空気を震わせる波が広がるのがはっきりと見えた。
――完成した瞬間なんだ。
わたしはぼんやりと考えた。波動が広がるのは、魔法が完成した時なのだ。
そして、グレイを見下ろした。
彼はぴくりとも動かない。目を閉じて、血だまりの中に眠っているかのように。
わたしはまた違う魔法の呪文の詠唱を始めた。知ったばかりの魔法言語。知ったばかりの配列。それは、とても美しい響きでわたしの唇から聞こえてきた。
完成する直前、わたしは詠唱を中断した。
グレイ、と呼びそうになって、すぐに違う言葉を選んで言う。
「……エアリアル」
そう呼びながら、グレイの手のひらの中にあるナイフを取り上げた。血が刃から滴り落ちる。
いつしか涙は止まっていた。
「何が起きた」
背後からレティシアの声が響いた。明らかに警戒したような声、殺気にも近い気配。
わたしはゆっくりと立ち上がり、振り向いた。
「『上』が騒々しいようです、レティシア様」
わたしは薄く微笑みながらそう言った。
グレイが言うような穏やかさと、冷ややかさを含めた口調。そこに滲ませたのは、彼女に対する警戒心。
グレイは本心から彼女を信頼していたわけじゃない。ただ、居場所がそこにしかなかったから一緒にいただけだ。いつだって、いつか殺されるだろうと感じながら生活していた。だから、この警戒心は彼女にとっては予想の範囲内のものだろう。
レティシアの双眸は、さっきと同じで赤く染まっていた。
ただ、少しだけ色が薄くなった気がする。あんな短い間でも、少しずつ回復していくんだろうか。
わたしが彼女を観察していると、レティシアが無表情のまま続けた。
「何をした」
「何がですか?」
わたしは笑う。
そして、持っていたナイフを床に捨てた。必要なのはこれじゃない。こんなの、きっと役に立たない。木の床に落ちたナイフは、少しだけ優しい音を立てたような気がした。
レティシアが目を細める。何も見えないであろう瞳で、何かを見ようとする仕草をした。
無理だと思っているだけ?
本当にそう?
わたしは自問自答する。
レティシアにそう言われたから。そう、思い込まされたから?
自分が無力であると。わたしは何の役にも立たないと。
でも、それが違っていたら? わたしにも何かできることがあったとしたら?
もし、そうであるなら。
そうでなくても。
わたしは、彼女を殺さなくてはならない。
『グレイ』は自分を殺すことができない。そう彼女が思っている今しか、レティシアは油断しない。きっとそうだ。
だから、わたしが、今やらなきゃダメなんだ。
わたしはさっき中断していた魔法の呪文を、今、この瞬間に完成させた。
途端、激しい衝撃がわたしの足元から輪のように広がった。青白い文字列が、床を覆い尽くす。それは、グレイが作ったものと同じように、とても美しかった。
「お前」
レティシアが鋭く声を上げるのを聞いて、わたしは奇妙な高揚感を覚えていた。




