暖かい床
唇が震える。喉から腕へ、そして指先へと伝い落ちていく血を見ながら、わたしはただぼんやりとしていた。
そして、レティシアがその表情を僅かに引き締め、何かを見上げるような仕草をしたのが見えた。
「よく見えんな、誰だ」
そう呟いたレティシアの声には、初めて焦燥らしきものが見え隠れしていた。
レティシアの目は、さっきまで白濁していた。でも、今は赤い。血の色のようにも思える。
「僕です」
そこに、若干、慌てたような声が響いた。
グレイ――エアリアルの声。
わたしがかろうじて視線だけを声のほうへ向けると、部屋の扉のところに彼が立っていた。以前鏡の中で見た時と同じように、黒い服に身を包んでいる。短い栗色の髪の毛も、前と同じ。
彼はすぐさまわたしのそばに走り寄ると、その手でわたしの両足につけられた鉄輪に触れたようだった。
「レティシア様、僕がやります」
グレイは口早に言った。「あなたは死体に関する配慮がまるでない」
「グレイか」
レティシアは平坦な口調で応えた。「よくこの場所を見つけたものだな」
冷静さを取り戻したのか、レティシアの様子から全ての感情が消えていた。ただ静かで、無機質な声。
グレイはどことなく苛立ちを抑えきれない様子だったけれど、すぐに魔法の呪文の詠唱を始めた。すると、鎖がじゃらじゃらと音を立てながら下ろされていく。
床に身体が下ろされる感触も、酷く曖昧だった。感覚が鈍くなっているのかもしれない。ただ、床が暖かくて気持ちよかった。
「何で、布か何かで巻こうとか考えないんですか。鬱血してる」
グレイは自由になったわたしの両足に触れ、さらに魔法を使う。途端に、わたしの足首がじんわりと温かくなった。
「あなたは生きている人間には配慮を欠かさない割には、死体には乱雑に扱う。死体の処理なら僕のほうが慣れています。保管、保管、といつも言っていて、それでこの扱いですか。一応、これは僕の身体だったのですから、少しは」
「ああ、解った、好きにしろ」
そこで、レティシアが疲れたように手を上げて、歩き出そうとした。
しかし、彼女の足取りは心もとない。酷く疲弊しているといった感じで、一瞬だけその身が傾いだ。
「くそ」
彼女が悪態をついた。「魔力の使い過ぎだ。計算外だ」
「ああ、そうですか」
グレイはわたしの両足に手を置いたまま言った。「でも、何とか回復してもらわないと困ります。『上』では神殿の連中が色々やってます。僕がここへの入り口を探していた間、彼らも同じように壁に穴を開けようとしていました。おそらく、もう保たない」
「……お前が開けた穴も修復できていないからな」
「ええ」
彼の手のひらから伝わる熱。
わたしの足首から足全体、胴体、そして首の傷口。ちりちりとした感覚がその傷口に広がってきた。
治療?
わたしは少しだけ、意識がはっきりしてきたのを感じた。さっきまでの意識朦朧とした夢心地状態ではない。歪んだ視界がはっきりと見えるようになる。
すると、グレイはわたしを見下ろしてはっきりと言った。
「まだ死んでもらっては困る。この状態で死なれると、背中に血が溜まったままなんだ。もう一度、吊り下げないといけないんだから、もう少し生きていてくれ」
――何を言ってるんだろう。
わたしはただ茫然と彼を見上げ、口を動かす気力すら失った。
混乱していたのは事実だった。まさか、こんなことを言われるとは――グレイに言われるとは思わなかったから。
「いつもより傷口が大きい。レティシア様、あなたは」
グレイが詰問調でそう言いながら顔を上げ、レティシアを見ようとした。しかし、すぐにレティシアが煩そうに言葉を挟む。
「好きにしろと言ったろう。後はどうとでもするといい。私は少し休む」
そう言いながら、彼女は魔法を使おうとする。
彼女の身体が、魔法言語の帯に包まれた。そして、その少し後に光が弾けた。それは、魔法が完成する前に弾け飛んだように見える。
「……回復できん」
忌々しそうに呟きながら、彼女は手で額を押さえた。
そして、赤く染まっていた目が、さらに一気にその色を濃くした。目尻から流れたのは、涙ではなく血。血がその頬を伝い落ちていった。
彼女はそのまま、ゆっくりと歩き出した。何の支えもない盲人が歩くかのように、かなり慎重な動き。そして、隣の部屋へと姿を消した。
グレイはしばらく、ぶつぶつと悪態らしきものを吐いていたと思う。
そして、レティシアの気配が全くなくなったと思った頃、深くため息をついてわたしを見下ろした。
動けない。
少しだけ楽にはなったし、意識もはっきりしている。
でも、逃げることはもとより、身体を動かすなんてことすらできない。
「ごめん、遅くなって」
グレイはわたしの顔のそばに屈みこみ、苦しげに微笑んだ。「これでも、急いできたんだけどね」
「……さっきの、本気?」
わたしは必死に声を絞り出した。「本当にわたしをまた鎖につなぐの?」
グレイはすぐにその手でわたしの口を覆い、声を潜めるように視線で言ってくる。
「そんなに悪趣味じゃないよ。君はやっぱり、僕に偏見があるらしい」
「それだけのことをしたでしょ?」
「否定はしないけどね」
グレイが苦笑して、わたしもついつられて笑ってしまった。
それから、ぼんやりと天井を見上げたまま、こう呟いた。
「恐怖感が欠落してる、って言われたっけ。彼女……レティシアに逆らって、『あれ』を食べなかったのは失敗だったかなあ。食べたほうがよかったのかなあ」
「『あれ』って何だ。いや、いい。説明はどうでもいいんだ」
グレイはそう言いながらも、わたしの首筋につけられた傷口に手を当てて、さらに魔法の呪文を唱えた。
ちりちりとした熱は、さらに熱くなって広がる。
「……レティシアの魔法の傷は、僕にはふさぐことができない。時間がない」
「やっぱり死んじゃうんだ、わたし」
そう言った途端、脳裏に浮かんだのは。
お父さまとお母さまの顔。
クレア。
サイモンや学校の友人たち。レイチェル。
もう、会えないんだ。
そう思ったら、急に涙が目尻に浮かんだ。
「君は死なない。だから、もう少し頑張れ」
グレイが短く言う。
わたしは困惑しながら彼を見つめ直した。苦しげな表情の彼。でも、どこか安堵しているようにも見える。
「今、『上』では神殿の連中が魔法を使ってる。タイミングを合わせて僕も魔法を使う。じゃないと、いくら弱っているとはいえ、レティシアに気づかれてしまうからね」
「……何それ」
わたしがそう言った途端、グレイの魔法が完成した。
わたしたちの周りに、ドーム状に作られた魔法の壁。防御壁とは違う、言語の配列。
何だろう、これは。
そう思いながら魔法言語を読み解こうとした。しかしその前に、またグレイが魔法を使う。その途端、その魔法の壁がグレイの魔法の波動を包んで、この空間だけを閉じ込めようとする。
そしてわたしにも理解できること。
この壁は、レティシアにグレイが魔法を使っていることを気づかれないようにするためのものなのだ、と。
「少し衝撃があるかもしれない」
彼はわたしの頬に手を置いて言った。「君が意識を失いそうになったら、遠慮なく叩くから。死ぬなよ」
「……サドだって言われるでしょ、あなた」
「冗談言う暇があったら歯を食いしばれ」
「ちょ」
そして、凄まじい魔力の流れが伝わってきた。
悲鳴を上げそうになったけれど、それはグレイの手に覆われて声にはならずに消えた。
それは、圧倒的なまでの情報量。
頭の中に直接流れ込んでくる魔法言語。言語の羅列。たくさんの魔法の配列。
身体が痙攣した。意識が消え飛びそうなくらいの衝撃。
「余計なものも見えるかもしれない。それは忘れてくれ」
グレイが何か言っているのが聞こえる。
彼の言葉を理解するより前に、わたしの頭の中に叩きつけられてくる映像。交錯する記憶。
彼が知っている魔法の全て。レティシアから教えてもらった高度な魔法。わたしが学園では習ったことのない、魔法の呪文の構成。
そして、その合間に見え隠れするのはグレイの過去。
彼が見てきた光景。
「君に頼るしかないんだ。僕にはもう、どうすることもできない。だから、君がやるんだよ」
グレイが小さく呟く。
その時。
――お前専用だと言ったろう。
突然、頭の中にレティシアの声が。
――コーネリアスに関わっちゃダメよ。
その声。
それは。
――責任を果たせるか?
そして、血。凄まじいくらいの赤。
ああ、嘘でしょ!
こんなの、こんなのって!
「……グレイ」
わたしは声を絞り出した。
グレイはただ、わたしを静かに見下ろしていた。そして、薄く笑って言った。
「身体を交換する」




