ずれ始める普通②
「…………」
杞憂が穴に落ちてから数分、誰もいなくなった夢の世界。当事者の消えた森の中で一つ、ふわりと影が舞った。
「また会えなかった」
黒くぼやけた体を揺らしながら、影は苛立ちを見せつつ、悲しそうな声音で言う。
穴の傍まで来ると、ひんやりとした『地下』の臭いが鼻腔をつく。頭上から降り注ぐ眩しい光と、足元に潜む深い闇が自分を押し潰してしまいそうで少し怖かった。もし、この二つの世界で選択を迫られた時、きっと私はどちらにも逃げられないのだろう。
「……杞憂」
届くはずもないと分かっていても、どうしても呟かずにはいられない。むなしく吐かれた独り言は、しんとした森の中で悲しく響く。
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「……ッ゛でっ」
落ちて落ちて、地面に着いたと思ったときにはすでに外が明るかった。落ちた先は地中でも地球の裏側でもなく現実だった。窓の外からは、夢で見たあの光と同じものがさんさんと照りつけている。部屋の中で一人、ベッドから見事にずり落ちた自分は腰をひどく打ちつけ、しばらくその体勢のまま動くことができなかった。ぷるぷると手足がしびれ始め、そのうち横にぱたんと倒れ込む。寝起きだけのせいではない苦い顔をしながらやっとのことで体を起こすと今まで見ていた緑の楽園はもうどこにもなかった。あるのは見慣れた自分の部屋と無機質で硬いフローリングの床だけだ。
「……終わっちゃった」
突然現実に引き戻された自分は、乱れていた毛布を軽く整えるとまた布団の中に潜り込んだ。今、またすぐに眠りにつけばさっきの夢の続きも見られるはず。頭まで布団を被って視界を黒く遮り、自分は強制的に脳を睡眠モードへと移行した。……移行しようとして、天敵に見つかってしまった。
勢いよく引きはがされた掛け布団はそのままベランダへと連行され、直射日光の下に晒された。洗濯物を干しに来た母さんがついでに自分を極寒の世界へと誘いにかかる。肌寒い風が体を吹き抜けて思わず身震いした。
「杞憂、時間大丈夫?二度寝なんてしてる暇ないわよ~。もう7時過ぎてるけどちゃんと間に合うの~?」
あくまで穏やかに、のんびりとした口調で攻めるのが母のやり方だ。といっても、母は元々温和な性格なので、(行動は少し荒っぽくても)めったに怒ることはない。
「……んあ?いいんだよもうきょう学校休むから……頭痛い」
「んも~それ仮病でしょう?いいから学校行きなさい!遅刻したら許さないからねー」
「いやだああぁからだがだるいんだってばあぁあぁああつらいんだようううぅぅうぉぉおおぉぉう」
けったるさを全身で表しながら抵抗するが、母の前ではそれは無力に等しかった。体を壁に支えさせながら階段を下りると、リビングからはすでにできあがっているであろう朝食の香りがふわふわと漂ってくる。今日のメニューはきっとベーコンエッグだ。コーヒーのほろ苦い香りが少しだけ目を覚ましてくれた。
「先に一緒に作っておいたんだけど、今日はそれでいいわよね?」
後から追うように階段を下りてきた母さんが後ろから声をかける。
「ん、別にいいよ。自分これ好きだもん。どっちにしろ、今から作り直せって言っても聞かないだろうし勿体無い」
「それはそうなんだけどね~」
時間も時間だったので、少し急いで胃に朝食を詰め込む。思いのほか熱かったコーヒーに苦戦しつつも、ものの数分で食べ終わった。意外にも、自分は今まで遅刻はほとんどしたことがない。いくら時間ギリギリでも必ずチャイムが鳴り終わるまでには教室に着くのだ。なので、何があっても遅刻だけはあってはならない。謎のプライドが自分の一番の原動力になる。
手際よく制服に着替え、歯を磨き鞄を肩にかけると、慌しく玄関に向かう。
「いーてきまー」
「いってらっしゃーい」
母さんの相変わらずのんびりした声を聞きながらドアを開けた。煌々と輝く太陽の光が、さっき見た夢を思い出させる。木曜日は嫌いではないが、今日ばかりは少しだけこの清々しい朝を恨んだ。
「おう、絵梨香じゃないのよ」
チャイムが鳴る遅刻ギリギリの数分前。自分の席に座り本を読んでいた絵梨香を見るとなんてことはなく前の椅子に座り、なんてことはない挨拶をした。絵梨香は本から目を逸らさずに答える。
「おう、じゃないでしょうよ。今日もまたギリギリだね。何でいつもいつもそんなピタリ賞を狙おうとしてる訳?何の得にもなりゃしないってば」
読書の邪魔をしたせいか、それとも朝のせいか、絵梨香は少し機嫌が悪かった。朝は基本テンションの低い絵梨香だが、今日はいつもと何かが違った。まるで苦いものでも食べたかのように眉を寄せて淡々とページをめくっている。
「……絵梨香、なんかあったの。もしかして自分、変なことした?怒らせちゃいましたか!?昨日の事なら謝るから……」
「違う。ちょっと、嫌な夢を見てね」
そういうと絵梨香は、大きくハァっとため息をついた。普段は大人しめで控えめのあの絵梨香が夢を見ただけでここまで分かりやすく不機嫌になるとは、相当な悪夢だったのだろう。多分、絵梨香はこの夢の話を自分にしたがっている。と、心の中で推測した。
「ほうほう、そいつぁよかった。どうやら自分の事で怒ってるんじゃないんですねぇ。……お話くらいならお聞きしますよ、奥さん?」
「もう、そうやってすぐ調子に乗らないでよ!私にとってはすごく嫌な出来事だったの!久々に見た夢がこんななんて最悪……!」
ついには本を閉じて机に突っ伏してしまった。これはかなり参っているようだ。さっさと話を聞いて絵梨香のこのもやもやを解放してやらないと、いずれは自分まで被害を被ってしまう。最悪の場合、昨日手付かずのままほったらかしにしてしまった課題の答えを写させてもらえないかもしれない。それだけはどーしても避けたい。と、色々思考を巡らせていると、校内にチャイムが鳴り響いた。
「んじゃ絵梨香、その話はまた後で聞いてあげるから!そだ、あとで化学のノート見して!」
「んもう知らないよぉ帰りたい……」
申し訳ないけれども、絵梨香の悲痛な嘆きを背中で聞きながら、自分はレアな彼女の一面を見れて少しだけ面白いなと思ってしまった。
「で、一体奥さんはどんな悪夢をご覧になったんですか?」
お昼休み。自分は朝と同じように絵梨香の前に座り、お弁当を広げた。朝食のメニューに卵が使われていたせいか、いつもの卵焼きの姿はなかった。そのかわり、とでもいうように卵焼きの定位置には占いつきのプチグラタンが入っている。
「どんなって……そんな簡単に話せることじゃないし」
目の前に座ってコンビニのおにぎりをほおばる絵梨香は相変わらず不機嫌だった。というより、今は落胆して力なく昆布にぎりを口に運んでいる。どこまでもめんどくさいやつだと一瞬思ったが、そこはいつも自分のわがままなり何なりに付き合ってもらってるし、お互い様かとは思う。
「んまぁまぁ。怒りや悲しみ、喜びを分かち合ってこその親友というものだよ、絵梨香君。その、昨日見た夢だって自分に話せば少しは軽くなるかもしれん。ほらほら遠慮せずに話してみなされ」
「……そうだね、杞憂の言うこともまぁ一理あるかも。たまーに良いこと言うよね、杞憂」
「たまにって何だ!自分はいつでも良いこと言おうと思えば言えるぞ!字書きなめんな!」
「あはは、そういえばそうだったね!そうだ、杞憂もうあの小説は書いてないの?何だっけ、えっと、クリエイ……」
「『クリトラ』か。もうあれは完結したから手付けてないかも。今はちょくちょく絵描いてるだけだし。……じゃなくてですね!」
「分かってるよ、夢の話。するよ」
一呼吸おいてから、絵梨香はペットボトルの紅茶を一口飲んだ。喉を潤すと、間をおいてもったいぶるように話す。
「……実はね」
「うん」
「私の……」
「うむ」
「…………」
「……うん?」
「死んじゃうの」
「え?」
そこまで言うと、絵梨香はうわあっと顔を覆った。
「私のペット!大事にしてたペットが死んじゃうの!マキちゃんが!あんなに元気だったのに突然だよ!?もう、もう悲しくて悲しくて……!!あんまりにリアルな夢で、本当にマキちゃんが死んじゃったかと思って、朝起きたら、起きたら……!」
「ちょ、ちょい絵梨香ストップストップ!そんな突然取り乱されても困る!!」
内心「なんだそういう夢か」とも思ったが、もちろん口には出さなかった。絵梨香があまりに本気で泣くものだから、どんな夢かとか、からかってやろうとかいう感情もいつの間にか消えていた。
「だって、だって、小さいころからずーっと一緒で、いつもいつも遊んでたのに、突然……すごく、生々しかったし。マキちゃんの体が冷たくて、呼んでも起きないの。本当に怖かった……あれは正に悪夢だよ」
「……なるほど。マキちゃんって、絵梨香が飼ってる猫だよね?そりゃあ悲しくはなるだろうけど……でも、別に事故に遭ってとか、誰かに殺されてとかそういうことじゃなかったんでしょう?」
「……多分。家の中で、いつものベッドで寝てたから名前を呼んだの。何の返事も反応もなくて、絶対に鳴いてくれるはずだったんだけど。触ったら、冷たくなってて、それで分かっちゃって」
「うーん。生き物ってのは、いずれかは死ぬんだよなあ。それが遅いか早いかの違いだ。……それに、悪い夢ってのは案外現実で良いことが起こることの前触れでもあったりするらしいし。まぁ良かったじゃない?今、それが現実に起こらなくて」
途中で絵梨香の顔が沈んでいくのが分かった。しまった、と思いすかさず少しばかりの励ましの言葉をかけてみたが、あまり効果はなかったようだ。自分でも何故か意識していない言葉がふと出てしまった。
「ごめん、絵梨香。なんか、自分から話振っといて悪いこと言っちゃって」
「ううん。いいよ杞憂。杞憂の言ってること、間違ってないしね。なんか今日の杞憂変だよ。良いことばっかり言うもん。……良いこと?っていうか、哲学的なこと言うね」
「へ、そうですかい?なんか自分もおかしいなって思ったよ。哲学的……てのはよく分かんないけど、自分が意識してないことをどんどん言っちゃうんだよなぁ」
「うーん、それは何でか知らないけど。そうだね、マキちゃんもいずれはいなくなるんだもんね。その時悲しまないように、って練習させてくれたのかな、マキちゃん」
「きっとそうだよ。どうしても止められない運命なんだから、目を逸らさずに向き合ってくれってことじゃない?」
そこまで言って、今度は自分がハァっと大きくため息をつく番だった。こんな重い話になるとは思っていなかった。気がつけば、お弁当のことはすっかり忘れていた。
「ううむ、昼休みが終わる前に食べ終わらなくては。絵梨香も早くご飯食べて自分にノート見して!化学の!」
「えっ!杞憂また課題やってないの!?昨日また帰ってすぐに寝たわけ!?」
「違うわ!ちゃんと風呂入ってご飯食べて寝たわ!」
「結局寝てんじゃないの~~!んもう杞憂ってば本当に~~!」
なんやかんやと文句を言いながらも、絵梨香はノートを渋々見せてくれた。さすが自分の信用できる親友。絵梨香のこういうとこが自分は好きだ。
「全くもう、ちょっと褒めるとすぐ調子に乗るんだから~~……せっかくいい話してくれたと思ってたらすぐにこんななんて……!」
「お、見ろ絵梨香!今日の運勢星5つだぞ!『懐かしのあの人に会えるかも!?』だって!」
「そんなこといいから先に食べてノート返してよ!」
「よかったよかったー。間に合ってホントよかったー」
「誰のおかげだと思ってるの?後半のページは私も手伝ったよね?」
「ははーっ、絵梨香殿には頭が上がりませぬー。この御恩は一生忘れませんー」
「忘れないだけじゃなくて、今度おごってね。昨日の分と一緒に」
「……ですよねー」
放課後、帰りの商店街。そういえば昨日もこんなような会話があったような気がする。デジャヴ?
「いやあでもまじめに助かった。ありがとう絵梨香」
「どんどん感謝していいからね」
「これからもそうさせてもらいますですー」
なんてことはない会話を展開させながら、寒さの強まった商店街を歩く。吐く息もほわんと白い。家族連れやカップルが、だんだんと近づいてくる年の終わりのように早送りで見えた。ただ単に、自分の歩くペースが遅いだけかもしれない。絵梨香は自分のペースに合わせて歩いてくれてるけども。ぼーっとしながら街の様子を眺めていると、隣で自分の名前を呼ぶ絵梨香に気がつかなかった。
「ちょっと、杞憂?何考えてるの?聞いてる?」
「お、おおうごめん。何にも考えてなかった。なに?」
「んもう……そういえば、私は今日散々な夢見てたなぁって思ったけど、杞憂はなんか夢見てないのかな?って気になってね」
「お?夢かぁ。それ自分に聞いちゃう?」
「なになに、もしかして杞憂も変な夢見たの?」
「いんや。自分はですね、今日はとてもよろしい夢を見たのでございますよ」
「へえぇ……っ、ねえねえどんな夢?正夢になりそう?」
「いやあ、あれはならないわ!まさに夢の世界って感じだもん!楽しかったですけどもね?」
「えええいいなあ、私もそんな夢が見てみたいよ~。羨ましいなぁ」
あっという間に、いつも絵梨香と別れる駅まで来てしまった。もうちょっと夢の話をしたいけどなぁと思ったが仕方がない。その話はまた明日、お昼休みにでもすることにしよう。
「ほんじゃまた。明日ねー、絵梨香」
「うん、じゃあねー……あっ」
改札を通る前、絵梨香は何かを思い出したように振り返った。
「そうだ……杞憂、杞憂はもう、あの声は聞こえないの?」
唐突に投げかけられた質問に、自分はどう答えたらいいか一瞬迷った。久しぶりに聞いたよ、その単語。
「……いや。もう聞こえないよ。きっと、いなくなったんだと思う」
「そっか。ごめんね、変なこと聞いて」
ホームに電車が着き、人がわさわさと入れ替わる。絵梨香の姿は、会社帰りのサラリーマンや帰宅途中の他の学生に混じって見えなくなった。邪魔になるといけないので、自分も改札を離れ家の方向に歩き出す。踏み切りの音は、何故か自分の耳に届かなかった。




