異端児の日常
気がつけば、いつの間にかそこにいた。
いつごろからここにいるかは分からないが、多分ついさっきごろからいたと思う。
あたり一面真っ白な無の空間に自分は漂っていた。正確には、「真っ白な無」という名の有がある空間ではあるが。
上も下も右も左も不確かなその景色を見て、これは夢の中だと思った。そして、しばらくその場でふよふよとした浮遊感に浸っていた。
遥か遠くから何かが聞こえる。誰かを呼ぶような、叫んでいるような声にも似たそれが自分の耳に響く。不意に、視界に黒い点が現れる。黒点はだんだんとその大きさを増していく。それが自分へ向かって飛んできていることに気がついたのは、その点自体が音を発しながら自分に近づいていたからだ。
慌ててその点を避けると、そこで初めて黒点がただの黒点ではないことが分かった。黒点だと思っていたそれは、ある文字の塊となって自分に飛んできていたのだ。
「……杞憂??」
大きな『杞憂』という文字がどんどんどんどん飛んできた。きゆうきゆうと音を出しながらびゅんびゅんと自分の周りを通り過ぎていく。すごい速さで横をすり抜けていくものや、のろのろと足元を漂うものもある。自分を呼ぶ声がだんだんと大きくなる。思わず耳を塞ぎたくなるような騒音に耐え切れず、目をつぶってこの夢が覚めることを祈った。
「うるさいなぁ、もう!いい加減にしてよ!」
ばこん。
杞憂という文字の一つが後頭部に直撃。頭部に鈍い衝撃をくらい、意識がとんだ。真っ暗になっていく視界の向こうに、見慣れない赤黒い光を見た。
「杞憂、杞憂ってば!杞憂!」
ゆさゆさと体を揺らし必死でその人の名前を呼ぶ。一向に目を覚まさない友人に痺れを切らし、つい手が出てしまった。気持ちよさそうに寝息をかいているところ悪いが、頭部に一発、教科書を丸めた一撃。
ばこん。
「ッンア!?」
「あ、や~っと起きてくれた~~よかった~~!」
「……はひ?なになに何が起きた?」
目を覚ますと、ぼやけた視界の中に困った顔で教科書を構える友人の姿があった。……そうか、たった今夢の中で受けた衝撃はおそらくこの教科書のせいだろう。直感で分かった。眠気を振り払うために勢いよく頭を振るが、教科書丸め攻撃が地味に効いているせいでじんじん痛む。周りは既にもぬけの殻で未だ教室に残るのは杞憂と少女だけだった。
「んも~~杞憂ってば呼んでも揺すっても全然起きないんだもん!次の授業音楽室だよ?早くしないと遅刻になっちゃうんだって!」
「ほー……遅刻、か。音楽、おんがくおんがく……」
念仏を唱えるかのようにぶつぶつと呟く杞憂に、早くしてよと少女がせかす。
「ちょ、ちょっと本当に早くして!もう授業開始まで5分切ってるんだよ!?私先に行っちゃうよ!?」
「まぁまぁそう焦るなよ、絵梨香君。人生急がば回れというじゃあないか。ここは急いだところで何もならないさ。……もうちょっと待って急いで準備するから」
「やめてよ杞憂!私まで一緒にお小言言われたくないいぃ!!」
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「ほれ見ろ、やっぱり急ぐ必要なかったじゃん。自分の言う事に間違いは無かった!」
「嘘つき!あれで先生が遅れて来なかったらどうしてたわけ?本当に冷や冷やしてたんだから……!」
――放課後、学校帰りの通学路。
先程の事件(?)のことを思い出し、いつも通る道を二人並んで帰る。結局、音楽室にぎりぎりで滑りこんだ杞憂と絵梨香はまだざわついたままの教室の中、いそいそとそれぞれの席へ向かった。先生が来たのはその数分後である。絵梨香はほっと安堵の表情を見せ、杞憂自身もふぅっとため息をついた。その件に関して、どうやら絵梨香は少々ご立腹のようだ。
「あはは、ごめんって!今度なんかおごるからさ、許してちょーだい!」
「まったく……。杞憂のマイペースっぷりにはいつもドキドキするなぁ。なんていうか、本当に周りと合わせる気が無いっていうか、自己中というか……ううん、とにかくマイペースが度を越してるよ」
「そうかなぁ?そこまで言われるほど自分もマイペースじゃないと思うんだけど……絵梨香が言うんだったらそうなのかなー」
はてなと首をかしげながら杞憂は絵梨香の顔を見る。彼女は心底呆れたような表情を見せた。
この少女、昔からの付き合いである横井絵梨香は、自分の良き理解者であり、また第二の保護者のような存在でもあった。中学入学の時、同じクラスの隣の席になってから付き合いが始まり、そこから高校にあがるまでずっと同じクラスのままの運命共同体みたいな関係だ。今、この葉田杞憂が散々な評価を言われたように、自分は昔から普通の子とはどこか違う『ちょっと外れた子』だった。マイペース過ぎとか不思議ちゃんとか変人だとか、それからあまりクラスの中で目立って話題に上がるような人間ではない存在だ(一人称が「自分」というのも周りからはあまり好評ではなかったようだ)。
絵梨香は、そんな自分といつも仲良くしてくれた。休み時間は大体2人でおしゃべりし、昼食も毎回二人で食べるし、帰りもたまたま方向が一緒で途中まで二人一緒に帰る。自分と絵梨香は、もしかしたら切っても切れぬ縁で繋がっているのかもしれない。
「うん、杞憂は昔から何言ってんだろうって事よくあったから。私自身は別にそこまで気にしてなかったけど、他の子とかはやっぱり……ね」
「んむ。やっぱそんなもんなのか。まぁ自分も特に気にしてないし、いっか。」
その後もたわいも無い会話を何度か繰り返し、しばらくして駅に着いた。絵梨香とはここで別れる。自分はこのまま歩いて家まで向かう。これももう見慣れた光景だった。
「じゃあ、また明日ね!」
「おう、じゃーねー絵梨香ー」
駅のホームに向かう絵梨香の後ろ姿を見送ってから、自分も歩き出した。カンカンという踏み切りの警告音が後ろから追いかけてくる。鴉の鳴き声と相まって、少し耳が痛くなった。
「ただいまー」
「あら、おかえりー杞憂」
時刻が6時半過ぎを回ったころ、自分はやっとこさ帰宅した。リビングからは母さんの呑気な返事が返ってくる。キッチンに向かおうとリビングに入ると、中でソファにくつろいでいた母さんと目が合った。
「あぁ゛づかれだ、ご飯まだ?」
「んもう、ホント杞憂は食べることしか考えてないのね。もうちょっと休んだらすぐ作るわよ~」
「いやっ、いやいやいや自分だって他にももっと色々考えてるよさすがにそれは無いよ!」
タイミングが悪いだけだよ、と言おうとする自分をまあまあとなだめる母。
「とにかく、そんな急かさなくても大丈夫よ~。どうせすぐに作れるし。それに今日は杞憂の好きなとんかつだからね~」
「うえっホントに!?やったああありがとう母さん!!」
帰宅後の葉田家の日常風景でした。ちゃんちゃん。
風呂と夕飯を済ませた自分は2階の自室でベッドに寝そべっていた。最近はテレビを見ることが少なくなったので、学校から帰ってくるといつも自分の部屋にこもる。そのせいでアニメやドラマが溜まりに溜まっているのだが、中々消費する気分にはなれなかった。そして部屋に来ても特にすることは無いので、そのうちぼーっと寝っ転がるのが日常茶飯事になってしまった。机の上に広げたままの課題は無かった事にする。
「はー、今日も疲れましたなぁ」
昔から独り言がうるさいせいで、周りからはよく白い目で見られていた気がする。母さんはただ「独り言が多いとそのうちはげるわよ」としか注意しなかったから別によかったのだが、絵梨香は「またそうやって変なこと言ってると目つけられるよ?」とかなり念を押していた。変人を否定するわけではないが、そこまで酷く心配されるとちょっと不安になる。
「ああ、早く土曜日がこないかな。週末がこないかなー。週末が終わらなきゃいいのにー……」
こんなような事をいつも言っているものだから成績も伸び悩むのだ。どーーしても勉強には手をつけたくない。あの椅子に座ったら負けだと思う。
そう。今あの椅子に向かったら負け。ここから動いた時点で、恐らくK.O……
「動いたら……負け……ま……」
典型的なクズ発言をもにょもにょ呟きながら、自分はそのまま深い夢の世界に連れて行かれた。




