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自分だけの物語

あなたが生まれたことで、私が生まれた。

私が生まれたことで、あなたが生まれた。

お互いが、お互いの存在を生み出した。

「あなたは私。だけど私はあなたじゃない」

そう言ったあなたは、結局私自身だった。





あなたの意識から生まれて。

あなたの無意識がそうさせて。

自分でもよく分からないけど、きっとあなたのおかげで自分が生まれてきたのだろう。

自分の意識が、あなたを意識させたのだろう。

ありがとうという言葉をかけるのもおかしな話だろうか。

生憎、自分自身にお礼を言えるほどの自信は持っていないのだ。






***********






「こんにちは」

「こんにちはー」

 病室に入ってきた篠田先生と軽い挨拶をして、自分は机上にばらまいていた紙やらペンやらを急いでまとめる。先生はそれを不思議そうに見つめてから、絵描くのうまいね、と言った。

「杞憂ちゃんすごいね、将来は漫画家にでもなるのかな?」

「そそそそんなことできるわけないじゃないですか!ああいや、もう全然下手くそなので!やってみたい気もするけど無理ですよ!」

「いやあ、夢は諦めなければ叶うってよく言うだろ?君ならきっとなれるんじゃないかなあ」

「……絵は描かないで、ストーリー考えたりするのなら好きですけど……」

 褒められたことが嬉しくて照れながらスケッチブックを棚の方にどかした。先生はそばにあったパイプ椅子を自分の方へ持ってきてそこに座った。

「まあ……なんていうか、君のご両親にはこの話はしたのだけど」

 突然始まった大事な話とやらにぴくっと肩を震わせて、改めて先生の方に体ごと向き直す。

「この前の検査結果を見て、何となくだけど、君の今の状態と傾向を調べてみた。……それでもまだ、現段階でどういう病気だ、という断定ができない。似たようなケースの患者さんのデータと比べてみて、そこから治療法を考えるという感じです」

「……原因不明の」

「うん。それにあたって、近々新しい治療を始める予定です。お母さんは、その治療をすることに関してはもう承知してくれている。僕たちも、なるべくなら早く君の元気な姿を見たい。でもやっぱり治療にあたって、それなりの苦労は、色々とあると思う」

「でもやらなかったら病気が悪化するんじゃ?」

「それを抑えるための治療でもある。だから、そうだね……今更こんなことを言うのはあれかもしれないけど、最終的な判断は君に任せるということで」

 そんなの本当に今更じゃないか。たった今、そういう話をされたばっかなのにここで自分が治療しませんとでも言うと思ったのか?

(……そういう人も、もしかしたらいるのかもしれない)

 ううむ、と一瞬考え込んだあと、自分はぐっと顔を上げて篠田先生を見た。

「やります。お願いします」

「……分かった」

 最善を尽くそう。そう言って先生はまた頭を軽くなででくれた。その手がふと、父の手に似ていると感じて、思わず涙が出そうになった。頑張って堪えたけど。

「早ければ明日からでも始めたいと思うから、……ああでも夜ご飯の前はあれか、夜の八時前後にこの部屋を移動するつもりで、荷物を軽くまとめておいてくれると助かるな。看護師さんも来て手伝ってくれると思うから少し協力してほしい」

「はい、どうせ荷物あれだけだしまだ全然元気に歩けます」

 点滴ペットを軽く揺らして、自分は努めて明るくそう返した。






 知っていたよ。

 なんとなく、分かっていた。彼や、彼らの顔を見れば分かる。この先の自分の未来は、そのたくさんの可能性をいっぱいまで薄めてしまって掻き消してしまったようだ。自分の身を案ずる、そんなことも時々馬鹿らしくなるくらいに心は廃れていて、何だか少し悲しくなった。

 この先何があろうとも。きっとその「何」がも特に何もないんだろうか。冷めているような、どこか客観的に己の死、というものを見つめる自分がいた。

 怖くないと言えば嘘になるが、恐れていると言えばそうでもない。

 ……移動した先の部屋は手術室やナースステーションが前よりも近く、何かあっても先生がすぐに対応できるような部屋だったが、階数が下がったため窓の外の景色は高層ビル群に隠され、とてもじゃないが素敵だ、と言えるようなものではなかった。






***********






「………………」

「……うん、うん」

「……うぅ、う、ぐすっ」

「……ごめんね、ごめんね」

「……どうしてもダメなの……?ねえ、智杞……」

「……うん、わか、っ、分かってる、わかって、からっ」

「……会いたいの……また三人でお出かけしたいの……」

「…………ごめん、ごめんなさい、ぐす、最後まで頑張る、頑張るから」

「『気を付けてね』」






***********






 私は今まで、彼女という存在が自分にとってどれほど大きかったかということをよく分かっていなかった。いつでも一緒に隣にいたから、これからもそれが当たり前で、彼女が馬鹿なことを言ってボケて、私がそれにツッコんで、そんなことがまだ続くのだと、それが普通なのだと錯覚していたから、その「普通」が崩れた瞬間、私は改めてどうすればいいのか分からなくなってしまったのだ。

 彼女は――杞憂は、前と比べてすっかり大人しくなってしまった。それはもう、別人になったかのように。話していても以前のような元気でうるさすぎる返事が返ってくることが片手で数えられるほどになった。どこか抜けていてぼけっとしていて、まるで私の声が聞こえていないかのような、心ここにあらずというか。それが薬の副作用の症状だということに気づくのは決して遅くはなかった。

 時々彼女が言うのだ、「ごめん、寝てた」と。これが冗談でないことはもちろん分かっている。会話をしていても、さっきまで普通に話していた杞憂はしばらく私がしゃべり続けていると、気付かぬうちに目を閉じている。これには毎回どきっとさせられていて、そのたびに私は思わずベッドの横に仰々しく置いてある大きな機械に目をやって、杞憂の体に何か異常が出ていないかと心臓を慌てて動かしているものだ。

 杞憂のお母さんの話を聞く限りでも、やはり彼女は以前よりも遥かに起きている時間が短くなっているそうだ。夜、早く寝ていることに関してはアレだが、時には夕食前に眠っていることも多くなっているらしい。彼女は過去に、あまりお腹がすかなくなったんだ、これで痩せるよやったねなんてのんきなことを言って私を笑わせてくれたこともあったがそれも今ではつらいものになった。時間を見つけて会いに行くたびに杞憂の顔がすっきりしていくのが分かって、私はなんて声をかけてやればいいのかと迷った。

「ごめんね、いつもいつも来てもらっちゃって。こうやって友人と話せるっていうのがどれだけ心の支えになってるか……っていうか、自分いつも途中で寝てるもんね、話せてないよねごめんね」

 彼女らしからぬそんな謝罪の言葉を聞くたびに私の心がきゅっと絞められるような感覚に陥る。

 いいの、いいんだよ、私も早く学校で杞憂と会いたいよ。そう言うしかなくて、己の不甲斐なさが悔しくて仕方なかった。私が弱気でいたら一体誰が杞憂の支えになってやれるというのだろうか。私はなるべく、杞憂の前では泣くことを我慢していた。少なくとも杞憂や杞憂のお母さんは、きっと私以上に涙を流しているのだろうから。親友の苦しさ悲しさを受け止めてやってこその私、絵梨香なんだ。






***********






 あれから時々、不思議な夢を見るようになった。

 ……おそらくそれは杞憂たちがよく言う「夢」というものとは違うのかもしれない。人間のように睡眠を取ることがないこの体で見るこれは夢というより予言や暗示のようにも思える。

 真っ暗、というかただの黒。辺り一面黒。塗り潰すよりも難しい漆黒の風景の中に、真っ白の十字架が無数にある。浮いていたり、地面に埋めてあったり。しかしここには地面という概念がない。音もなければ光もない、まるで平面に存在するかのような単調な世界。そして私はそこに浮いている。地面がないから浮くという行為もまた定かではない。でもそこにいる。くっきりと黒に浮かび上がる白の十字架を見ると、それがまるで自分の墓のように見えて、そんな大小さまざまの墓標を見渡して、何とも言い難い気持ちになる。

(誰の墓なのだろうか)

 考える、ということは地味に頭を使う。それでも何か考えていないと、この真っ暗闇の中に吸い込まれて混ざってしまいそうだ。自我、意識を持つことは大事だ。

 そこまで考えて、そこで初めて自分の体には色がついているのが分かった。見慣れた薄茶色の服に真っ赤な髪。なるほど、これならもし闇に吸い込まれても己を見失うこともなさそうだ。






 ……そこでふと、私は元の世界に戻る。いわゆる杞憂たちがいる世界。気が付いたらそこに戻っている。何故なのかは分からないが、そんな体験をすることが多くなった。

 相変わらず杞憂は時間帯を無視して眠っている。それはいつもの寝坊の類ではない。治療が始まってからの杞憂の生活はそれまでのものとは一変してとても慌ただしくなった。急な体調変化を起こし一日中看護師や先生がつきっきりで病室にいたこともあったし、酷いときには身体機能が著しく低下して集中治療室に入れられるなんてこともあった。だから眠っているこの時間だけは、杞憂にとってはまだ安らげる時間なのかもしれない。まあ、その分杞憂が私を意識する時間が短くなるということで、私自身の存在も消えかけているようなそんな状態になるのだが。

『…………』

 杞憂が私を意識しなくなったとき。意識体として、私はどうなる。

 杞憂はおそらく、自分の死を何となく感じ取っていると思う。先が長くなさそう、というのも直感で分かっているようなそんな気がする。その杞憂が、私を生み出した「意識」の持ち主が、もしも死んでしまったら。その時が来たら、私はどうなるんだ?

 一般的に考えてみれば、杞憂の死と共に私も消える。その存在は消えてなくなるわけだ。それに対して私は、怖いとか不安だとか悲しいとかそういうことは思わない。そもそも感情というものをよく知らないからだ。杞憂がいなくなって、私もいなくなる。杞憂の母や友人の絵梨香なんかには悪いのかもしれないが、私にとっては実質、この世界から一人の人間がいなくなる。それだけの話だ。特に何も思うところは、ない。はずだ。

「…………」

 突然、寝ていたと思っていた杞憂がむくりと体を起こした。ゆっくりと目を開いて瞬きをすると、携帯の画面で時間を見て、辺りを少し見回して、そばに置いてあった私物の手提げからいつものスケッチブックと小型のノートパソコンを取り出し、おもむろにパソコンを立ち上げて何か作業をし始めた。寝起きにしては手先の動きが機敏すぎる。もしかして私が気付くちょっと前から起きていたのだろうか。ただ無心にカタカタと文字を打ち込んでいる。それを見てなぜか声が掛けづらくて、しばらく私は黙ってその様子を見ていた。




「何かあった?」

 抑揚のない声で、こちらを振り向かずに彼女はそう言った。それが私に向けて放たれた言葉だと理解したのはそれから少しした後だ。

『……あ?』

「そこにいるでしょ。久しぶりに見たからびっくりしたよ。最近はあんまり近くにいなかったっぽいじゃない?また勝手にどこか行ったんだなーって思ってた」

 声のトーンも大きさも前とは明らかに違う。元気がないというか、生気が感じられない、そんな印象だ。

『……いや、一応そばにはいた。お前がそうしろと言ったからな』

「いなかったじゃん……自分、いつもいつも寝てるわけじゃないし急に目が覚めることもあるけど、その時ノイズいなかったよ、絶対」

『……夢を、見ていた』

「んん……?」

『夢とは言わないかもしれない。でも、何だか不思議な体験をしていたことはあった。多分、杞憂が私を意識しているのに私が現れなかったのはそのせいじゃないかと思う』

「ふうん……?」

 久しぶりの会話にどう受け答えすればいいのか分からない。まるで赤の他人にでもなってしまったかのような気まずい沈黙が流れる。その間も、杞憂はずっと手先を動かすことをやめないで視線をパソコンの画面から外すことはしなかった。何をしているのか気になって尋ねようとした私を遮り、彼女は話し始めた。

「自分、この調子じゃああともう少しで死ぬよね」

『それは、……』

「ちょっとね、色々と話しておきたいことがあるんだよ。そうなる前に。いつぽっくり逝くか分からないじゃない?今ちょうど体調もいいしこういう時ぐらいしかチャンスが無いからねえ」

『…………』

「まあ、なんていうかー……ああ、そんな真面目な話は出来なかった。どうせなら、ノイズとはもっとどうでもいいくだらない話の方がしたかった。その方が楽しそうだ。学校で絵梨香とかと話すみたいな、そういう何でもない日常の話の方がなんか、話しやすいね、はは」

『ああ、きっとそうだな。その方が私もお前を馬鹿にしやすい』

「言ってくれるなあ!そうだよ、で、もっとノイズと創作の話もしたかった。ノイズは相棒みたいなものだから。自分が今まで色々考えて生み出してきた、それら全部とまではいかないけど、それでもノイズのおかげで自分の世界が広がったのは確かだ。ノイズがいたから、色んなお話が思いついたし色んなキャラクターが生まれた」

 そう話す杞憂の顔は段々と、ここ最近見ていなかったとても楽しそうな顔になっていく。

「だからさあ、ちゃんとお礼が言いたいのよ。今更になってこう改めて言うのも恥ずかしいけど、やっぱりノイズにはお世話になったしね。もちろん他の人にもちゃんと挨拶してるよ。ありがとうありがとうって。それにノイズは特別だから。ずーっと昔から、自分と一緒だったから。一心同体ってこういうことを言うのかもしれないね。うん、ありがとう」

 ありがとう、とそう言った時の杞憂の顔は二度と忘れることはない。その時だけは手を止めて、こちらを向いてふっと儚げな笑顔でそう言ってくれた。その顔が何とも印象的で、あるはずのない私の胸の内を強く締め上げる。それくらいに優しくて悲しい笑顔だった。

「それでね、今書いてるこの話、前にも言ってたあの新しい創作のやつね、ちょっとずつ書いてて、あともう少しで完成するんだ。いや、自分が死ぬ前にはなんとしてでも必ず完成させる。何があっても絶対に。だからこの話が無事に完成したら、ノイズに一番最初に読んでほしいの。原稿の状態でじゃなくて、ちゃんとしっかり製本された状態でね。本として完成させてから読んでほしいの。ああ、だから今は見ないでね!誠意執筆中だからネタバレ禁止!……絵梨香よりも先に見せてあげるってんだから心して待っててよ?是非ノイズから感想をもらいたいんだ……」

 杞憂の、「意識されたい」という思いが、ここまで強く伝わったのは初めてだ。だからだ。だから今日は、杞憂の会話のテンポも、私への意識も、いつも通り、いやいつも以上なのだ。彼女は昔から創作が好きだった。そうじゃないか。それが彼女の生きる糧となっていたのだ。それが彼女をここまで強く、執念深く生かしていた根源なんじゃないか。

『そうだな。そうする。お前があの時よりどれだけ文章能力が上がったのか、とくと見させてもらおう。……ならば本が完成してもすぐくたばってもらったら困るな。私が読み終わるまでは元気でいてもらわなければならない』

「あ、ああ、うん……そうだね、うん。まあ……頑張るよ、ね」

 その時の私は杞憂の微妙な表情の変化に気付けなかった。しかし、この日を境に私と杞憂はまた以前のようにお互いを強く意識し始めた。

 そして私は、無意識のうちに自らの生きる意味を決定づけられていた。






***********






 月日が流れる、という感覚は私には分からない。日が昇って、日が沈んで、また昇って、と何回か繰り返したある日、その日は特別な日だった。12月3日、杞憂が17歳の誕生日を迎えた日。この時点で入院してから既に一ヵ月ほどが経っていた、らしい。

 杞憂の母や絵梨香、あの担当医の篠田という男も皆病室に集まり、ささやかながらお祝い会が開かれた。偶然か否か、その日は珍しく杞憂も朝早くから目が覚め、途中で体調が悪くなることもなく楽しそうに笑っていた。今までで一番静かだけど一番心に残る誕生日だったと、後で私にそう話してくれた。

『ところでさっき、絵梨香と何を話してたんだ?』

 ただこの質問に対してはううんと困ったような顔をして、まあ色々とね、と言葉を濁して返事をした。






「うーん、はいこれ」

 お祝い会が無事終わりそろそろお開きにしようかという頃、突然杞憂に呼び出され病室に二人になると、彼女は待っていたかのようにそれを私に手渡した。

「何これ?」

「自分から、パーティーのお返しのお気持ちプレゼントだよー、なんつって」

 渡されたのはコピー用紙やスケッチブックの切れ端なんかを簡単にまとめた紙の束、そして小さなUSBメモリ。何かと思い紙の束をめくると、それが何なのかすぐに分かった。

「あ……!完成したんだね、ついに!」

「そだよ!いやー大変だった、とりあえずまとめることはできたぜ!」

 紙にはそれぞれ章別の細かな設定と登場人物の外見、性格なんかについてもずらっと事細やかに記してあった。前に少しだけメモ書きを見せてもらったことがあったが、その時よりも格段にメモの数は増えているしキャラ付けもしっかりとしてある。

 あの闘病生活の中でよくぞここまで書き上げたものだ。となると、こちらのUSBメモリにはもちろん、その物語本編が書き綴られているというわけか。

「本当によかったよ、死ぬ前に完成できて。ありがとう、途中で絵梨香も手伝ってくれたおかげだね」

 そう言うと彼女は疲れたのか、ふぅっと息を吐くと深くベッドに埋もれた。私は手元にあるその原稿を自分の胸へ寄せて、ぐっと想いを堪える。親友が、最後にやりたかったことが果たせてとても嬉しそうで、それを見た私も嬉しさと安堵と、悲しさでいっぱいになる。

「よかった、よかったよ……!私も待ってた、これを早く本にして杞憂の元に届けたい、読んでほしいよ」

「いや、実は最初にそれを読むのは自分じゃなくてノイズなんだ。だって自分はほら、原作者だし?内容は知ってるし。一番最初に読むのは、ノイズだってついこの前決めたんだよう」

「そうなの?それならそれでも、だったら早く業者に頼んで製本してもらわないとね。知り合いにいるの、そういう仕事をしてる人が。なるべく早く完成してもらうように言うから……」

「うーん、多分さ、本ができる前に死んじゃうと思うんだよなぁ」

「え」

「せいぜいもって一週間くらいじゃないかなあ。最近、本当に起きられなくなってきたんだよ。気づいたら3日間くらい寝てることだってあるし、絵梨香も知ってるでしょ?実はご飯も食べらんなくなっちゃって、栄養剤摂らされてるけどあんまり美味しくないんだよねえ……まあそんなこんなもあって、多分自分が生きてるうちにノイズがあれを読み終わるとは思えないんだ」

「やめてよ、そんなこと言うの」

「自分さ、これは冗談じゃなくて本気で思ってるの、自分はね、生まれ変わってまたこの世界に戻って来るって。そんなバカみたいな話あるわけないだろって思うかもしれないけど自分はホントに信じてるの。絶対必ず、生まれ変わってまたノイズに会うんだ」

 本当に、真剣だった。そういう目をしていた。今までにも何度か見たことある、自分がこうと言ったら絶対こうなのだと、そういう自信に満ち溢れた、馬鹿馬鹿しいくらいに真面目な目。彼女は本気で、この世に転生するとそう言っているのだ。

「それでね、自分がうまく転生してこの世界に戻ってくるまではノイズにまだ消えてほしくないわけですよ。だから絵梨香に頼みたいんだけど、絵梨香は自分が死んだ後もノイズのことを「意識」し続けててほしいんだ。どうしてもノイズからあの本の感想をもらわなきゃいけない。でも自分が死ぬのと一緒にノイズが消えたら意味ないでしょ?」

「だってそんなこと、できないよ。私は、ノイズさんを意識し続ければいいって、そんなのいつまで?杞憂がもし転生できなかったらどうするの?」

「うん、多分絵梨香の意識だけじゃノイズもきっとずっとはこの世界に残ってられないと思う。所詮、自分の意識から生まれたもんだしね。他人の意識じゃずっとは持たないだろうな。だから、それだよ」

 それだよ、と言って杞憂は私の胸元を指さす。ふと目で追うと、そこには杞憂の書いた物語の原稿。

「それを、完成させて、本にする。なんか、できれば分厚いハードカバーみたいな重厚感溢れる本にしてほしいなぁ……じゃなくて、いやそういう風にしてもらいたいんだけど違うえっと、その本は、もし実物が出来上がったとしても、まだノイズに読ませないでほしい。できるなら自分が確実に転生した!って分かってノイズに会えてからの方がいいんだけどそれはまあ無理だろうしだからうーん……」

「……本当にそんなうまくいくわけないでしょ?常識的に考えて、そんな小説みたいな話、あるわけない。大体、杞憂が転生できたとして私はどうやってそれを把握すれば……」

「合図を送るよ」

「え……」

「というか、会いに行くよ。絵梨香にも、まず先に。絵梨香に本を持っててもらって、それを自分が取りに行く。そんでノイズを探そう。それがいいな、だから絵梨香にはその本を隠しててもらいたいね。……要するに、その本はノイズと自分を繋ぐ鍵になるわけだよ、きっと!その本を読み終わるまでは、ノイズはこの世界から消えない、自分はそのうちに何とか生まれ変わってこの世界に戻って来る!そんで絵梨香から本を受け取ってノイズに会いに行く。これだ!きっと上手くいく、なんでかは分からないけどそんな気がする!」

 ……残留思念って知ってる?突然杞憂はそう話し出す。あるものの強い思いが、その場所や物などに残留するというもので、つまりは彼女、杞憂自身の強い「意識」をその本へと閉じ込めたままにするということ。こんなのよっぽどのSFオタクか頭が狂ってるかしないと思いつかないでしょ?そんな風に言っても杞憂はただ、できるよと強く頷くだけだ。

 私はどうすればいいのか分からなくなった。こんな冗談みたいな話をこんな時に、こんな大真面目な顔で、そんなお願いをされて、混乱していたしもう本当に何も分からなかった。杞憂は、自分の死を受け入れてなお、杞憂らしさを全く失わずにそこにいた。これが彼女という人間だ。これが、私が今まで散々変なやつだなあと小馬鹿にしながらも一生の付き合いになるまでに信頼関係を築いた葉田杞憂という少女なのだ。




「ノイズにあの本は見せない。まだ読ませない。本は絵梨香が隠しておいて、持っていて。あの本には、自分の強い意識がきっと残る。あの物語が、ノイズをこの世界に残す希望になるんだよ。あれを読んだらノイズも消えてしまう、と思う。根拠はないけど、あれを完成させてノイズに読ませることが自分の最後の仕事、やるべきことだから。それが果たせなければ、ノイズはまだこの世界に残る。あの本を探しにくる。だから絵梨香はあれをノイズに渡さないで。意識し続けて。ノイズのこと、あの本のこと、自分のことを。自分が生まれ変わってまたこの世界に戻ってきたら、その時には必ずノイズから感想をもらうんだ。もちろん、絵梨香にもたくさん感謝の言葉を言うよ。約束。自分の最後の約束。忘れないで、ごめんね」




 杞憂が最後に私に託した思い。こんな身勝手なお願い初めてだ。最初で最後の約束だ。

 そこで初めて私は、彼女の前で我慢していた涙を流してしまった。それを見て驚いたのか、目をぱちぱちと瞬かせた杞憂はふっと両手を前にかざし、私の体を優しく抱きしめた。

 絵梨香が泣いたら自分も悲しくなるじゃないか。杞憂は泣くのを堪えたような声で、ただただ感謝と謝罪の言葉を呟き続けていた。






***********






 12月14日。

 つい数日前までは春のような暖かい日が続いていたというのに、今ではもうすっかり冬景色が広がり、その季節特有の肌寒い風が強く吹きつけるようになった。月日の流れというものはあまりにも残酷で、それこそあっという間に色んなことが、早回しのように過ぎ去っていく。

 あれからしばらく病と闘っていた杞憂は、その日もいつものように眠りについて、そしてそのまま目覚めることはなかった。本当にただ眠ってしまっただけのような、静かな最期。本人が望んでいたものだったから、それだけがまだ救いだった、と言えるのかもしれない。

 ……これは後で聞いた話だが、実は杞憂の母、憂華は杞憂の誕生日よりも前に、娘の余命宣告、とやらを受けていたらしい。以前の健康状態に戻れる可能性が限りなく低い、回復の見込みがほぼ無いのだと、それは宣告をした篠田もかなりつらく苦しい心境だったと思う。しかし、杞憂の意外な生命力はその宣告日を過ぎてもなお尽きることはなく、それに誰もが驚いたという。奇跡だ、と言う看護師もいた。

 彼女の葬式は親戚数十人でしめやかに執り行われた。参列者の中にはもちろん絵梨香もいたし、あの担当医も顔を出していた。彼はずっと、力になれずに申し訳なかった、と憂華に深く頭を下げていた。ただの一担当医が一人の患者のためにどうしてそこまでするのか、とその時ばかりは疑問に思った。後で聞いたところ、彼は元々小児科を担当していて多くの子供を診てきた、たくさんの命の最期をその目に焼き付け、そのたびに式には必ず参列していたというらしい。何とも立派な人間だと思う。そんな馬鹿真面目な篠田に対し、憂華も涙ながらに感謝の言葉を伝えるしかできなかった。

 やがて式も終わりを迎え、杞憂の遺体は無事に火葬場へと連れていかれることとなった。




『………………』

 何故消えない?

 あるのはただその一つの疑問。彼女は死んだ。私を生み出した意識は死んだ。いなくなった。ならばここにいる私は、何だ?

 私は久しく見ていなかった、あの真っ黒な夢の中にいた。黒いことに変わりはない。赤髪も健在。ただ一つ、前と明らかに変わったのは、今までたくさん視界に捉えていたあの白い十字架が、今目の前にある一つだけになったということだ。ぽつん、と、ほんの数メートル前に、そこそこの大きさの十字架が微動だにせず立っている。

(ああ。これは私のものだ)

 直感で分かった。これでようやく私も消えるのか。杞憂が生まれる遥か前からその声を発し続け、生まれた後もずっとその名を呼び続け、やがて彼女が大人になり私の存在はよりはっきりと現実の世界で具現化され、それはもうたくさんのことがあった。これが何というものなのかはよく分からないが、きっと思い出というやつなのだろう。

『私が』

 私が生まれ、そして今まで生きてきた意味とは。

『分からない。分からないまま終わる』




「ノイズ」




 名前を、呼ばれた。

 私が初めてあいつからつけてもらった、何とも不名誉な名前が呼ばれた。

 そして私は思い出した。一番大切なことを。私が、今まで生きてきた意味を。私が今、やらなければいけないことを。

 気が付くと辺りはすっかり暗くなり、参列者たちはそれぞれ各々の帰り支度を始めている。憂華はその間も多くの親戚たちとの対応に追われ終始忙しそうだ。私は、意識体は、そんな葬式の様子を遠く離れたところから一部始終見届けていたわけなのだが。

『…………』

 初めてだった。この人物から、直接名前を呼ばれたことは一度もない。それはもちろん当たり前なのだが、今までずっと近くにいたようなものだったから私自身あまり意識をしていなかったのだ。

「初めまして、っていうのも変でしょうか。久しぶりです、ノイズさん」

『…………絵梨香』

「こうやって会話をするのは初めてでしょうね、今まではずっと杞憂を介して話をしていたから」

 黒い喪服に身を包んだ横井絵梨香は、未だうるんだままの瞳を少し伏し目がちにしながら、それでも確実に私の存在を「意識」して、私と会話をしていた。彼女だけには、私の姿が見えている。人が多く集まっている場所から少し離れた場所にいたので、絵梨香がそこそこの大きさで声を出しても誰かに聞かれる心配はない。

「……すごい、本当にあの落書きだ、そのままだ。前に見せてもらったんですよ、ノイズってこんな見た目してるんだよーって。あの子、ノイズさんのこと話すとき、とても楽しそうに笑うんです。本当にノイズさんのこと好きなんだなあって、すごく伝わってくるんです」

『そんなこと今更言っても喜ぶようなやつはもうここにいないだろう』

「本当に今更ですよね、ノイズさんは辛口、確かに杞憂の言ってた通りだ。そのままです」

『私の評価はあいつの中で最悪だったようだな』

「ええ。最高で最悪だって言ってましたよ」

『言ってくれるな、全く』

 お互いが、違う、もっと話したいがあるだろうと心の中でそう自分を急かしているかのような雰囲気。そちらが先に話し出すのか、そのタイミングをどちらも伺っている。そして先に口を開いたのは。

『あの本はどこだ』

 真正面から、爛々と光る切れ長の赤目を見て恐怖を感じない奴はそうそういない。絵梨香もまた、まるで現実のものとは思えないくらい真っ赤な瞳をふっと見つめ、危うく吸い込まれそうになるのを抑えて一度深く深呼吸をした。そしてキッと強く目を開くと、強い意志をその目に宿して私と対峙する。

「……私は、今まで散々話に聞かされていたノイズさんを、今日初めて見ることができた。皮肉だね。杞憂にこのことを伝えられない。きっと、一番あの子が喜んだだろうに。杞憂と、ノイズさんと、もっと一緒に話したかった。……私はあなたをよく知らない。あの本も、分からない。杞憂はあれを完成させた、と言っていた。でもどこにあるのかまでは知らない。聞かされていないの」

『……嘘だ』

「本当です。知っていたら、私だってあなたにぜひあれを読んでもらいたい。杞憂はあれをノイズさんに見せたいとずっと言っていた。原稿を受け取ったことはある。でもちゃんと形にした本は、知らない」

『…………』

 絶対にあるのだ。あの本は、あの物語は、完成されてどこかにあるはずなのだ。今ここに、この世界に、私という存在が消えずに残っているのが一番の証拠だ。杞憂の『意識』は、死なずにどこかで生き続けているのだ。

『必ず探し出す。私は杞憂と約束した。あれを読んで感想が欲しいといった。私はそれに答えてやらなければならない。……いずれ杞憂と同じ所へ行く。絶対に見つける。まだあいつは、この世界のどこかで、生き続けている』




 そう言ってノイズは絵梨香に背を向けて、絵梨香の前から姿を消した。あとに残された絵梨香はただ一人、その場でしばらく動けずにいた。

 ――あの本は。

 そう。完成されている。そうなのだ。だからああしてノイズはこの世界に留まり続けている。あの本は。あの物語は。誰も知らない場所で、大切に隠してしまっているのだ。

「ごめんなさい、ごめんなさい……約束なの。守らなきゃ、あの子の、最後の頼みだから」

 絵梨香は一人静かに涙を流した。やがて絵梨香も自身の両親に名前を呼ばれ、その場を離れた。






***********






「泡沫アグリゲート」

 改めてタイトルを声に出してみて、うーーんと何とも言えない違和感に苛まれる。

 そうだ、自分でこのタイトルをつけたのだからこれがそうだ。ネーミングセンスの無さならきっとギネス記録がもらえそうだ。そんなのんきなことを上の空で考える。

 ここは夢だ。きっとそうだ。だって周りが闇なんだもの。怖すぎる。これが現実の世界に会ったら絶対自分から行きたくない場所だ。いくら簡単な裏技で一気にラスボスを通り越しエンディングまで辿り着くこともできるようなチート級の場所だったにしても行きたくない。間違えてセーブしてしまった時を考えるとおぞましい。……それはまた別の話だ。

 ふと、遠くに光が見えた。とりあえずあそこを目安に進んでみよう。歩くという概念もあるかどうか分からない場所をふよふよ進むと、段々と光はその大きさを増していく……がしかし、光に近づくにつれ、自分の体はどんどん重さを感じるようになる。

「う~~ん……突然の眠気……夢の中なのにぃ……」

 なんかこれデジャヴだ!そんなことを思いながら誘惑に負けた自分はふっと目を閉じてしまった。






「起きてよ~~~~ねえ~~~~~ってば~~~~~~」

「ちょっと……無理に起こす必要ないじゃん、そっとしておこうよ」

「……どうするんだ、これは」

「しばらく様子を見た方が良いかと思われます」

「いいよ、そっとしておこう。どっちにしろ、あとで起きなくちゃいけないんだから」

「本当に戻れるのかよ、こいつ……」

「きっと大丈夫!またすぐ戻れるよ!多分!」

「どうでもいいところだけはやたらと強えんだな、良いんだか悪ぃんだか分かんねーやつだ」

「でもこの力は本物です。想いは人を強くすると聞きました。この人にはそれがあります」

「良いこと言うね……そう、大丈夫。すぐ会えるよ」

「どのくらいかかりそうだ?あまり待たせたら向こうもいいことは起こらない」

「ううん。すぐに会える。だって『紀悠』だもの。何も心配いらないよ。必ず戻って、また『あの声』に会いに行かなくちゃ。それまであともう少し、おやすみなさい」











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