あなたは私、だけど
現実を見るというのは、中々に難しい。
しかしそれが事実であるというならば、それを受け入れるしかないのだ。この先の未来がどうあろうとも、今、目の前にある壁と向き合わなければならない。
誰も知らない物語を自分自身の目で見るために。
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暇だった。
相変わらずの真っ白の部屋に、真っ白の白衣の看護師さんが自分を起こしに来てくれた。昨夜は眠れた?と聞いてくる彼女に対しまあまあですと曖昧な返事を返し体を起こす。入院一日目なので様子見で、と言って朝食を運んできてくれた。一通りメニューを説明した後に、自分で歩けるようであれば食堂に食べに行くこともできるわよ、と教えてくれた。彼女が戻る前に、窓側の棚に置いてあった自分の携帯を取ってもらうよう頼む。
「ええ、8時?まだ8時だって?早すぎでしょう……」
「平日は学校があるんだからもっと早いでしょう?むしろ遅めの朝ご飯だと思うけどね、私は」
「だって休みの日なのにこんな早くに起きることないですもん……」
「今日は月曜日だけど?」
「入院してるから休みなんですってばぁ」
看護師さんはうふふと笑って部屋を出ていった。入れ替わるように母さんが入ってくる。おはようございますと軽く挨拶を交わすと向こうは自分を見てふっと笑う。
「おはよう杞憂、調子はどう?」
「おはよー。まあまあってとこだよー。母さんこそ調子は?よく眠れた?」
「ん……まあ、少しね」
そういう母さんの顔は明らかに疲れが出ているのが分かる。自分は眉をひそめて大丈夫かと言う。
「自分のことなんてそんなに気にしなくてもいいからせめて6時間睡眠はしてほしいね……」
「気にしないなんてできるわけないでしょう……自分の娘がこんな状態だっていうのに」
「そうだけど、まあ大丈夫だと思うよー?何で急にこんなことになったかは分かんないけど……疲れが出たとか貧血とかそういうことだと思うんだけどなぁ……違う?」
朝食を取りながら昨日先生に色々聞いたんでしょうと問うと、母さんは俯きがちに、少しつらそうな声で言った。
「……そうね、それならよかったんだけど。でもやっぱり、もう少しは入院しなきゃダメみたい。今はまだ分からないことが多すぎるから……治療とか、手術とかも、あるかもしれないって言われたの」
自分が思っているよりも重大な事態に陥っていることを聞かされ、自分はただ「あらそう……」と困惑した表情で答える他なかった。意外に重い病気だったりするのか?手術するのか?自分の中に小さな不安が芽生えた。
「とりあえずまだまだ入院かぁ。ま、学校休めると思えば気が楽かな。でもすごく暇なんだ。母さんさ、明日ここ来るんだったら家から漫画持ってきてくれない?」
「分かった、分かったからとりあえず食べることに専念したら?食べながら話すのは行儀が悪いわよ」
もぐもぐとおかずを頬張りながら話す自分を見て、母さんは少し呆れたように、それでも少しだけ笑顔を見せてくれた。
夕方、学校が終わる時間からしばらくして、息を切らせて部屋に飛び込んできたのは半泣きの絵梨香だった。
どうやら自分が入院したことを知ってここまで直接走ってきたらしい。学校からはそこそこに距離がある病院なのだが。絵梨香の爆発力は中々に侮れない。
ベッドの傍まで寄ってきた絵梨香はぎゅっと自分の左手を掴んだ。そっちは痛い。針刺さってるの見えてないのか、しっかりしてくれ。
「杞憂!杞憂!!大丈夫なの!?死んじゃわないよね!!」
「し、死なないよ!でも痛いよ!そっちの手は!」
「うえ、あ、ごごめん!大丈夫!?」
一度手を放した絵梨香は、今度は優しくなでるように左手を握ってくれた。ハァ、とため息をついて一呼吸おいてから、自分は絵梨香にお礼を言った。
「まさか直接来るとは思わなかったよ……なんかすまんね、心配かけてるみたいで」
「心配かけまくりだよ!この前の事故といい、今回の入院といい、本当杞憂はトラブルメーカーなんだって!うわあああん!いつもいつも私に心配かけて!どうにかしてよ!」
感情が暴走しかけてわんわんと泣きじゃくる絵梨香をまあまあごめんねとなだめて、看護師さんを大丈夫ですと言って何度も追い返した。本当一気に騒がしくなって申し訳ない。
そのうち少しずつ落ち着いてきた絵梨香としばらく談笑した。今日の授業のこととか、この前のアレについては本当に誰にも話してないかとか、今日の購買には珍しいものが売ってたこととか、とりあえずお腹がすいたこととか。絵梨香もだんだんいつもの感じに戻って、普通に笑ってくれた。それでも、今の自分の状態をたずねてきたときだけは少し暗い顔をしたけど。
「……どのくらい入院するの、とか分かるの?」
「ううん全然ー。なんかどういう病気なんだとかもわかんないっぽい。というかまだ自分に教えてくれない……なんでだろうね?先生は母さんとは色々話してるんだけどさ」
絵梨香が自分のために、と買って残しておいてくれたコッペパンをほおばりながらそう言うと、彼女は一言、
「……早く元気になれるといいね」
そう言った、その言葉がやけに自分の中に重くのしかかって、なんとなく、不安の塊みたいなものが少し大きくなった。
「杞憂のことだからまたすぐ元気にうるさくなってくれる、と思う。そう思いたい。うん、きっと大丈夫だよね。私待ってるからね」
「おうもちろんよ!待ってるだけじゃなくてたまには顔出して、お土産よろしくねー」
できればかごに入ったフルーツ盛り合わせがいいなぁ!そう言うと絵梨香は呆れた顔で、やっぱりそういう杞憂が一番だよと笑顔を見せた。
病室のドアをノックする音がして、そこで絵梨香はそろそろ行くよと席を離れる。どうぞと声をかけると、篠田先生が軽くお辞儀をして入ってきた。絵梨香も先生に丁寧にお辞儀をしてそのまま部屋を出ていく。彼女がいなくなるのを見てから先生が、今のは友達?とたずねてきた。
「学校が終わった後に来てくれたのかな?」
「そうらしいですよー、直接来た!とか言ってて。すごいですよねー結構遠いのに……」
「そこまでして心配してくれる友達がいるって幸せだね。俺の周りには中々そんなやついないと思うなあ」
ちょっと自虐気味に先生ははにかんだ。思わず可愛いと思ってしまった。……悪くない。
それで、と自分の視線に気づいた先生がここにきた理由を話し始める。
「君のお母さんにはもう大体話してはいるんだけど、今の杞憂ちゃんの状態は、俺達でも何とも言いづらい状態なんだ。まあはっきり言って、どういう病気なんだとか断定できない。原因が判明していない。だから杞憂ちゃんにはここから一週間くらい、色々検査を受けてもらうことになるんだけど」
「はあ」
「検査の結果を見て、そこからまた様子見で、まあ……最悪手術、という感じなのかな」
「ひええ」
「とりあえず当分は学校へも行けなくなると思う。すまないね、せっかくの貴重な学生生活を無駄にしてしまって」
悲しそうにそう言う先生を見て自分も悲しくなった。ああ、先生のそんな顔は見たくないなぁ。結構好きなタイプだし?
生返事しか返せなかった自分はそこで力強く、大丈夫です、と言った。早く原因突き止めて、早く治してもらって元気になりたいです!頑張りますよ!と笑顔で答えた。君は強いね、と言うと先生は自分の頭を軽くなでた。なんと。一瞬何が起こったか分からなかった。思わずひえええと声が漏れた。
「あ、ごめんね?つい昔からの癖が出ちゃって……」
「は、はあだいじょぶです、はい」
変に顔が赤くなってないかなどと余計な心配をしているうちに、先生は通りがかりの看護婦に呼ばれ部屋を出ていった。去り際に「頑張ろうね」と一言声をかけてくれたのがすごく嬉しかった。
危ない恋の予感!……そんな展開はない。こういう時に限ってそんなツッコミをしてくれる相棒は姿を現さない。
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「……それで」
「……うん。まだ元気。これから検査が始まるんだって」
「……ごめんね、そっちも忙しいのにね」
「……うん、うん。……そう、うん」
「……大丈夫、私がいるから。何とかするから」
「……杞憂も気にしてると思うから。パパのこと」
「……うん。そっちも無理しないで、頑張ってね」
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それからしばらく、約一週間。自分は様々な機械に通され体の隅から隅まであちこち色々調べられた。テレビで見たことある大がかりな機械、見たことないような機械、見たことある注射、見たことない薬とかそれはもうよりどりみどりだった。実際にそれらを体験しているときはめったにないものだと一人興奮していたのだが、やっぱり夜になると少し悲しくなる。消灯時間が早い病院では眠くなくても強制的に睡眠モードに入らなくてはいけない。それももちろんつらかったが、何より自分の身に起こっていることが未だにちゃんと理解できていないのが一番の不安だった。
ここ最近、ノイズの姿が見えないことが多かった。というか、ノイズの存在がまた薄れかけているのを感じた。いつも気が付けばそこにいる、ということが多かったので今更改めてなぜだろうと思うことはなかったが……またあの時のように消えてしまうのではないかと思うと怖かった。ただでさえ一人は寂しいのにノイズがまた見えなくなったら。ノイズの声が聞こえなくなったら……?
あまり考えたくなかった。そもそもノイズとはいったい何なのだろう。意識体って、何だろう。自分で考えてつけた設定のはずなんだけど。今の自分にはどうしても分からなかった。謎の病に侵されて記憶力まで馬鹿になってしまったか!
「……元々だろう、そんなの」
セルフツッコミがこんなに寂しいものだとは思わなかった。大人しく寝ることにした。
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意識体とは何だろう。
それは創造主である杞憂が考え、私につけた『設定』である。何故意識体というのか?その当時はそこまで深く考えていなかったと言う杞憂は改めてうーんと首を傾げるばかりだ。
分からないのだ。杞憂にも、私にも。意識体ってなに?と聞き返す杞憂を見て、こっちが聞きたいと返答するだけの私。私という存在は、そもそも杞憂が生まれる前からいたわけで。杞憂がこの世に生を授かるその瞬間を、そうなる運命を待っていたわけで。
『…………私は、なんなんだ。私はお前の名前を、杞憂の名前を……ずっと……』
杞憂が考え、私につけた設定。
――意識体とは、その人の無意識によって生まれる、潜在意識からなるもの。意識されたい。そう思うその人の「意識」が、「無意識」のうちに『意識』を持って生まれる。
杞憂はこれを知らない。私も知らなかった。まるで私たち以外の「なにか」が、二人にそうさせるように、と決定づけたように。
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今日も空は綺麗すぎるくらいに青い。
自分はいつも通りご自慢の点滴ペット(と勝手に呼んでいる点滴スタンド)を引き連れて食堂へ向かった。いつもの昼食時間より少し遅めにいったからあまり人はいなかったが、元々そこまで広くない食堂だったので空いている席は少なめだった。
ここの曜日変わり定食が美味しいのだが、そいつはもう全制覇してしまったのでパッと目についた鮭定食を頼んだ。食堂のおばちゃんが元気に挨拶をしてくれた。
「あらこんにちは~、今日は曜日変わりじゃないんだねぇ!」
「だってあれ全部食べちゃったんですもーん」
「そういえばよく見かけるけどあなたそこそこに長いわよねぇ、どのくらい経つの?」
「んー、大体もう二週間は経ってるかなぁ」
お盆を受け取り適当に近かった席に座り一息つくと、視界の隅に篠田先生の姿を捉えた。せんせーいと声をかけると向こうは一瞬きょろきょろと辺りを見回してからこっちに気づいてくれた。
「おはよーございます先生!」
「ああおはよう。今朝はごめんね、急に別患者さんの用事ができちゃって挨拶にいけなくて」
「いやいや謝らないでくださいよ、自分は全然大丈夫です!お仕事の邪魔したくないですから!」
先生もご飯ですか?と聞くと、まあ軽くね、と言って売店で買ってきたであろうおにぎりを見せた。この後もすぐに別の患者さんの手術があるらしいからゆっくりご飯を食べる時間も無いのだそうだ。本当に医者って大変な仕事だとつくづく思う。
「そうだ、杞憂ちゃんに言おうと思って忘れてた。後でちょっと大事な話があるから、午後は自分の病室に戻っておいてくれないかな?手術が終わる時間が分からないから、なるべくならずっと部屋にいてほしいんだけど」
「あ、はい分かりました!」
大事な話、と言われて一瞬体が硬直した。ついにそういうのが来るのか、と。思えば検査が終わって一週間、特に何とも言われないまま今日まで来てしまったが逆になぜ自分はその時に疑問に思わなかったのだろうか。ここまで自分は、自分のことについて何にも話されていないじゃないか?
ふと気がつくと、先生も周りにいた他の患者さんもほとんどいなくなっていた。自分は少し急いでご飯をかきこむと食器を片付けて早々に病室へと戻った。
(いつ頃来るのかなー……)
胃に食べ物が入ったせいで少し眠気もあったが今寝たら絶対夜寝られないと思い、自分は差し入れでもらったみかんをほおばりながらじっと窓の外を見つめていた。
あれから母はほぼ毎日病院に通って自分の様子を気遣ってくれに来ている。自分がこの前リクエストした漫画も持ってきてくれたし、その他自分が家から持ってきてほしい暇潰し道具をあれやこれや頼んでそれらをほとんど全部持ってきてくれていた。なんでかは知らないがゲーム機は持ってきてくれなかった。ノートパソコンは持ってきたのに、そこのボーダーラインは一体何なんだ。
絵梨香も、テスト勉強と両立させながら時間の隙を見つけてはお見舞いに来てくれた。こんなに熱心に病院通いしてくれるのは絵梨香ぐらいだけである(元々友達少ないしね!)。さすがにかご入りフルーツは無理だけど、と言いながら差し出した、商店街の有名なケーキ屋のフルーツタルトを見たときは本当に感動して、泣きながら絵梨香愛してると口に出して言ったくらいだ。あとで本人にドン引きされたけど。
そんなこんなでとりあえず暇だった。暇でやることがない。個室だしそもそも知り合いがいないし話し相手もいない。携帯も……今は特にいじれる気分ではなかった。
ベッドのすぐそばの棚に、母さんが家から持ってきた自分の私物がこんもりと入っている大きな手提げが置かれている。その中に、前に思い付きで書いた新しい創作、集合体(仮)の設定がまとめられたスケッチブックも入っていた。
「………………」
ふとそれを手に取り筆箱も一緒に取り出して、簡易机を出すと一瞬でそれを広げる。ただそれをじっと見つめ、簡単にまとめたキャラクター設定と一部外見デザインを見直し、物語の内容を見返し。
他にやることもない。どうせなら、この話もしっかり完成させたい。
この時、自分自身ではあまり意識していなかったのだが、何となく、体がこれから自分の身に降りかかる現実を予測していたのだろう。でなければ、自分はその時にこの物語を完成させようという気には決してなっていなかったはずだ。この物語が、あとで自分の「選択」を左右するほどの大切なものになるとは、この時点ではまだ誰も思ってもいなかった。
***********
『……杞憂?』
いつものようにそこにいた。姿は見えなくても、いつでもそばにいる。そうしろと言ったのは杞憂だ。だからそうするようにしている。勝手にいなくなるんじゃない、と約束したから。
そこにはおとぼけた様子でへにゃりと笑う杞憂はいない。ただ一心不乱に、スケッチブックに何かを綴っている。私の存在に気付いているのかいないのかも分からないくらいに集中しているように見える。いつにも増して真剣な顔をしていた。
……無視をしている、というわけでもなさそうで。声が聞こえなかったのかと思い、改めてもう一度その名を呼んだ。
ふ、と顔を上げた杞憂は辺りを少しだけ見渡して、一度正面に向いた後、ぱちぱちと瞬きをした。そしてすぐにこちらを向いて、そこで初めて分かったとでもいうような顔をした。
「あぁ、なんだノイズいたのか。びっくりさせないでよもう」
こんな会話は前にも何度かあった。あったのだが、この違和感は拭えない。いつでも私の存在を意識しているはずの彼女が、あからさまに気配を出した状態の私に気付かないなんてことはあり得ない。ふざけてそういう態度をとるような奴でもない、というのはずっと昔から承知している。
『……杞憂』
「…………何?」
『何をしているんだ、それは』
「……ああ、この前言ってたあれだよ、新しい創作のやつ」
会話のテンポが、いつもより悪い。遅れて返事が来る。彼女が作業しながら、というのもある。彼女は色んなことを同時に聞いたりやったりできるような器用さは持っていないから。
『杞憂』
「……あー、ごめん今これ考えてるから」
『私のことが見えているのか?』
「うん……一応ね?」
『……私は』
「このあとさあ、先生がくるんだ。大事な話するんだ、って言ってたから」
最後は私が言い終わる前に返ってきた。最初から私の返事を聞くつもりは無かったとでもいうように。
「それについてもちょっと気分が落ち込んでてさー。あんまりなんか、色んなことに意識が向かなくなっちゃってたからさ、ごめんごめん分かってるからそう落ち込まないでよ」
変に私に気を遣おうとしてか、杞憂は困ったように笑う。それが逆に私の中の何かに触れて、もやもやとしたものに変わる。彼女は何が言いたいのだろう。いつものように騒いでくれていた方がやりやすい。
「自信がない」
『……え?』
「自分、このまま生きてられるのかなぁって」
『そんなもの、』
言いかけたと同時にドアをノックする音が聞こえ、反射的に口を閉じた。どうぞーと声をかける杞憂には、もう先程までの暗い表情は浮かんでいない。