零から、壱へ
全ての始まりを、迎え入れよう
……う……ゆう……
ゆう……う……
…………
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幼い時から、その声は聞こえた。
それこそ、まだ自分が物心つく前か、それよりももっと前からか。
その声は自分の体の中に直接響く。オルゴールの様に、繰り返し繰り返し続く。はっきり聞き取れるようになるまでは、それなりの時間を要した。
まだ、少女が胎内から出る事を知らなかった頃のお話。
「……母子ともに健康です、はい、異常ありません。……」
看護婦が、分娩室のベッドへと歩み寄る。母親としての初仕事を終え、疲労困憊のその女性に優しく話しかける。その手の中に、たった今生まれてきた小さな命を抱えて。
「お母さん、おめでとうございます。元気な女の子ですよ」
女性はぐったりとしながらもその赤ちゃんを見て、喜びに浸った。看護婦から赤ちゃんを受け取り、優しく包み込む。愛しの我が子を胸の内に抱ける事に、この上ない幸せを感じた。
赤ちゃんは既に泣きやみ、すやすやと眠っていた。ぶにょぶにょでもろいその柔らかな顔に、優しくキスをする。看護婦も、その様子を見て顔をほころばせた。また一つ、この世界に新たな命が誕生したのだ。
しばらくしてすぐに、その女性の夫が分娩室へと入ってきた。仕事の関係で出産の瞬間には立ち会えなかったが、生まれてきた我が子を一目見ようと仕事場からタクシーを急がせて病院に駆け込んだ。室内の妻と赤ちゃんを見とめると、その温和そうな顔はさらに柔らかになり、安堵の表情を見せた。
「……良かった……!本当に……君も、赤ちゃんも……」
「うん……頑張ったよ……すごく可愛い、ね。女の子だよ。この子……」
「そっか……。気持ちよさそうに寝てるね。ママの胸の中が好きなんだな、きっと」
「そうだね……ねぇ、この子の名前は?何にするのか、パパが決めてくれるんだったよね」
「あぁ、そうか。いやあ、前から色々と決めてた名前がいくつもあるんだ。女の子だから……」
そこで一度、父親は顎に手を当て考え込むような仕草をした。実のところ、もう既に名前は決まっているのだが。
「そうだ、杞憂。きゆうなんてどうかな?僕の名前の智杞の杞と、君の名前の憂華の憂を合わせて。この子の名前は杞憂にしよう」
そう言って、智杞は杞憂と名付けた赤ちゃんの頭をなでた。憂華も、穏やかな声で賛成した。
「きゆう……杞憂。杞憂、杞憂ちゃん。私がママだよ。これからよろしくね、杞憂」
名前を呼ばれた赤ちゃんは、嬉しそうに、少しもどかしそうに体を動かした。
「健康面には問題ありません。ただ、少し体重が少ないですね。2200グラム程です。平均的な体重と比べてみても……ちょっと心配だわ」
出産に立ち会った看護婦は、赤ちゃんの記録を改めて見直して言った。赤ちゃんの体を洗っている時にも少し気になったのだが、やはり体は小さい子だった。元気に泣いていたので大丈夫だとは思っていたが……。
不安そうな表情を見せる看護婦に、担当医が横から優しく話しかける。
「まぁ、未熟児というわけではないから平気だよ。元々お母さんが小柄な方だから、子どもも少し小さめなんだろう。今までにも、何人かそういう赤ちゃんはいたからね。これから成長して、ぐんと大きくなるさ」
「……そうですよね。ともかく、無事に終わってよかったです」
「ああ。お疲れ様。と言いたいところだが、まだまだ仕事は残ってる。これからも頑張ってくれたまえ!」
「はい!」
看護婦は不安をぬぐい、次の妊婦の待つ病室へと向かった。
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夢を見ていた。
人なのか何なのかもよく分からない『何か』が、真っ白な空間の中でふよふよと漂っている。
『何か』は、まだ自我も持っていないようなその赤ちゃんの中で、絶えず声を発していた。
う……ゆう……
ゆう……きゆう……
きゆう……きゆう……
その名前は、赤ちゃんがこの世界に命を授かりその名を付けられるずっとずっと前から呼ばれ続けていた。