闇
俺は奇妙な世界でひたすら走っていた。
と、と、と裸足で地面を叩き、は、は、と等間隔に呼吸を吐き出しながら。
一体いつから俺は走り続けているのか定かではない。一分か、一時間か、一年か、それとももっと長い時間か。
この奇妙な世界では時間という概念を汲み取る手段がないのだ。
走り続ける俺の目の前に広がる視界。
地面を見下ろせば、五メートル程度の横幅の道がある。
その道はアスファルトもコンクリートもなく、人の手が加えられた上等さは少しもない。
聞いたこともない田舎の片隅にあるような道でももっとマシだと思える、ただの砂と石ころが転がっているだけの、『ただ先まで繋がっているから道に思える』そんな頼りないものだった。
そしてその道の両脇には樹が等間隔に立っている。
その樹もまた奇妙だった。等間隔に立っているどの樹の全体像を見ても、まったく同じ形なのだ。
普通の樹であれば、同じ品種であろうとも、葉の伸ばし方や幹の太さが違う。その樹特有の生命の形があるはずだ。
しかし俺の眼前にある樹たちは、樹を確固たる樹と足らしめる個性が剥奪され、ただの道を装飾するために用意された偽物の舞台装置のようだ。
そしてその舞台装置をまったく同じ形に何個も複製し、それを並び立てたもののような、淡白で無機質な印象を受ける。
その道と樹が延々と先まで続いている。一体どれほど走り続ければ到達できるか想像できない地平線の彼方まで。
そして地平線の上には、圧倒的な質量を備えた満月が、煌々と輝いていた。
漫画や映画などのフィクションの世界でしか見たことのないような……望遠鏡で覗いてようやく僅かに共感できるような……遠近感を狂わせる凄まじく巨大な月だ。
リアリティなど欠片もなく、その月は今にも俺の真上に落ちてきて、この奇妙な世界一体を丸ごと吹き飛ばしてしまいそうな危うさを感じさせる。
薄暗い空に月らしいものが浮かんでいる、そしてその月明かりによって俺の視界が開けているという事実で、この奇妙な世界は夜なのだと俺は理解できる。
ただ、そんな風景はこの奇妙な世界のほんの一部分を構成する要素でしかない。
ひたすら走り続ける俺の後ろに、この奇妙な世界の核心があった。
『闇』。他に表現のしようがない、圧倒的な『闇』。
途方もない規模で、大荒れの海のような渦をぐるぐると巻き、掃除機を最大出力で掛けたときのようなごおおお、と喧しい不協和音を鳴らす。
俺が何度か後ろを振り返ったが、一面に広がるのはぐるぐるとうねり狂う漆黒一色で、根源的な恐怖しか抱き得ない。
その闇は、獲物を丸呑みする大蛇のように、一切の容赦なく捉えたものを分解し尽くしていた。
道も、石ころも、砂も、樹も、俺が通り過ぎたこの奇妙な世界を構成する物すべてを、闇が跡形なく奪い去っていた。
もし俺がその闇に捉えられたら、俺がどんなに抵抗しようとも、俺というちっぽけな存在など容易く飲み込んで、塵よりも小さいものになって消え去る以外に方策はないだろう。
だから、俺はその闇から逃げるためにこうして脇目も振らずひたすら走っているのだ。
一体どれほどの時間が経ったのか。
浅い吐息を零し、ひたすら前を見据えながら俺は走り続けた。
もう走った距離は五キロは優に超え、十キロ、いや百キロまで走ったように思える。
しかしそれも明瞭には判別がつかない。
この奇妙な世界では時間という概念が剥奪されているように、距離という概念も剥奪されている。
同じ範囲を選択してコピーペーストを繰り返したように、どれだけ走っても巨大な月は同じ巨大さのままだし、地平線は延々と地平線であり続ける。
指標となるものは一切なく、気が狂いそうになるほど代わり映えのない同じ風景が延々と続く。
だが、それに気を取られている暇はない。
今もおれのすぐ後ろから闇が迫っている。ごおおお、と耳障りな音を響かせながら、俺を飲み込む機会を虎視眈々と狙っている。
だが、恐怖はあれど不思議と疲れはない。普通の世界であったら、俺はこんなひたすら走り続けることなどできない。足が縺れ、呼吸は上がり、すぐに地面に尻餅をついてしまうはずだ。
この奇妙な世界では、何もかもが論理的ではない。常識的でもない。
俺もこの奇妙な世界の一部分として駒として配置され、『闇から逃げ続けている人間』という儀礼的な配役を与えられた存在ではないかとすら思える。
そこまで考えて、不意に何かに躓き、俺は体勢を崩した。地面に倒れそうになる瞬間に、巨大な月をぼうと見上げた。巨大な月は変わらず存在し続け、どうしてか俺を嘲笑っているような気がした。
地面に横ばいで崩れ落ち、俺は慌てて上体を起こした。
一体俺は何に躓いた? 俺は躓いた地点に視線を送ってみても、何一つとして障害物になりそうなものはない。透明な何かに躓いたのか?
だが、そんな思考を巡らせる余裕もない。
闇はすぐそこに来ていた。逃げる暇も、覚悟する暇もなく、もう俺の鼻先に存在している。
ごおおお、とうるさく鳴き、闇はついに俺の全身を覆って……。
俺は目を覚ます。じりり、と時計が狭い部屋の中で鳴り続ける。
俺はゆっくりと布団から上体を起こす。全身から汗が吹き出てて、わずかに手が震えている。
今のは夢だったのか?
夢であるなら、目覚めた瞬間であれど細部は霧散されるはずなのに、今しがた体験した奇妙な世界のディティールは非常に鮮明だ。
巨大な月も、無機質な樹も、延々の先にある地平線も、そして圧倒的な闇の恐怖も……すべて現実的な実感を伴っている。
だが、あんな論理性の欠片もない世界が現実であるはずもない。そして、見慣れた現実の世界にいる今であっては、奇妙な世界は夢だったと認めるしかないだろう。
俺はがんがんと鳴り疼く頭を振って、布団から立ち上がった。
洗面所に行って顔を洗うために鏡の前に立つ。
鏡に映った自分の顔を、寝ぼけ眼でよく見ると、不思議な違和感を覚えた。
目も鼻も口も、二十五年間付き合ってきた俺のものであるのは間違いない。
しかし、ここがこういう風におかしいという具体的に説明することができない、どこか抽象的な、色彩の薄い絵の具で書き足したような、薄ぼんやりとした欠落が俺の顔面に浮かんでいるように思えるのだ。
俺は今日の仕事の進捗を頭の中で確認する。
納期の差し迫った仕事がある。その仕事を終わらせるため、今週は毎日のように深夜まで会社で残業し、終電に揺られて帰宅し、三時間ほど眠りを取る毎日だった。
しかしその仕事の納品の目処はついていない。今日も無意味な残業を強いられるのは間違いない。
俺は鏡に映った自分を見ながら、ぼうと思う。
さきほど見た奇妙な世界の夢で、俺に迫っていた闇は、最後に確実に俺を捉えていた。俺の全身に覆いかぶさり、確実に俺の何かを奪い去っていったのだ。
その奪い去っていったものは、俺の自分の顔に浮かぶ違和感となって表出した。
あるいは。あるいはあの奇妙な世界も、追い縋る闇も、すべて俺自身から生まれ出たものかもしれない。
それは煙草から浮かぶ煙であり、パソコンのディスプレイの光であり、剃刀で切ったひげであるものが、俺の見も知らない世界でぐちゃぐちゃに混ざり合い、ひとつ塊になり、あの奇妙な世界を構築しているのかもしれない。
今日会社に出社すれば、上司は朝のミーティングでいかに俺が無能かを同じ部署の社員の前で分かりやすく説明してくれるだろう。
同じプロジェクトを与えられた同期の社員は誰も責任を取るまいと目を逸らし、俺に全責任を押し付けるだろう。
経理の女子社員は定時に退社し、金にならない残業を消費している俺を尻目に、恋人と出会ってホテルに入るのだろう。
あの闇は、いつか確実に俺を捉える。それは今日かもしれない。明日かもしれない。一年後かもしれない。それとも、遥か先の臨終の間際であるのかもしれない。
いずれにせよ、あの闇は俺の足をすくい取り、一切の容赦なく俺という存在を取り込み、定義も理由も一切を喪失した、ただの闇を構成する塵の一つとする。
そしてその闇の一部分となった俺は、他の誰か……上司か、同僚か、女子社員か……を奇妙な世界へと誘い、ひたすら追い掛け回すのだ。
俺は蛇口から水を出し、顔を洗う。じゃぶじゃぶと三度冷水を自分の顔面に押し付け、顔を上げた。
鏡に映った俺は、いつもどおりの俺だった。




