E-6
風か。風なのか。十六夜りさはそう思うと、自身を肯定する世界を踏みしめて足を回転させていた。体力の低下は否めない。確かに、今まで日課として走っていたあの頃とは運動量が違うのだから当たり前ではある。しかし体力の低下や息苦しさなどで止められる快感であれば十六夜りさは固執しない。苦しい。確かに苦しい。それを優に越える快感がそこにはあった。快感、風を否定し、空気は肯定する。
「管理人、管理人!!」
振り向いて十六夜昼夜に声をかけるが、当の本人は遥か遠くで息を切らしていた。そこで十六夜りさは足を止めて、口に手を当てて叫んだ。
「早うせんか管理人!私を待たせるなーー!!」
その姿を見ている人物は、彼女が”サイコパス”だと言うことを自覚出来る筈もないだろう。もっとも、彼女の首輪を見れば分かるかもしれないが、こうしている間は、彼女を異常だと批難する人物は存在しない。普通の少女である。
止まると、突然熱が身体中を巡って体温が上がった。熱いと感じながら、十六夜りさはジャージを脱いで腰に巻く。リュックサックも邪魔だったが、このリュックサックには食料が入っているのだからと、流石に捨てたりはしなかった。止まると、突然今迄感じる事のなかった身体への負担が一気に訪れる。体温の上昇然り、喉の渇き然り、酸素不足然り。十六夜りさはその場に腰を降ろしてリュックサックの中からペットボトルに入った水で喉を潤す。
呼吸も忘れてペットボトルを空にすると、リュックサックを枕にしてごろんと寝転がった。土の匂いが鼻腔を擽る。臭いのだろうか、それとも、この匂いは心地いいのだろうか。十六夜りさがその真偽に至る事はなかったが、待つにしては良い体勢だった。土、というよりは草原の方が近い。芝生の生え掛かった地面は何とも言えない解放感を感じさせる。
早く起きた所為だろうか、突然瞼が重くなった。暇ではあったが、眠ることが出来る程の時間はない。眠気に抗って頬をパチンと叩いた。
「お前早すぎるだろ……つかマジ、リュックサック背負ってるよなそれ?えぇ?」
追い付いて、ぜぇぜぇと息を荒げながらも十六夜昼夜が到着した。十六夜りさの顔を覗き込むようにしてその形相を露にする。息がシンプルに臭いし、汗が垂れてきた。
「離れろ管理人」
「開口一言目がそれもどうかと思うんだが」
十六夜昼夜は隣に腰を降ろして、リュックサックから同じく水の入ったペットボトルを取り出すと、豪快にそれを半分まで一気に飲み干し、残りを脳天から掛けて水を被った。冷たい水がキラキラと反射しながら散る。十六夜昼夜はペットボトルを空にすると首を振って、余分な水分を飛ばす。
「管理人、貴様は犬志望なのか?よろしい。私の首輪を貴様にやろう」
「意味ねぇだろそれ。つかマジ、それ外すんじゃねぇぞ。学園内でも捕まる」
冗談はさておき、と十六夜りさは遠心力を使って立ち上がり、リュックサックからおむすびを取り出した。大きさは然程大きい訳ではないが、二つあれば昼食には事足りるであろう量だ。
「昼食にしよう。余り早く行きすぎても面白くない。貴様の原付バイクで半分疾走するとして、五時位には着くだろうし」
「お前距離の計算早ェなおい。つかマジ、距離どうやって測った?」
「なんだ、説明してほしいのか?」
「あー……やっぱいい。お前の事だからどーせ何言ってるのか分かんねぇだろ。俺は文系なんで」
十六夜りさは怪訝に眉を細めて、じっと十六夜昼夜を睨みつけた。十六夜昼夜がドギマギしているのを見ると、満足そうに視線を外して、ぽつりと呟く。
「……そうやって、区別するのも、私を肯定していないみたいで嫌だ」
「はいはい、それは世間一般的価値観からすると間違ってるんで、否定しときますよ」
十六夜昼夜も同じようおむすびを取り出す。白色であるから中の具は今の段階では判断出来ない。十六夜りさは手にしたおむすびを口に運ぶと、口を窄めた。
「……梅干し、苦手だ」
続き、十六夜昼夜も同じようにして一口齧った。仄かに塩の味と、具材の醤油ベースの味が口内に広がった。昆布だ。
「うへぇ…俺昆布だけダメなんだよな…つかマジ、何?呪いでも掛けられてるの?」
十六夜りさはそこで視線を合わせる。訴え掛けようとするも、十六夜昼夜は十六夜りさを見ようともしない。おむすびを何気なく口に放り込んで飲み込むと、そこでやっと視線に気付いた。
「あ?んだよ異常者。つかマジ、苦手なんなら貰っとくわ」
ひょいと、おむすびを奪い取って口に放り込む。咀嚼を始める。
「阿呆か。貴様死にたいのか」
十六夜りさは顔を反らして頬を膨らませ、ごろんと草原に寝転がった。暖かい日光が心地良いが、肌に汗で張り付いたシャツが不快だ。ここがもしたった二人のみの空間であれば脱いでいただろうに、と十六夜りさは嘆息し涼しさを得る為にヘソだけを露出させてゆっくりと瞼を閉じた。




