A-2
ふと感想を漏らす。水の温度が普段より高い事に顔をしかめて、少し汗ばんだ服を脱いだ。異常を持つ”サイコパス”も同じくヒトである、と憲法から解釈された為に食事にしても最低限のものが支給される。身体状態は健康そのもので、腹部にはすらっと縦線が入っており、胸部も年相応には膨らんでいた。平均的な数値よりは少しばかり太い脚部は彼女の日課であるランニングによるものだろう。
すぐさま一糸纏わぬ姿となって、汗を流そうとシャワールームに入った。バスタブはない。清潔を保つ為だけに備え付けられたのだから、湯を溜める必要はなかった。ある程度は自由が保証されているし、不便ではないにしても、この軟禁部屋自体が彼女を否定している。その事実が彼女の琴線に触れたのか、ピクリと右こめかみが痙攣した。───私を否定するな。
ぴしゃりと思考を遮断してシャワーの栓を開く。初めは冷たい水だったが、徐々に水温を上げていき、室内を湯気が包み込んだ。かれこれ”サイコパス認定者”となってから半年。そろそろ慣れてきたと彼女は考えていたが、どうもそれは違うらしい。後悔があった。社会を否定していた彼女だが、唯一そんな彼女を肯定し、共に在ろうとした人物の事を彼女は思い出す。その名前を彼女は知らない。最終記録。身長154cm。体重45kg。座高72cm。血液型はB型のRH-。身体的特徴、髪色が色素が抜けて黒色から茶色へと変色。目は眠たげに開かれており、瞳の色は漆黒。所属は水泳部。気だるげな印象もさながら水泳部では輝いていた一人の人物。シャワーを止めて拳を握り締めた、突き出して浴室内の壁を殴る。ぐおん、と籠った反響音。手を伝わる痛みがさらに彼女を虚しくさせた。
「──────悪かった」
そう呟いた。その人物に対しての謝罪だった事は間違いない。しかし、彼女にしてみれば”ただ自分を肯定する為に世界を否定する”という異常に反するものだった。謝罪とは即ち、自分の言動を否定することに直結する。彼女はそんな矛盾を抱えていた。彼女がこうした矛盾を持たなければ、彼女は”サイコパス”足り得ただろう。彼女の持つ矛盾が彼女の精神状態にぐらつきを与えていた事に相違はなく、彼女はぐらつきで壊れてしまいそうだった。
扉を開いてバスローブを羽織り、浴室を出る。部屋に他人が入ってくる機会はそう数は少ない。教育者は今日はこないはずだ、と自分に言い聞かせて彼女はバスローブをはだけさせて襟の部分で髪を拭く。───がんごん、と鉄製の扉が叩かれた。
「開いているぞ人間。と言うよりも、専属講師である貴様には開く術がある筈なのだが?そして言わせてもらうが、本日は休講にしてくれと言った筈だ」
重量感のある音を立てながら鉄製の扉が開かれる。扉の先から現れたのは、黒いスーツを着た青年だった。背は170cmくらいだろうか。特徴と呼べるものは、そのスーツの胸に着けられたブローチだろうか。ブローチには、人と獣が手を取り合う絵柄をした紋章が刻まれていた。彼は、彼女が言った様に専属講師だ。”サイコパス”の義務教育部分を担う専属講師。その大半は講師免許が必要のないこの職の為に、講師を目指すものが講師の実習が経験出来る場として機能しているこの場所で教師の真似事をしている。この青年もその一人だ。───まぁ。彼は彼女と同い年という特例ではあるのだが。
「いやお前がそうしろって言ったんじゃん。つかこの前開けたら全裸でお出迎えされたからな俺?用心よ用心。───因みにお前がそういったのは1ヶ月2日と3時間17分前な」
「………」
もう対策が練られていたのか、と少女は歯噛みする。否定での王道パターンが抑えられては、次なる否定方法を考えなければならないな、と心中思いながら、バスローブをはだけさせる事を止めてソファーに腰を降ろした。
「そうか。そんなに眠っていたのか。ここは時計がないから時間感覚が分からなくて困る。確か、普段は9時だったか?3時間もよくまぁ眠っていたものだ」
「おう。一回来たんだけど起きてなかったからな。良い知らせがあるんだよ」
そういって青年は持っていたカバンから衣服と契約用紙らしきものを取り出した。契約用紙に彼女は見覚えがある。”サイコパス”認定された時に書いたものだ。専属講師は、”サイコパス”自身が選ぶ事が出来る。勿論、会ってから決められるのではなく、顔写真と名前が記された紙面から一枚を選択するだけなのだが。彼女は特に理由もなく、年齢の若い方が自分の思い通りに扱えるだろうという観点から選んだだけに過ぎない。紙面に表示された名前。
管理者:十六夜昼夜
異常者:K-145RS。
異常者とは”サイコパス”の事を記している。彼女には名前が存在しなかった。否、剥奪されたと言うべきだろうか。異常者が異常者だと認識された瞬間に、戸籍に登録された彼女の名前は失われる。それは、家族への配慮であるとともに、異常者当人に対する差別的な制度を示すことで一般人にこの制度を認めさせる事へとも繋がる。
十六夜昼夜は異常者の資格を持っている。彼の異常は正義。その異常を有する彼にとって、正義とは一般論を指し、一般的観点から見た正義を、彼は正義を実行するためになら一切の事を顧みない。十六夜の場合はその異常が露呈していないし、仮に露呈していたとしても彼の異常は『一般的』だ。よって彼は”サイコパス”には当てはまらず、こうして一般人に混じって専属講師なんて事が出来る。
「それで?K-145RSは如何ですかな?こうして俺ってば頑張って許可証かっぱらってきたわけなんだけど」
「否定する。いらぬ名を呼ぶな専属講師。私をその名前で呼ぶな。私には名前がある」
「ん?そんなものねぇけど。つかお前ら”サイコパス”には名前ねぇんだろ?俺も面倒だけどさ、これ規定事項だからなんとも言えねぇんだわ」
K-145RSは舌打ちした。彼女もそれくらいは分かっている。しかし、異常者でなくとも、自分の事を番号で呼ばれる事に苛立ちを覚えていた。自分はデータ上でしか存在しない人物なのだと、社会に生まれた瞬間に与えられる名字も名前も同じように存在しない、赤子以下───いや、生物にだって劣る自身の扱いと、それに従うしかない自分の無力さを感じる。
「私には、名前が──────」
「ねぇっつってんだろ?わかんねぇか?やっぱ獣だわ。お前ら”サイコパス”って。だよなぁ、だって、自分の欲望を抑えられずにそうやって異常を露呈するんだもんなぁ。マジ獣。だよな、獣には許可証なんかいらなかったよな」
「ま、待て十六夜昼夜。私にはさっぱり………」
十六夜はひらひらと契約書類をつまんでK-145RSに晒した。
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管理者:十六夜昼夜
異常者:K-145RS
異常者K-145RSをレベル3と判断し、異常矯正校への通学を許可する。
※レベル3の為、管理者十六夜昼夜の同伴を必須とする。
サイコパス管理委員会
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そう記されていた。