幕切れは華やかに
翌日の土曜日は、よりによって真也のタップダンスの発表会だった。
智はそのことをすっかり忘れていて、ふとカレンダーをみて驚愕した。仕事も出勤予定になっている。しかし無様に泣き腫らした顔は何をやっても落ち着かず、店に電話し朝から欠勤にしてもらった。この職についてから初めてのずる休み、心配する同僚の声にさすがに胸が痛んだ。
真也の催促を真に受けて花束を予約してあったため、午後には何とかましになった顔に化粧を施して花屋に向かった。赤い薔薇だけの贅沢な花束は、真也のような華やかな大人の男にこそ似合うとオーダーした。頼んだものをドタキャンされるつらさは自分の仕事で身に染みている。そして、やっぱり花には罪はない。多分今までの人生の中で一番高い値段の花束を、智は予定通り買い求めた。花屋の晴れやかな顔と咲き誇る大輪の薔薇の赤が、今日の智には眩しすぎてまた涙があふれる。
会場は笠倉駅近くの公会堂で、それぞれのきらきらした衣装を纏った子供達や色鮮やかなドレスの女性達がいる中、黒いタキシードを模した衣装の真也たちはすぐ分かった。姿勢が良く背の高い二人だが、特に真也は波打つ髪をオールバックにして左耳に大ぶりのピアスをきらめかせ、匂い立つような色っぽさだ。浮き立つ子供達をなだめて、冗談を言っては笑わせている。こんな時でもときめいてしまう自分が恨めしかった。
真也達のダンスは素晴らしかった。結局短縮してできあがったプログラムは無駄がなく見せ場が多くなっていて、特にソロの掛け合いは場内から拍手が出る程だった。曲が終わって二人がポーズを決めた時、智は心からの拍手を送った。そして花束を手に躊躇しながら舞台に近づくと、駆け寄った女性に先を越された。
「お父さん、素敵だったわ!」
そう言ってカラーや青い花が混じった洒落た花束を斉藤に渡したのは、彼の妻のようだった。彼も彼の妻も誇らしげで幸せそうで、会場からさらに大きな拍手が巻き起こる。智は自分が分不相応な気がして、思わず後ずさったが、大きな声が彼女を呼んだ。
「智!」
頬を上気させた真也が大きく智を手招きする。呼び捨てにされたのは初めてだ。
「俺に、くれるんだろ?」
そしてあの三日月みたいな笑顔。智は涙をこらえて舞台に駆け寄り花束を渡した。ビロードのように艶めく深紅の薔薇の花束は、晴れ晴れとした彼の笑顔を鮮やかに彩った。
「何だよ、また泣きそう?」
優しく微笑むと、真也は花束ごと智を抱きしめた。踊り終えたばかりの温かな身体から彼自身の甘やかな香りがして思わず身を委ねそうになる。途端場内に起こる冷やかしとどよめき。はっと我に返って回そうとした自分の腕を下ろした。智はいたたまれなくなったが、それは羞恥のせいでなく哀しさのためだと場内の誰が気付いただろう。多分真也でさえ分からなかったに違いない。花束を身代わりにして素早く彼の腕を逃れ、振り返らずに会場を後にした。
これで、お終いだ、全て。幕切れにふさわしい華やかな演出。智はもう涙を隠さなかった。
翌日曜は初めから休みで月曜の朝からの出勤だったが、フルムーンに顔を出した智を待っていたのは、店長木暮の叱責だった。
「土曜日、何で急に休んだの!」
「すみません」
急で申し訳なかったが連絡は入れている。なんだろう、ここまで怒られる理由が分からなかった。
「藤沢様のお直しのワンピース、お渡しする日だったでしょ!」
はっと気付いた。そうだ、土曜日に彼の家族と食事会があるから、と買っていただいたワンピース。自分から袖詰めを申し出た。金曜は来られないから土曜日の午前に来ると彼女は言っていたんだ。
「こっちもあなたに聞いてさえいたら分かったんだけど、何処にあるかわからなくて。携帯は何度かけてもつながらないし。仕方なく今日お渡しすることになったのよ?」
智は震えた。もし真也からかかってきたらと、ずっと携帯は切っていたのだ。土曜日、大切な晴れの日に、あの黄色いワンピースは彼女に着られることのないまま陽の当たらない暗い保管庫にしまわれていた。ああ、どうしよう。
「すみません!」
智は何度も頭を下げた。木暮は「謝るのは私にじゃないから」と言って智の顔を上げさせた。
「藤沢様は文句も言わないで帰られたのよ。今日仕事終わりで寄るっておっしゃってたからね。よく考えて、きちんと対応なさいよ」
昼休憩の時間になっても智は落ち着かなかった。とてもJuneに行く気にはなれず、サンドイッチを買って公園で食べるといった智に、一緒に休憩だった里奈は心配そうに声をかけた。
「どしたの。土曜は真也さんの発表会だったでしょ」
「・・・もういいの。真也さんのことは」
「はあ?何言ってるの?土曜日からずっと、私の携帯に真也さんから電話来てたんだよ。智に連絡がつかないって、何度も、何度も」
「もういいの!」
智は顔を伏せた。色んなことが押し寄せてきて考えられない。当座はお客様のことだ。智は頬を叩いて立ち上がった。
「申し訳ありませんでした!」
その日の夜、智の客、件のワンピースの藤沢真紀は仕事帰りのスーツでフルムーンにやってきた。智の就業時間はとうに終わっていたが、お詫びをするためずっと売り場に出て待機していた。彼女は智も何度か会ったことがある彼氏と一緒だった。
「いいんですよ。栗山さんのことだから、何か理由があったんでしょ、もういいですってば」
真紀は微笑んで智の肩を叩いた。
「いえ!どんな理由があっても、大事な時にお約束していたワンピースが間に合わなかったのは事実です。本当になんてお詫びしたらいいか」
「・・・大事な時って。大した食事会じゃないよ。お袋と親父だけがはしゃいじゃって、俺たち蚊帳の外だったもんな?」
彼氏が割って入ってフォローしてくれる。
「結局、あの日の紫色のワンピース着たんだよ。あれからなかなか着てくんなかったから、俺的には全然OKだったけど?」
彼に顔をのぞき込まれ真紀は真っ赤になって俯いた。紫のワンピースは二人が恋人になるきっかけとなったワンピースで、二人共思い入れを感じてくれていた。智はその気持ちが申し訳なくて、頭を深く下げ続けた。
「じゃせっかくだから、その新しいワンピース着てみせてよ」
彼氏は真紀を促す。智は慌てて包みから直したワンピースを出し、試着室に案内した。
「ほんと照れ屋だからなあ」
真紀が試着室に入ると彼は智に向かってにやっと笑った。
「栗山さんのこと信用してるから、もっといろいろ選んでもらえって言ってるんだけど。フルムーンの服はとっておきの時に着るんだってきかないの。普段だってどんどん着ればいいのにさ」
ありがたい言葉に胸が打たれる。そのうち真紀がおずおずと試着室から出てきた。明るいイエローは真紀の白い肌を輝かせる。襟元のリボンも鎖骨を美しく際だたせていたし、袖丈も智が計算した通りで、ほんの少し詰めただけで服がオーダーしたようにしっくりくる。パールを模したボタンの下から覗く手首もさらにほっそりと美しく映えた。
「良くお似合いです!」
「すごくいいよ、真紀。このままJune行ってマスターに見せびらかそう」
「・・・お知り合いですか?」
Juneと聞いて胸がちくりと痛む。
「あそこの娘の順って、俺の高校の同級生。昔からの行きつけなんだ」
順の儚げな顔とミッシェルを歌った時の面影が甦る。
彼女にも春色のワンピースを着せてみたい。そしてふんわり幸せそうに微笑んだなら、もっともっと綺麗だろう。智はふとそんなことを思った。